藤森照信の現代建築考

 「現代建築考」というタイトルを見て、藤森照信もついに2000年代以降の建築の評論をするようになったかと早合点してしまった。いや、そうではない。最も早いのはウィリアム・ヴォーリズの「浮田山荘」。最も新しいのは筆者の設計になる「たねや ラ・コリーナ近江八幡」。多くは戦前から1980年代まで。フランク・ロイド・ライトが旧山邑家住宅を残して日本を去った後、残されたアントニン・レーモンドが残した数々の建物。そして、ル・コルビュジエの事務所で働いた面々が戻ってきて、活躍をする時代。さらに、丹下健三が現れ、菊竹清訓磯崎新黒川紀章などが登場する、ポストモダン前までの建築を紹介していく。
 もとは、東京ガスのPR誌「LIVE ENERGY」で20年近く連載されていたもの。本書を通じ、藤森照信が関心を寄せるのは、バウハウスを代表するモダニズム建築を「白派」と置き、それに対してモダニズムに足りない表現を加えたル・コルビュジエを「赤派」をして、両者の流れを汲む建築家の作品を見ていく。とは言っても、自分自身を「赤派」の末尾に加える筆者のこと。近代以降、いかに世界とは異なる日本独自の建築が発展していったかという観点で取り上げれば、おのずと「赤派」に属すると思われる建築家の作品が多くなっていく。
 だが、ただ「赤派」の建築を見ていくだけではない。多くは、これまであまり紹介されてこなかった作品=小品が多い。たとえば、三重大学のレーモンドホール(1951年)、前川國男の木村産業研究所(1932年)、村野藤吾の旧・佐伯邸など。また、与那原カトリック教(片岡献1958年)、カトリック教会(ジョージ・ナカシマ1965年)に至っては、建築家の名前すら知らなかった。なお、松村正恒の日土小学校(1958年)を筆者自身がドコモモで選定されるまで「知らなかった」と述べているのは、何となく心強い。ちなみに、菊竹清訓の東光園は知ってはいたが、「二段ピロティはこれが初。初にして絶後」とはあまり意識していなかった。数年前皆生温泉に行った際に見てこればよかった。
 久し振りに多くの建築作品を、藤森照信の解説で見ることができて楽しかった。やはり藤森照信は、その知識の確かさだけでなく、名文家だと改めて思った。2000年以降の作品に対する藤森の批評もいつか読んでみたい。

○日本の建築界が近代という激変の時代にちゃんと機能できたのはさまざまな傾向も建築家が存在したからで…村野藤吾白井晟一、今井兼次からなる一群の存在…のおかげでどれほど日本のモダニズムの時代は豊かになったことか。彼らは、1920年代後半にバウハウス…とル・コルビュジエの影響が入ってきたとき、その力と魅力を認めながら、自分たちがすでに立脚するプレ・モダニズムから動こうとしなかった。/モダニズムには人間と建築を結ぶための糸が一本抜けている、と見ていた。…村野は最晩年…建築史家の関野克に対し、/「遠目はモダニズム、近目は歴史主義」/と短く語っている。モダニズムには、近づいて初めて見えてくる細かい造形と仕上げの妙が欠ける。(P3)
○”ビルディング・タイプ”、日本語に直せば“建築類型”。建物の用途ごとの形式を指し、ビルディング・タイプがひとたび成立すると、一目見て何の用途か分かるようになる。たとえば、学校は学校らしく見えるから、病院やオフィスと間違えることはない。/建築家の夢の一つは、自分のデザインによって一つの時代のビルディング・対応を決めることだが、そんな広範な貢献をした日本近代の建築家を私は一人しか知らない。/丹下健三香川県庁舎が1958年に完成して以降、全国各地の県庁舎はじめ市庁舎、町役場はもちろん文化施設にいたるまで、数多くの公共建築が香川県庁化していった。(P101)
○思想の奥に数学を置き、面と線で構成し、理念的には抽象性を、感覚的には細く薄く軽いことを追求したのがバウハウスであり、この流れは、やがて鉄とガラスの超高層を生む。/バウハウスに始まる白派を、戦後にたどるなら、まず清家清がいて、次に槙文彦が現れ、谷口吉生が続き、やがて妹島和世と西澤立衛にいたる、とみなしていいのではないか。…主流であるバウハウス派=白派とは対比的に、コルビュジエ派=赤派は、数学的秩序が建築表現を支配することを嫌う。…ル・コルビュジエは…1932年のスイス学生会館において、“白い箱に大ガラス”を離れ、自由な曲線や曲面、打ち放しコンクリート、自然石の使用へと舵を切る。抽象性を止めて物の存在感を求め、ここに赤派は始まる。…存在感を生むのは、具体的な物であり形であり、その背景には自然があり文化がある。…赤派は自然と文化の数だけ、具体的には建築家の数だけ分かれて発生しうる。(P141)