高蔵寺ニュータウン草創期の話

 映画「人生フルーツ」が全国的にヒットして、津端修一夫妻のことは高蔵寺ニュータウン内でも大きな話題になっている。先日は妻が、正月に東海TVで再放送された番組を録画して友人と鑑賞会をしていた。私も、社内の本棚にあった「高蔵寺ニュータウン計画」(高山英華編、鹿島出版会、昭和42年発行)を取り出して読み始めた。そちらは遅々として進まないが、友人の伝手で、計画当時、日本住宅公団で、津端氏と一緒に仕事をしていた土肥先生を訪ね、当時の話を伺う機会を得た。映画や「高蔵寺ニュータウン計画」を読んでいただけでは知り得ないさまざまな話を伺うことができた。
 映画では津端氏が「マスタープランが実現できなかったこと」について、批判と諦念の思いを表している。映画などからは、「もっと自然豊かな住宅地にしたいと考えていたが、土木技術者の参加により実現できなかった」ことを悲嘆しているのかと思っていたが、そうではなかった。「建築」対「土木」の対立ではなく、造成後の住宅建設にあたって、マスタープランが実現できなかったことを嘆いていたと言う。いわば、「建築」対「建築」の対立。「高蔵寺ニュータウン計画」の7ページから19ページにかけて、近代的な中高層建物が並ぶスケッチが描かれているが、これこそが津端氏が高蔵寺で実現したいと考えていたニュータウンの姿だったのだ。改めて津端氏は建築家だったのだと思った。
 津端氏は東大卒業後、レーモンド事務所を経て、1955年に住宅公団に入社し、阿佐ヶ谷住宅や赤羽台団地などの団地計画などに従事した後、1961年に名古屋へ転勤した。当時、名古屋支社長を務めていた青樹英次氏が、名古屋圏は首都圏や関西圏に比べれば、まだ住宅問題がそれほど逼迫していなかった状況の中、将来を見越せば、名古屋圏にもニュータウンの整備が必要だと主張し、本社を説得した。こうして1960年に名古屋地区にニュータウンを建設するという方針が決定すると、若林時郎氏が名古屋支社に配属され、候補地の選定作業が始まった。
 1961年に名古屋支社へ赴任した津端氏は、東大ヨット部の後輩である川上秀光氏を部下に、土田旭氏、小林篤夫氏を担当者として、ガイドプランの作成を始めた。ちなみに御船哲氏は若林氏と同時に、候補地選定等を担当していたが、1961年度末で異動。計画決定後に再び高蔵寺ニュータウンの整備を担当するようになる。また、1961年11月には東大高山研究室に基本計画策定を委託するが、これも津端氏から川上氏を通じて委託をしたもので、実際には津端氏の指示のもとに作業が進められた。
 私は、高山研が作業に参画した時点から、津端氏の構想と齟齬が生まれた可能性もあると思っていたが、全く予想は外れた。1961年6月のガイドプランで描かれた空間構成が、高山研に委託した後の61年11月の第1次マスタープラン、土木技術者が参加した62年12月の第2次マスタープランと大きく変化しており、この過程で、次第に津端氏の理想から離れたものとなりつつあったのかと思ったのだが、けっしてそんなことはない。
 高蔵寺ニュータウンの整備手法は、青樹氏の構想の時から、「愛知県は区画整理事業の先進地なので、区画整理方式で行く」とされていた。そして62年4月の高蔵寺開発事務所開設時から土木技術者が参加して、先買い地や換地計画など、区画整理事業としての事業性についても検討しつつ、マスタープランの修正作業が進められた。土肥先生は62年5月に、高蔵寺計画への参加を希望して、本社設計課から異動。専ら建築技術者と土木技術者のつなぎ役を担っていたという。もちろん喧々諤々な議論はあったが、津端氏のリーダーシップの下、円満なムードの中で作業は進められ、第2次マスタープラン、さらに1963年の事業計画原案、本所との調整を経て、64年には認可申請がされている。ここまで全て、津端氏がリーダーとして調整し、まとめたものだった。
 土肥先生や川上氏、土田氏、小林氏など、マスタープランの作成に参加した主だったメンバーは、63年から64年にかけて、次のニュータウン開発が始まった筑波研究学園都市の計画立案等のために異動したが、津端氏はその後も70年代まで名古屋支社に残って、高蔵寺ニュータウンの整備のために奔走を続けた。たぶんその当時のことを最も知っているのは、御船氏だと思われるが、既に鬼籍に入られている。
 ニュータウンの実現にあたっては、愛知県や春日井市との調整も大きな仕事だった。愛知県とは、当時、策定が進められていた新地方計画との整合や、河川改修等に関する調整が行われている。最大のネックは春日井市財政問題であった。これについても、津端氏の海軍時代の後輩である東工大の石原研究室に委託し、春日井市との調整に当たってもらった。春日井市側では当時の開発課長がよく尽力して、市会議員や市役所内の合意形成に動いてくれたそうだ。春日井市OBに確認すると、それは後に春日井市長を務めた鵜飼氏ではないかということだった(その後、中日新聞春日井支局が1998年に発行した「ふるさと高蔵寺の光と影 30歳のニュータウン」を見ると、「1966年から市の企画部長を務めた平井敏男氏が、市側の窓口として尽力した」とされている)。また現在、センター地区を管理運営している高蔵寺ニュータウンセンター開発(株)についても、津端氏が奔走し、公団だけでなく、愛知県や春日井市からも出資を引き出して設立されている。
 計画策定後の事業推進にあたっても、このように津端氏が中心となって調整・整備が進められたが、土肥先生が津端氏の言葉の中で特に記憶に残っているものとして「住宅を設計するように、団地を設計する」という言葉を挙げられた。千里ニュータウンは土地利用や施設配置が中心の平面計画だったが、高蔵寺ニュータウンは先述したスケッチにあるように三次元のアーバンデザイン、立体計画だった。そこには、施設ごとの低層・高層のみならず、デザインまでが構想されていたが、それらは公団の住建部隊が乗り込んで作業を進める中で、建設密度、住戸規模、住棟配置など、当時の標準設計に合わせて建設が進められ、津端氏の構想からは大きくかけ離れたものとなっていった。そこが一番心残りだったのではないかと土肥先生はおっしゃっていた。
 ちなみに、「高蔵寺ニュータウン計画」では第1部「Ⅲ 残された課題」として、「住宅都市はニュータウンか?」「市民不在の計画」「プランニング組織」などの刺激的な考察が記述されている。ここは誰が執筆したのかと聞いたら、「土田くん」と答えられた。他に、第1部第1章は土肥氏、第2章・3章は土田氏、第2部第6章以降は若林氏とのこと。
 津端氏は公団を退社後、広島大学に赴任している。当時公団で進められていた賀茂学園都市との関わりについて尋ねたが、土肥先生自身が賀茂学園都市を担当していたものの、特に関わりはなかったとのこと。広島大移転にも特に関わることなく、しかしこの時期に市民菜園を始めている。それが「人生フルーツ」に描かれる自然とともに生きる暮らしにつながったとすれば、津端先生にとって広島大赴任は大きな転機となる出来事だったのかもしれない。
 今回、土肥先生にお話を伺って、これまで津端氏と高蔵寺ニュータウンとの関係について大きな誤解をしていたことに気付いた。津端氏は自分のできる限りの力を尽くして、高蔵寺ニュータウンの実現に尽力をした。そして津端氏は最後までアーバンデザイナーであり、建築家であった。そのことに気付かされた、大変有意義なヒアリングだった。こんな機会を与えてくれたみんな、どうもありがとう。そして土肥先生、ありがとうございました。
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高蔵寺ニュータウン計画 (1967年)

高蔵寺ニュータウン計画 (1967年)

*1:注:上記内容は、ヒアリング時のメモと記憶に基づいて記しており、事実と異なる事項があった場合の文責はすべて私にあります。ご容赦ください。