ショッピングモールから考える

 思想家・哲学者の東浩紀千葉大建築学科出身のフォトグラファー・ライターである大山顕の対談。大山顕は住宅都市整理公団総裁としてその名を知ったが、「団地マニア」「工場萌え」などの火付け役としてかねてから注目してきた。そんな彼が今度は「ショッピングモール」に注目したと言う。東浩紀とどんな会話をしているのか、気になって本書を手に取った。
 元は2014年に実施された3回の対談。そして付章の第4回は、ランドスケープ・アーキテクトの石川初を迎え、2015年1月に開催されている。三浦展の「ファスト風土化する日本」などでは批判的に描かれているショッピングモールだが、二人はこれを肯定的かつ未来的に捉えていく。「モールのイスラム起源説」などとにかく思い付いたことをお互いしゃべり、話はどこまでも広がっていく。二人が本当に面白がり、どんどんと話が展開していくところがまた面白い。東によるディズニーワールド・レポートはやや冗長だが。
 建築的・都市計画的には、モールは内部空間の建物であり、ストリートの思想で構築された空間であること。しかし快適なバリアフリー空間は新しいコミュニティと普遍性の場になっていること、など興味深い指摘がされている。また、経験を提供する場であり、ディズニーワールドの訪問を例に、自宅から帰宅まで、徹底して囲い込んでしまうアメリカ的な観光戦略にモールの究極の方向性を見たりする。
 その他にも、シンガポールでは屋台村に行くのは観光客ばかりで一般庶民はモールにいるとか、モールの架空の世界からバックヤード論を展開したり、エスカレートと吹き抜けのモール対エレベーターの百貨店とか、東京のヒルズはどこも丘ではなく、虎ノ門ヒルズは人工的にヒルズを作っているとか、ドバイのモールは街であり、庭園であり、パラダイスだとか、コンパクトシティはモールとして実現するとか、モールは究極の人工環境だからこそ、人が自然に求めるものが露呈するとか、とにかく盛り沢山に楽しい話題が次から次へと展開する。
 快適さと環境負荷の問題をどう考えるかなど、モールを全面的に肯定することには多々問題もあるような気もするが、とにかく二人のウェーブ感に圧倒され、一気に読み終えてしまった。面白い本です。僕らはもっとモールについてきちんと評価し、その意味するところを理解しなければいけない。ただの商業施設だと侮っていると、建築屋は都市デザインの主流から取り残されてしまいかねない。モールはいまや、そういう代物になっていると思うべきだろう。

○(O)ぼくは建築の本質とは、床が平らなことだと思っているんです。ほかの動物と違って、人間は平らなところでしか暮らしていけないという弱点がある。建物を建てる前には、必ず土地を平らにしなければいけない。・・・これこそが本質だと思うんです。(P55)
○(O)ショッピングモールはものを売るところではなく経験を提供するところだということは、まさにジャーディが言っていたことです。つまり、ぼくたちが行っているモールというのは、はじめからそういう観点で設計されている。売りものになっているのは体験であって、じつは商品そのものではない。(P59)
○(O)田舎者の感覚からすると、重要なのは生産力のある土地の面積であって、道ではない。しかし成熟した都市は、道や通りが中心になります。・・・ここまでの話をまとめると、「ショッピングモール=ストリート=都市」であり、「百貨店=フロア=田んぼ」。・・・/(A)ぼくの言葉でいえば、前者は、みな局所しか見ておらず外部や空間がない世界、後者はむしろ鳥瞰図のような俯瞰がある世界となるけれど…。(P164)
○(A)ショッピングモールは、「人間にとって最適な環境をどうつくるか」というひとつの実験場だと思うんです。トイレの位置がわかりやすいのも、モール的作法があるのも、最適な環境をつくり出すためのステップであると。しかも、国や地域の文化に影響を受けない実験場であるという部分が、とくに面白いと思うんですよね。どんな文化でも受け入れてくれる。(P240)
○(O)私事だが、先月母や入院した。で、できて間もないその大病院に行ってみたら、その一階はまるっきりモールのようだった。そして中央の通路はその名も「ホスピタルモール」と名付けられているではないか。また、知り合いの「火葬場マニア」に聞いた話では「最近の新しい火葬場は、内装がモールに似ている」ということだ。/きっと文字どおり「ゆりかごから墓場まで」すべてがモール風になっていくのだろう。(P256)