希望の名古屋圏は可能か

 本書の中の一節を執筆した知人からいただいたものの、大部であることから途中で挫折し、しばらく積読状態にあった。コロナ禍で図書館が休館となり、再度、最初から読み始め、ようやく読み終えた。名古屋市立大学大学院経済学研究科の教員や同窓会有志による研究会活動をベースに、「希望学」の旗印の元、経済学を専門とする4人の編者と多くの執筆陣により作成された。では「希望学」とは何か。「希望と社会を切り開く新しい挑戦であり、希望の意味、そして社会にはぐくまれる条件などを考察する学問」というのだが、正直よくわからない。「発展学」とは違い、「危機からの脱出に向けた人々の営為に関心を抱く」というのだが、まだよくわからない。
 どうやら、キーワードは「すでに起こった未来」と「経路依存性」らしい。そして、NPOの可能性を高く評価する。編者3名による総論である第1編「地域社会を見る目」に続き、第2編「中小企業や伝統産業でも生き残れる」では、木型工業、有松絞、尾州の繊維産業、車いす産業、そして農業の各分野における、経路依存性の上で「すでに起こった未来」を伸ばそうとしている事例を紹介する。具体的には、ドイツで受注・デザインして有松で生産する試みや工業繊維への転換、工場農業などである。また第4編「NPO活動が地域社会を成熟させる」では、高蔵寺ニュータウンや高齢社会におけるNPOの活動などが紹介される。そして第2編と第4編の間の第3編では、文学・音楽・美術・生活の各分野で活躍する文化人や実践者ら17人が文章を寄せている。これが実に多様で興味深い。名古屋圏のやきもの産業の歴史や日間賀島における島起こしの記録、さらに柴田県議も論を寄せている。
 再読のはずが、今度も第1編でひどく難渋し、また途中で放り投げそうになったが、がんばってそこを読破すると後は一気に読み終えた。やはり現場からの文章は迫力があり、気持ちが籠っている。「希望の名古屋圏は可能か」というタイトルは「名古屋圏に希望はあるか」という問いかと思われる。そして編者たちの回答は、「伝統と歴史を踏まえ、『すでに起こった未来』を見逃さず、経路依存性を大事に取り組めば、希望は開ける」といったところだろうか。本書で紹介されるように、多くの先駆的事例はある。「希望を持て」と勇気付けてくれているのかもしれない。

○市民が社会的課題解決に対する当事者意識を喪失し、その解決をもっぱら政府に委ねることに疑問を感じない存在になることを「市民の顧客化」現象という。…しかし…政府の万能性は幻想でしかない…。生身の人間の幸福は、当人が住む日常的生活圏の在り方と無縁ではありえず…社会的課題解決能力を有した健全な市民社会の再構築は今我々に求められている最大の課題と言ってよいのである。(P63)
○今は小さいが将来は成長する現在という要素は、ドラッガーが「すでに起こった未来」と読んだものであり、本書の名古屋圏の希望学ではとくに注目したい。…名古屋圏には…永井伝統産業の歴史がある。…今日の自動車産業、航空宇宙産業に至るまでの多くの産業群は、経路依存性によってはるかな過去の起源にまで遡ることが出来る。/われわれの希望学からいえば、将来のものづくり愛知もこの地域特性の延長上で展望されるべきである(P98)
○日本を代表する繊維工業集積地「尾州」…は幾多の生産体制継続の危機に見舞われ、その都度需要のあるマーケットを絞り込み、そのマーケットに対応するために技術を整えてきた。原料も絹から麻、麻から綿、綿から毛織物と転換させ、新たなる市場に進出することを可能とし、乗り越えてきた歴史を見ることができる。(P164)
○愛知県より小さな地方では演奏人口がおそらく十分確保できないし、さりとて東京のように大きな都市では逆にまとまりが悪くなり…長期にわたる継続的な音楽祭開催は不可能であったと思われる。…このコンパクトさゆえに、人間関係の密度が濃いことにも気づかされる。…このような一体感があるところが名古屋圏の強みではないだろうか。(P256)
○国政のように…イデオロギーの実現を前提として行われる政治とは異なって、地方政治は住民の身近な暮らしに立脚した課題解決を前提として行われる政治であることから、政党本位ではなく、政策本位でなければならない。…政治家は…常に広く公平に有権者の声を聴き…住民のための政治、すなわち、広く公の利益に適う政策の立案と決定を行わなければならないのである。…国政は国でしかできないことに純化すべきであり、国政政党は地方政治に支配的に影響力を及ぼすべきではない。(P365)