建築で都市を創るということ 「ニュータウン」の意味

 先に、「若きプランナーが目指した高蔵寺ニュータウンの未来像」(http://ozakigumi.hateblo.jp/entry/2019/04/05/233638)と題して、「高蔵寺ニュータウン50周年記念事業 公開研究会」の様子を投稿したが、後段で若林先生が「『ニュータウン』という言葉は『人が一から創り上げた街』という意味であり、『高蔵寺ニュータウン』という名称はその意味でも固有名詞であり、大事にしてほしい」と言われたと記述した。このことの意味について考えていた。
 その前に、「津端先生が『自分が住建へ行けばよかった』と言った」と書いたが、当初、この言葉の意味は、「住建部門が本社からの要請を受けて、マスタープランでの計画以上に詰め込んで住宅を建設したこと。かつ、タワー型ではなく、かまぼこ型の中層住棟を詰め込んで配置したこと」に対する意見だと考えていた。意見交換会でも、住建部門で働いたと思われる公団OB氏から、「現状の課題に対応せざるを得なかった」という意見があった。
 だが、よくよく考えてみると、高蔵寺ニュータウンで計画したのは、「ワンセンター方式とペデストリアン・デッキ」であり、タワー状の住棟を囲んで、中層・低層の住宅を配置するという計画は、まだ道路形状がリング状だった時のもの。フォーク状に開いてからは、トゥールーズ・ラ・ミライユに倣って、センター地区からペデストリアン・デッキと一体化した板状の建物が枝状に連なっていく都市構造に変更されている。このペデストリアン・デッキと一体化した建物の建設は、住建部門で行われる予定だったから、上記の津端氏の言葉は、「自分が住建へ行って、ペデストリアン・デッキと一体となった建物の建設を担当すべきだった」という意味ではないか。そう考え、いったん投降した後で、この趣旨の言葉を付け加えた。
 それで、若林先生の言葉に戻ると、「ニュータウンは人が一からつくった都市」という意味は、「単に計画するだけでなく、最後までつくる」という意味ではないか。もし、津端氏がその後、住建部門に移って、ペデストリアン・デッキまで建設したとすれば、そこで初めて、計画から建設まで「ひとりの人」が作ったと言える。建築家「津端修一」としてはそれこそが本望だっただろう。しかし現実はそうはならなかった。計画はしたが、建設は別の担当者が、別の使命をもって建設をし、結果的に当初の計画は最後まで貫徹されることはなかった。それはもちろん時代の変化もあり、仕方ないことではあったが、当初の理念・理想をもってつくり続けていたらどんな都市になっていただろう。まさにそれこそ「ニュータウン」という言葉にふさわしい街になっていたのではないか。
 今、我々は「都市計画」を、「都市の計画を立案し、それを実現するために『規制』や『誘導』を行うこと」と考えている。だが、千里や高蔵寺などのニュータウン建設が精力的に進められた時代には、都市計画とは単に計画を作るだけではなく、都市全体をつくることまでを考えていた。しかし、建物の設計・建設が別の主体で実施される場合には、建築主の要求などもあり、都市計画で想定した形状や内容の施設が建設されないことも多い。その後、多くの地区開発などにおいて、マスター・アーキテクト方式が採用されたり、デザインコードなどが作成されるのは、建物の設計・建設が都市計画時のコンセプトに沿うようにするための仕組みである。そう言えば、ニュータウン案内の際に、若林先生から「デザインコードや地区計画のようなものはあるのですか?」と聞かれた。それはこういう意味だったのか。
 対談の冒頭で土肥先生が、「時代の変化に応じリニューアルされ、変わっていくことは仕方がないが、理念・理想は繰り返し追求されるべき」と言われた。高蔵寺ニュータウンの理念・理想は何だったのか? 今となっては「それはこれです」と言うことは難しい。だが、ニュータウンは「人が創り上げた都市」と定義した時、それこそが理念であり、理想ではないかと気が付いた。建築もまた人がつくり上げるもの。建築もニュータウンづくりの一つと思えば、「建築で都市をつくる」という意識が不可欠なはず。それはニュータウンだからこそ必要な建築の作法ではないだろうか