ニュータウンの社会史☆

ニュータウンのなかに入り込んでたくさんの経験を積んでいくなかで、「オールドタウン」だとか、高齢化で限界集落間近だとか、犯罪の巣窟だとかいって、一方的に切って捨てる、その視線のありように激しく反発を覚えるようになった。人の生活や営みを、その具体的な中身に踏み込まないまま十把ひとからげにして批判することはできない。いや、するべきではない。むしろ人の生活や営みに寄り添いながら、自分のできる範囲で一緒に考えたり行動したいと考えるようになっていった。(P250)

 「あとがき」の一節である。筆者は、20代半ばに多摩ニュータウンにあるパルテノン多摩学芸員として働き始め、結婚を機に多摩ニュータウンに転居した。現在は桜美林大学の准教授を務めているようだが、多摩ニュータウンを外から、そして内から観察し、研究してきた成果としての本書の出版となっている。
 各章は専門書や学会誌などで執筆してきたものがベースとなっており、第1章「病理と郊外」は「ニュータウンとは何か」といった視点から書かれているが、それ以降は、第2章「開発と葛藤」では開発過程における周辺農村地域との関係を、第3章「実験と抵抗」では実験都市としての多摩ニュータウンと入居者との関係、第4章「移動と定住」では居住環境という視点から住居学的に、そして第5章「断絶と継承」では地域の伝統やニュータウンの歴史がどう作られていったかという民俗学的な視点から書かれている。
 改めてタイトルを見ると、「ニュータウン社会学」だと思っていたが、「社会史」。しかし、単にその経過を追うのではなく、ニュータウンも含めた地域社会の視点から多摩ニュータウンの開発と現在に至るまでの過程を読み込もうとしている。
 第5章の終わりに以下のような文章がある。

ニュータウンは時の経過とともに「オールドタウン」になるのではない。ニュータウンは「タウン」になる。ただそれだけのことだ。そしてそれは、「ニュータウン」というカテゴリーの消失をも意味することになるのである。(P238)

 まさにそのとおり。私も高蔵寺ニュータウンに住んで、同じ感想を持ってきた。周辺の旧市街地とは多少の成り立ちは違うかもしれないが、時が経てば、ただのタウンになる。旧市街地にもそれぞれ成立の経緯があって、江戸時代以前からの宿場町や城下町もあるだろうが、多くは日本の近代化が進む中で、鉄道駅の開設や主要施設の建設などに伴って、まちが形成されてきた。その意味では、ニュータウンだけでなく、その他の市街地においても、また農村などの集落においても、本書と同様の「社会史」を掘り起こす意味があるのかもしれない。
 例えば、多摩ニュータウンの当初構想では、住宅市街地と農地経営の両立が目指されていたという。それは新住宅市街地事業が適用されるにあたり、農業経営の視点がばっさりと切り取られていく。市街化区域と調整区域を画然と切り分ける日本の都市計画では両者の両立はそもそも無理だったのではとも思うが、一部地域に区画整理事業を導入することによって、漸進的な土地利用も可能となった。
 また、単一の公共団体の創設の必要性も当初から視野に入っていながら実現できずにいる。その点、高蔵寺ニュータウンは全域が区画整理方式で開発されたし、全域が春日井市内に存する。その点でも多摩ニュータウンとは、同じニュータウンといっても違いがある。一方で旧住民と新住民のあり方も興味深い。これは多摩でも高蔵寺でも同じかもしれない。だが、ニュータウンがただの「タウン」になれるかどうかは、旧住民側の意識にかかっている。いや、旧住民ではなく、一般市民として特定の地域にどういう目を向けるかという問題。そう思えば、差別部落もニュータウンも観光地も同じ。地域の特色に対して他地区の住民はどう向き合えばいいのか。居住者はどう向き合うべきなのか。
 そんな視点からも、居住者として高蔵寺ニュータウンの歴史や現状を知るのは面白いし、同時に、生まれ故郷である蒲郡市の行く末についても強く興味を抱いている。もっとも、蒲郡についてはなかなか研究する機会も時間もなく、たまに帰ってその変貌に驚くだけだけれども。

ニュータウンの社会史 (青弓社ライブラリー)

ニュータウンの社会史 (青弓社ライブラリー)

○東京都が進めていた多摩ニュータウンの前段階での計画案では、緑地が多い市街地を育成するだけでなく、農地も保全していくことが想定され、市街化と農業経営を同時に実現させることが目指されていた。ところが、のちにこの計画が新住宅市街地開発法という法律に飲み込まれることによって、農住一体の考え方は破綻をきたし、大きな転換を余儀なくされることになる。(P47)
○この陳情書が要求するのは、結論としては「日本住宅公団による国家的な開発を進めて」ほしいというものだったが、その理由が「従来の農業経営を多角的に改善」するためとされていたことに注目する必要がある。・・・農作物の消費者の受け皿となりうる団地を誘致することによって、その開発用地周辺の農地を活用して都市近郊農業への転換を図ろうとする思惑もあった。つまり・・・開発を引き込みながら、同時に地域の内発的発展が目指されていたのである。(P65)
○1968年10月の段階ですでに、美濃部都知事の私的諮問機関・東京問題調査会が・・・「多摩ニュータウン地域を包摂する新しい単一の公共団体」の創設を提言している。・・・ところが、地元市では「ニュータウンに人口が完全に定着してから考えてもおそくない」として二の足を踏んでいた。/こうして、行政一元化の必要性はそのつど指摘されても、問題は棚上げ状態でなし崩し的に入居が開始され・・・具体的な動きがないまま、市民生活のひずみが増大していくのである。(P118)
○結果として、多摩市が要望していた高所得者層の誘致を軸とするニュータウン像の転回はほぼ実現されることになったが、そのためには、街の雰囲気やイメージがより重要な鍵を握るようになる。「街の価値」を高めるための取り組みが積極的におこなわれ、「街を売る」という販売戦略が出てくるようになるのである。(P128)
○旧住民と新住民は、開発に伴って混在化していくことになるが、混在化の進展の過程では、双方の間でコンフリクト(対立・衝突)が生じることも多い。・・・しかし一方で、こうした新旧住民のコンフリクトが、期せずして開発前と開発後の連続性を意識させていることにも注意を払う必要がある。なぜならば、新住民は旧住民の姿を通して旧来の村落や貝の姿を見いだし、逆に旧住民は新住民を通して来るべき都市社会を予見しているからだ。(P198)