未来都市はムラに近似する

 北山恒という建築家は、名前は知ってはいたが、どんな作品があるかまでははっきりとは知らなかった。本書は、横浜国立大退任時の最終講義とその後の論考、及び、北山氏が設計した二つの建物内に置いて、教え子である高橋一平、中川エリカの二人の若手建築家と交わした対談が掲載されている。もちろん図面や写真も掲載されている。実作を前に語られる言葉はその意味がよくわかる。
 20世紀以降の資本主義や経済成長の時代に建設されてきた建築物は、資本や政治権力に奉仕するものだった。しかしこれからの時代、建築は地域社会における生活を支えるものにならなくてはいけない。同様に、これまでは再現性のない、特殊解こそが求められてきたが、建築は社会的財産なのだから、他にコピーされ、社会に根付くタイポロジーな建築を求めていきたい。対談が行われた二つの建築物、「HYPERMIX」と「中央ラインハウス小金井」を見れば、そうした主張がしっかり実作となっていることが確認できる。
 しかし同時に、両者ともに、建築主の理解があって生まれており、経済性の観点からは少なくとも短期的にはプラスになっているわけではない。一方で、経済性を中心に設計され、建設される建築物が大半でもある。社会に根付くタイポロジーな建築物になってほしいとは私も思うが、建築の力だけでどこまで社会を変えられるか。その点は正直、厳しいものがある。建築で社会を変えられると思っているとすれば、建築家としての驕りかもしれないが、一方で、建築が人間の行動を規制することも事実。今の時代、建築家には、社会を先取りしつつ、社会の変化とうまく波長を合わせた設計ができることが求められているのかもしれない。
 「未来都市はムラに近似する」というタイトルだが、ここでいう「ムラ」とは必ずしも「地方」のことではない。地域とともに、生活を中心に、しっかり地に足を付けて生きていけるような共同体。本書では広井良典やルフェーブルらの言葉が引用されるが、今の時代、多くの人々が思い描いている理想でもある。「コロナ禍で、都市の意味と役割を再考する」の講演の際に本書の存在を知ったが、必ずしもコロナ後の都市や建築を語ったわけではない。しかし、これからの建築のあり方、建築家の役割を考える上で、意味のある論考ではあると思った。

○「空間」は人々の行動を規制する力を持つために、社会制度を実体化する装置ということができる。しかしその社会制度が変わるならば、空間を扱う建築家の役割も変わらざるを得ない。拡張拡大の社会に適応してきた建築家や都市計画家たちの仕事は、人々の行動を空間によって規制し、同時に空間を商品化することであったが、これから求められる役割は生活を支える地域社会そのものを指し示す空間を生み出すことになる。…生活から生み出される制度を空間化するという創造行為である。(P9)
○人はお金がたくさんあると、余計なことを始めてしまうものです。再現性のない建物が世の中にあふれているのは、潤沢な予算を使って、特殊会を見せようとした建築が多いから。でもコストをどんどん厳しくしていくと…切実な空間が現れてくる。そこがタイポロジーなのではないかと考えます。タイポロジーは再現性があって、次の時代や未来に関係してきます。特殊解は、一回性の不思議な建築はつくれるけれど、未来にはつながらないのです。(P46)
○建築に特許はなくていい。それはある意味、社会の財産になっていくのが、建築の持っているキャラクターなのだと考えています。社会の財産をつくるということを、一戸の小さな住宅でもできます。小さな建築でも、社会に関係づけられた建築をつくることによって、それがコピーされ、また次の社会をつくっていく。それが都市のタイポロジーだと考えます。(P64)
○20世紀…の建築は、政治的または資本権力の表象行為に利用され…自律する建築は都市のなかでシンボルとして存在し(た)…。90年代…の建築は資本という権力を標示するアイコン建築として現れていた。…しかし、建築とは、本来的に、または希望として、社会から共感されて初めて価値を持つハードウエアである。…それは、社会から切断された私的領域ではなく、社会で共有する公的領域に属する資本なのだ。(P96)