サステイナビリティの終焉と建築の役割

 最近、テレビでよく放送されることの一つに「SDG’s」がある。「持続可能な開発目標」と訳される。CMでもよく流され、「環境に配慮した企業です」とアピールしている。正直、胡散臭いと思っている。まるで「錦の御旗」のようだ。「SDG’s」と唱えれば、どれだけ資源を使おうが、エネルギーを使おうが、すべて免責されるかのようだ。耳当たりのいい言葉ほど、気をつけなければいけない。環境ビジネスなるものが成り立つということ自体が自己矛盾を抱えていることを自覚しなければいけない。
 なんてことを日頃考えていたら、今月の日本建築士会連合会の機関紙「建築士」に掲載されたフィリップ・デニー氏の小論に目が留まった。「建築の隠されたものたちの政治性」というタイトルだ。そもそも「建築士」の今号の特集は「隠されたものたち―建築設備を考える」。「建築設備」を見られるもの、または隠されるものとして、いかに設計するかという「設備設計とデザイン」がテーマとなっている。設備配管等を積極的に見せるポンピドゥー・センターのデザインは多くの建築デザイナーを驚かせたが、未だに設備設計の目的は「よりよい建築環境の創出」に留まり、建築デザイナーと一緒になって視覚的なデザインをするということは少ない。建築デザインが終わった後の、あくまで裏方、後始末といったイメージが強い。
 だが考えてみれば、電化製品などの商品開発にあたっては、機能とデザインは一体的に行っている。先に外側のデザインができて、そこに収まるように内部機構の設計を行うということではなく、先に内部の機構や仕組み、機械設計があり、その後で外函のデザインを行う。もしくは両者が一緒になって。そう考えると、「設備設計とデザイン」の関係が今さらながら特集となること自体が、建築界はいかに遅れているかということを示しているのかもしれない。
 フィリップ・デニー氏の小論に戻る。この論文の中でデニー氏は、「バンク・オブ・アメリカ・タワー」(リック・クック設計、2009年竣工)を「ある指標ではニューヨークで『最もサステイナブル』な建築ではあるが、別の指標では最もエネルギーを消費している建築」(P33)と記した後で、「サステイナビリティの終わりはすでに見えて」いると書いている。彼によれば、サステイナビリティは「エネルギー消費や二酸化炭素の排出を効果的に幾分かは減らすことができた」かもしれないが、そのことが、増大する建設工事による二酸化炭素排出量の増加を「相殺できるという幻想」を広めたと批判する。「サステイナビリティ」というのは言葉だけで、実体を伴っていないという訳だ。すなわちこれは「SDG’s」と同じではないか。
 後段では以下のように書く。

○サステイナビリティからは、政治や美学的な常識を構築することに建築がどの程度まで参加できるかを学べる。枠組みとしては、急を要する二酸化炭素の排出や温暖化の問題を解決することは、その性質上不可能であったが、建築と環境の関係における一般の人の考えを改めることには大きく寄与することができた。屋上庭園や太陽光パネルを備えた建物を見ることに近年慣れてきたおかげで、すべての建築が地球環境に深くつながっているという事実を理解できるようにわれわれの感性は発展した。サステイナビリティは、建築が環境へ向けて新陳代謝するために中心的な役割を果たしたのだ。(P34)

 この文章をどう捉えればいいのだろう。しょせんサステイナブル建築は表層的なものにすぎないが、イメージ戦略としての機能は果たしたと皮肉っているように感じる。しかしこの小論はそれだけに留まらない。終盤では新しい建築デザインについて言及する。それが「ラディカルな環境的透明性」だ。すなわち「建築のマテリアリティ」へと直接に切り込んでいくのだ。

○建築材料は環境との間の隠された交換によって生産される。その過程は森林破壊や二酸化炭素の排出などによって構成されている。環境の未来は建築の隠されたものたちを構成しており、それは今日対処しなくてはならない急を要する問題でもある。環境的透明性やマテリアリティの新しい枠組みは、材料の中に何が隠され、何が曖昧にされているかなどの問題を可視化し、新しい建築のデザインのきっかけとなる。(P35)

 真のサステイナブル建築は生まれるだろうか。それは「SDG’s」の先にあることは確かだ。「SDG’s」なんぞに満足し、拘泥していては、その先には進めない。サステイナブル建築の真の姿を見てみたい。それはどんなデザインとして現れるのだろうか。それこそまさにチャレンジングな試みであるし、その登場を楽しみにしたい。