日本近現代建築の歴史☆

 筆者の経歴には「建築家」と書かれているが、どんな作品があるのか、私は知らない。主な著書に「白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか」とあり、こちらは数年前に読んだことがある。正直、日埜直彦という人のことをこれまでほとんど知らなかった。だが、これはすごい本だ。明治維新以降の日本の近現代建築の推移を通史的に書いたものだが、国家による「上からの近代化」と、民衆による「下からの近代化」という二つの近代化の物差しを当てることで、いかに日本の近代建築が発展し、建築家が変容し、今に至っているかを見事に描き出している。これまでの日本建築史の多くは、ポストモダンあたりで終わっていることが多いが、本書では現代まできちんと書き綴っている点も大いに評価したい。
 私自身はモダニズム建築の全盛時、安藤忠雄が「住吉の長屋」を発表した頃に大学生活を送り、卒業後はバブル期のポストモダン建築の百花繚乱に唖然とし、建築の評価軸を見失った。本書でも評価の高い「金沢21世紀美術館」や伊東豊雄の「みんなの家」も見学したが、これらを建築史の中にどう位置付けたらいいか、よくわからなかった。本書でも現在はまだ変化の途上という位置付けだが、「中間決算」として「二つの150年」を掲げ、評価をしている。すなわち、上からと下からの近代化の相克の間で、まだ「建築の共有されたスタンダードは見えない」。一方で、丹下と磯崎と金沢21世紀美術館を「この150年に日本の建築が生み出した三つの突出」と評価し、可能性を語る。この二つが「150年の負債と資産」だ。
 だが、現時点でこの現在地を確認しておくことにはやはり意味がある。少なくとも私にとっては十分納得のできる整理ではあった。ちなみに今流行りの隈研吾に対する論評は少ない。その点も実は評価したい。論評に足りる建築を残しているのかどうかもよくわからない。日埜自身の建築作品も見てみたいと思う。よい建築が増えるのは気持ちがいい。

○西洋式建築を必要としていたのはまずは国家だった。…民間企業の西洋式建築は、国家が推進する欧化・近代化政策を前提としたもので、それに倣い、また補完していた。…したがって明治期、そしてその後も当分のあいだ、日本の建築家は、国家によって育てられ、国家によって職務を与えられた、国家お抱えの性格があった。(P75)
○上からの近代化が体系的な教育を受けた建築家によって本格的な西洋式建築を実現したのに対して、下からの近代化は近世以来の高度な技術をもった大工が西洋風の在来式日本建築をアドリブ的に実現したものだった。以降この流れは途切れず、ひとつの持続的変化となる。…住宅においては上からの近代化と下からの近代化が交錯した。上からの近代化は私的生活にまで及び…国家は生活改善運動に取り組んだ。しかし市井のひとびとは、もっぱら自らの新しい生活スタイルを求め…そのあいだで住宅の近代化が進んだ。(P135)
○建築家は国家に奉仕する、建築家は社会に奉仕する、建築家は資本に奉仕する、そうした一切に対して、こんなことに私は加担したくない、という拒否のスタンスをとる建築家が、以後あらわれてくる。…そうして批評性を以後建築家は強く意識するようになる。…建築家は主体的な批評性を発揮して個性的なアプローチを組み立て、それが建築家の作家性そのものになる。「いかにして建築が可能か」という問いは批評性の焦点だった。(P280)
○その核心には建築の公共性があった。…国家的段階においては、建築の公共性は国家によって充填されていた。…しかしポスト国家的段階において…建築の状況はまとまりを失い、拡散した。…状況を束ねていた上からの近代化が消え失せて…下からの近代化のさまざまな側面がさまざまに繁茂していった。…状況は流動化し、ぬかるみのようになった。(P281)
○国家のための建築は国家を根拠とし、資本のための建築は資本の論理を根拠とし、そして新世代の建築家がそれらを拒否して向かった「私」のための建築は、「私」のリアリティを根拠としていた。…磯崎にとって資本や「私」は建築を緊張させるだけの磁場を持たなかった。建築を緊張させることを磯崎は建築それ自体に求めた。(P336)
○1990年代以降の建築家の転回は、1970年代の転回の反復だったといえるかもしれない。1970年代の転回とは、国家的段階の終わりとともに、モダニズムから距離をとり、また建築生産の産業化に反発して、建築家が自らの建築のリアリティを確かめることから建築をあらためて組み立て直す転回だった。これに対して1990年代の転回は、そうした建築家の私性の追求が結局は消費のサイクルに巻き込まれていった流れから距離をとり、建築の本来的な可能性に立ち返る転回だった。(P374)