日本の建築☆

 隈研吾は好きではない。その作品は、無理に木材などを使用しているような感じがするし、彼自身にも権威主義的な臭いを感じる。それで、本書もそうした偏見を持って読み始めた。
 「日本の建築」というタイトルだが、対象とするのは明治以降の日本建築。タウトが発見したと言われる桂離宮から、それに先んじた伊東忠太の反逆など、西欧建築を中心に始まった建築教育から日本的な建築が見直され、また模索されていった状況を、建築家の眼を通して論じていく。
 タウトの次はフランク・ロイド・ライトを経て、藤井厚二と堀口捨巳を、早過ぎた「折衷」建築家として高く評価する。ここで、隈は6人の「折衷」建築家の名前を挙げる。藤井、堀口の二人の他に、吉田五十八村野藤吾、アントニン・レーモンド、そしてシャルロット・ペリアンである。ちなみに、私はシャルロット・ペリアンを知らなかったが、民藝運動に大きな影響を及ぼしたプロタクト・デザイナーである。
 そして、隈は、吉田五十八の作品を批判し、村野藤吾を西からの、吉田に対する批判者として取り上げる。しかし、村野は「小さい建築」は設計しなかった。そこで評価するのが、アントニン・レーモンドである。レーモンドは、帝国ホテルの設計をするライトとともに日本を訪れ、日本の民衆建築に魅せられ、その後独立し、戦後、再度日本に渡り、活動する。レーモンドは日本で、西欧的な設計手法と日本独自の素材・建築技法を融合させた他に類を見ない建築を多数残した。
 そして最終章「冷戦と失われた10年、そして再生」では、アメリカのMOMAが日米和解のために起用した吉村順三と、それに抵抗する丹下健三を「伝統論争」の本質として論じる。そして最後に取り上げるのは、建築計画学の鈴木成文と建築構法学の内田祥哉である。隈はこの二人を学生時代の「天敵」と呼ぶ。だが、結局、鈴木の51C型公営住宅から始まる社会に根差した住宅、そして内田の、素材を基準とする建築論を評価し、「日本の建築」を高く持ち上げるのである。
 これまで近代以降の日本建築史といえば、藤森照信を筆頭に読んできたが、それらはやはり建築史家による建築史。一方、本書は建築家による近代日本建築史観。建築史学的にはどこまで評価されるのかわからないが、建築家・隈の眼からはこう見えるということで、それはそれで興味深い。そして、建築計画や建築生産に近いところで仕事をしてきた私としては、心嬉しく思う。
 とは言え、隈の作品がこうした建築論を実作として現実化しているかというと、どうなのか? やはり無理に「使いました」感が漂う。もっとも私もそれほど多くの隈作品を見ているわけではない。建築家・隈は横に置き、本書は十分楽しく、また勉強になる一冊であった。

○タウトは桂離宮伊勢神宮ギリシャのパルテノンに通じる傑作と断じたが、伊東は…法隆寺の円柱とパルテノンの円柱を強引に結びつけ、西欧に学ぶことを強要させられていた日本人の鬱屈を、一挙に解き放った。/そのようにして日本建築は、西欧人からは自分探しの鏡として、日本人からは自己肯定の材料として、たびたび光を当てられ、一種の精神安定剤としてしばしば利用されてきたのである。(P16)
○ヨーロッパの分離派は…従来のアカデミズムからの分離を目標に掲げて…芸術性を探究したが、彼らの丁寧で慎重な分離作業は、完璧な切断を目的とする「革命」派の登場によって忘れられてしまったのである。…しかし、分離派がウィーンやダルムシュタットに残した作品の実物に触れたならば、その空間と質感の豊かさは圧倒的である。…敷地の特質やその場所の文化に対する愛情が溢れ、われわれの心を強く打つ。(P64)
○レーモンドは、丸太を現代につなぎ直したように土間を再発見したのである。正確にいえば、丸太も土間も、土着的・原始的なものが保存されてきた日本という特殊な場所に長い間、眠っていた宝であった。レーモンドは、軸線やピロティという西欧的な装置をヒンジとして、その宝を現代へとよみがえらせたのである。(P174)
○伝統論争とは一般に、貴族的な弥生派と土着的な縄文派の対立として理解されているが、その本質は吉村順三批判であり、アメリカによって仕掛けられた、安易なる伝統建築とモダニズムの和解・談合に対する批判であったと僕は考える。…丹下は「美しきもののみ機能的である」という有名なセンテンスを記している。それは「機能的なものは美しい」としたモダニズムの基本テーゼの大胆な反転であり、技術をはじめ、機能的なものを軸とした日米の和解工作に対する、根本的な異議申し立てでもあった。(P190)
○廊下というサーキュレーションに特化した空間と、開き戸という不器用なパーテーションになじんできた西欧にとって、「最小限住宅」の課題はハードルが高かった。…51C型と社会との関係は、その対極であった。51C型はローコストで建設も容易な公営住宅の具体的モデルプランであり、実際に数多くの公営住宅でそのプランは実行された。さらに民間のアパートにおいても徹底的にコピーされ、戦後日本の住宅の原型となったのである。51C型は本当の意味で社会と一体であり、社会を変えた。(P217)
○日本建築では、まず硬い素材から施工を始め、そのあとに徐々にやわらかい素材をそこにはめたりはったりしていく。その施工順序によって現場での様々な微調整が可能となり、いい加減にも見えるゆるいモデュラーコーディネーションが、見事に合理的で柔軟なシステムとして機能する。施工の順序という時間軸が内蔵されていることが日本建築を日本建築たらしめているのである。(P236)