白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか

 日本の都市計画界の重鎮・蓑原敬氏に饗庭伸を始めとする若い7名の都市計画の研究者や建築家が講義を聴き、対談をする。1部「講義編」では、2011年3月から13年2月にかけて蓑原氏の講義を中心に開催された研究会での討議を紹介し、2部「演習編」では若手7人からそれぞれの問いが提起され、みんなで議論をする。
 1部「講義編」のテーマは、「近代都市計画とは何だったのか」、「3.11で日本の都市計画は変わるのか」、「今、私たちが引き受けるべき課題は何か」の3つ。第1講ではピーター・ホールの「明日の都市」を始めとするテキストを読み込むなかで、近代都市計画を振り返り、グローバル化した現代における公共性と民主主義のあり方を問う。第2講では震災を契機に産業構造と人口を視野に入れた都市計画のあり方を検討する。最後の第3講では、マーケットの圧力、設計主義の実態、都市が既にある現代における都市計画の課題を明らかにする。
 これらは根源的な都市計画のあり方を問うている。現代の都市計画はこれまでとは違い、成長を前提としない、エネルギー問題や自然、災害などを考慮する、設計主義だけに陥らない、成熟時代の都市計画が求められている。
 こうした議論の上に、続く2部はより具体的で直接、都市計画に求められるべきものを問うている。中でも面白いのは、「都市はどのように縮小していくのでしょうか?」と問う饗庭伸の提起だ。鶴岡市での取組をベースに、スポンジ化する市街地を対象に、脱市場化を前提にしていかに都市をコントロールしていくかを考える。その前に「コンパクトシティは暮らしやすい街になりますか?」という野澤千絵の問いがあるが、固定観念によるコンパクトシティ信仰を問い直し、施設整備の積み重ねで全体をコントロールすることの有効性などを議論していく。
 その意味では、建築家である藤村龍至の「都市はなぜ面で計画するのですか?」、日埜直彦の「計画よりもシミュレーションに徹するべきではないですか?」の議論も興味深い。
 結局、本書で問われているのは、現代の都市計画はどうあるべきかという根源的問いである。そのためには漫然と都市計画法に基づく事務を重ねているのではなく、より行動的に、より現実的に、そして経済や文化、歴史その他人間の社会活動全般に根ざした総合的な取組になっていかざるを得ない。
 答えはない。各自が考えるべきことだ。だが現実の社会は今そこにあり、かつ変化しつつある。蓑原先生が次世代の人々に伝える大きな問いである。都市計画は意味があるのか。本当に必要なのか。本当の意味で求められている都市計画はある。だが十分に答えられていない現実。だからこそ、その答えを常に探し求めていかなければいけない。たぶん日々の実践の中で。今日の日々の積み重ねの先に明日は現れるのだから。

白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか

白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか

●都市計画はエンジニアリングではありません。最近、英語圏でもアーバンプランニングとは言わず、アーバニズムという言葉を使いだしていますが、都市計画を社会現象、文化現象として意識していることの現れです。(P016)
●私は、日本の都市計画のルーツは協調的な村落共同体ではなくて、競争的な市の方ではないかと思っているんです。特別なところで他人が集まって、反目しながら暮らすなかで、ルールをつくって空間を整備していくのが都市計画だと思うので、村落共同体的なユートピアが原点だと思っているわけではないので。(P043)
●都市像が拡散化しているなかで、計画という行為を通して何をするのかを考えると、恐らく個別具体のプロジェクトを手探りのなかでつくっていくしかないのではないか。その前提としてマスタープラン的なものが評価基準的に必要という議論はあるにせよ、将来共通目標像としてのビジョンは存在しないんだから。ただその際に、そもそもマスタープランにそのような評価基準的機能は持ちうるんでしょうか。それが難しいんだったら、思い切って役に立たないと言った方がいいのかもしれません。(P136)
●成長期の都市計画には、①逆立ち型、②ボトムアップ型、③青い鳥型、④コーポラティズム型の課題がありました。成長期と縮小期はスプロールからスポンジ化へ変化をし、脱市場化を前提とした、超小規模化、多方向化、場所のランダム化が特徴となります。鶴岡の事例からは、①・・・小さな単位で目的と手段の逆立ちがなくなること、②・・・小さな空間単位で用途が混在する空間が目指されること、③・・・メニュー型で小さな都市施設が示されること、④民間による小さな都市開発が行われること、の4点がこれらの課題に対する回答であると私は整理しています。(P182)
●理念的には中心にコンパクトに職場が集積するべきという考え方があるかもしれませんが、産業はどこで起きるかわからず、中心で起きるかもしれないし、全く別の条件に規定された郊外かもしれません。車社会の発達が地方都市の空間をフラット化し、そのことが逆に農家レストランやバイオベンチャーの成立を可能にしたわけです。そう考えると、コンパクトシティよりも、小規模にランダムに空間が変わるスポンジ化を前提にする方が現実的ですよね。(P186)
●都市計画は所詮都市計画、所詮、アウトプットは技術であり空間です。しかし、その都市計画が担い手や受け手の思いを巻き込んで、都市の生活や人生の奥深いところに手を伸ばし、それが実際に人々の心に届くものになるのであれば、都市計画はこれからも必要とされ続けるのでしょうし、そうでなければ、あってもなくてもいいように思います。(P249)