地域学入門☆

 「地域学」とは何だろうか。「地理学」とどう違うのか。いや、そんなことはどうでもよい。グローバル化が進み、国家ナショナリズムが沸騰する現代、私たちが住む足元、「地域」をもっと学ぶ必要がある。「地域学入門」と題された本書は、まさに入門書。いや「教科書」である。実際、筆者が勤める東京都立大の講義が元となっていると言う。だから、筆者がかつて赴任していた弘前市や近辺の集落を題材に、地図を示しつつ、地域をつくる「自然」と「社会」と「歴史・文化」を具体的に説明していく。図書館や資料館の活用など、具体的な調査方法さえ指し示す。
 だが、「地域学」の入門書にして、なぜ今「地域学」が重要なのかを、特に後半の「変容の章」などで記している。ともすれば我々は、地域などなくても、直接、世界とつながり、市場経済の中で生きていけるかのように思ってしまう。しかしそれが実は真の意味で危うい選択であることを、熱を込めて訴える。国家は本来、個人を守り、地域を守るためにこそあった。だが今や、国家が個人に、国のために生きることを強要するようになっている。そのことに警鐘を鳴らす。
 筆者は、弘前大学時代はもちろん、東京都立大に移ってからも、地方の視線で生きること、地方をベースに生きることを訴えてきた。本書はそうした活動を「地域学」として捉えなおし、人々にその重要性を伝えようとしている。学び方を伝えようとしている。本当にそのとおりだと思う。我々はまず個人で生き、家族で生き、地域で生き、そして国に生きて、世界とつながっている。それが生身の存在として生きていることの真実だ。逆ではない。勘違いしてはいけない。

○古代の技術は、近代のそれと比べれば貧弱なものととりあえず解してよい。だが逆に言えば…ブルドーザーなどの重機はなく、すべて人の手にたよったから、古代の技術の実現には人間集団を引っ張る動員力も不可欠だった。そしてそうした人々を引っ張っていく力こそが、まさに「国家」が実現する社会の力だということができる。…ここにはある種の人間中心主義がある。「国家」の生成は社会の大きな転換である。(P096)
○村も町も基本的には家々が集まって形成され、それらが小さな国(地域)をなしているというのが、日本の社会の本来の基本的な姿であった。そしてこのように家々の関係を軸に地域が構成されていることは…近代工業都市…そして…官公庁においてさえ同じなのであった。…そもそもオオヤケ(公)とは、大宅(大家)のことである。…職場はどこも一つの疑似的な「家」であり、また別様に言えば「藩」であった。(P142)
○私たちは…未来がよいものであると信じ、よいものであるよう祈る。…「祈り」とは…統制できない未来を現在のうちにつなぎとめ、たしかなものにするための時間のマネージメントである。…そして祈りは本体、個的なものではなく共的なものである。…祈りがあってはじめて…この世界を上手に生きていくことができる。そして人々は運命共同体として一つになれた。…地域にはそれゆえ必ず祈りの場が存在する。(P200)
○西欧発・アメリカ発の近代化が日本にもたらされて、手のつけられない変化が生じてしまった。…すなわち、それは近代文化以外の文化の否定である。日本は西欧化し、アメリカ化した。そうなることで近代国家を実現できた。だが、それは本来は国家とともに地域を守るためだった。ところがいつの間にか…日本国家の存在だけが…絶対視され、それを実現させた欧米文化を重んじる一方で、私たちの国家を基礎づけてきた各地の地域文化の方は、不当にも軽んじられるようになってしまった。(P254)
○個人が国家やグローバル市場にだけ向き合って暮らしているかのような錯覚が、むしろ一般的な認識となってしまった。/だが見えにくいだけで、こうした装置を実際に保持し、また動かしているのは地域である。…一部の人々の視野にはすでに地域は存在せず、国家と個人しかない認識さえ確立されているようだ。だがそれは、すべてを国家に委ね、依存するしかないという危うい認識である。…私たちは地域を知るきっかけを取り戻さなくてはならない。(P286)