萩城城下町を歩く

 津和野と言えば萩。山陰旅行の最後は、萩の城下町を歩いてきた。
 中央公園駐車場にクルマを停めて、まず向かったのは「青木周弼旧宅」。ちなみに旧城下町一帯が国指定史跡「萩城城下町」に指定されているが、青木家旧宅が単独で指定されているわけではない。しかし1859(安政6)年頃に建築されたようで、当時の姿を残している。ブラタモリ那須を特集した際に、青木周蔵那須別邸も紹介されたような記憶があるが、周蔵は周弼の弟・研蔵の養子。周弼は周防大島の生まれで、萩藩主毛利敬親に召し抱えられ、弟の研蔵は明治天皇の大典医も務めた。

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青木周弼旧宅
 青木家旧宅が面する通りは江戸屋横丁と呼ばれている。しっくい塗の白壁に下見板張りの腰壁。土塀の向こうには夏みかんの木々が見える。青木家旧宅を出て北上すると、次にあるのが「木戸孝允旧宅」。こちらは建物自体が国指定史跡に指定されている。ちなみに、和田家に生まれ、幼名は和田小五郎。8歳で桂家の養子となり、桂小五郎を名乗るも、実名(諱)は孝允。木戸姓は33歳の時、藩主毛利敬親から賜り、木戸貴治に改名した。明治政府樹立後に木戸孝允と名乗るようになったらしい。1833(天保4)年にこの家に生まれ、養子後も養父母が早く亡くなったため、20歳までこの家で育ったという。建物自体は質素だが、築180年以上ということになる。
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木戸孝允旧宅と江戸屋横丁
 江戸屋横丁を抜けて表通りの呉服町筋は藩主が参勤交代の時に通った御成道で、豪商などが軒を連ねている。「菊屋家住宅」は、建築年は不明ながら、1604(慶長9)年の毛利輝元萩入国に従い、当地に屋敷を拝領したとあるので、江戸時代前期の建築とされている。代々、藩の御用達として本陣なども務め、御用商人として栄達を続けてきた。虫籠窓の並ぶ外観は質素ながら、内部は広く、書院から眺める庭の眺めもすばらしい。ちょうど新庭が特別公開中で、そちらも鑑賞させていただいた。
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菊屋家住宅
 西門から出た先が菊屋横丁。いったん呉服町筋に戻って、菊屋家住宅向かいの「旧久保田家住宅」を見学する。こちらは幕末から明治時代前期に建築された商家で、1階の細格子や2階の虫籠窓も太い格子で造られ、また、細格子が並ぶ「つし2階」もあって、菊屋家住宅よりも華やかな感じ。案内の女性から、萩の士族対策としての夏ミカン栽培の話などを聞かせてもらった。
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旧久保田家住宅
 もう一度、菊屋横丁に戻り、南下。菊屋家住宅のナマコ壁や白壁の土塀の向こう側には夏みかんの実も生って、感じの良い通りだ。高杉晋作誕生地は生家が残っているわけではないのでパス。高杉晋作銅像などを見て駐車場に帰る。
 次は松下村塾に向かうが、駐車場が満車のため、さらに東の「玉木文之進旧宅」へ向かう。玉木文之進松下村塾創始者。1842(天保13)年、松本村の自宅で開校したので「松本村塾」転じて「松下村塾」と言った。この地での松下村塾は1848年に廃止。その後、松下村塾は久保五郎左衛門や吉田松陰に引き継がれ、松陰神社内で継承されていった。茅葺の家屋は質素だが、きれいに保存されている。
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玉木文之進旧宅
 続いて、「伊藤博文旧宅」と「伊藤博文別邸」に向かう。旧宅は残念ながら雨漏りのため、茅葺屋根にシートが被せられていたが、総建坪29坪の小さな建物。老朽化が進んでいる。一方、別邸の方は1907(明治40)年も東京府荏原郡に建てられたもので、玄関と大広間、離れ座敷が移築されている。大広間廊下の一枚板による鏡天井や離れ座敷の節天井など、贅を尽くしている。以上で萩の町を離れ、秋芳洞などに寄って帰路についた。
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伊藤博文旧宅
 が、終える前に、前日に行った山口市内の建物も少し紹介。前日は湯田温泉に泊まったため、投宿する前に瑠璃光寺五重塔と旧山口藩庁門、旧山口県庁舎と県会議事堂を見学した。「瑠璃光寺五重塔」は1442(嘉吉2)年の建立。池越しに、緑の中に屹立する姿は実に美しい。
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瑠璃光寺五重塔
 「旧山口藩庁門」は幕末、毛利敬親が藩庁を萩から山口へ移転することを計画し、1867(慶応3)年に竣工したもので、堂々とした門構えが気持ちいい。その後、廃藩置県により山口藩は山口県庁となる。
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旧山口藩庁門
 「旧山口県庁舎」と「旧山口県議会議事堂」は1916(大正5)年に完成。妻木頼黄指導の下、武田伍一と大熊喜邦が設計した。煉瓦造2階建てで、要所に花崗岩を用いたモルタル塗り。後期ルネサンス様式というが、県庁舎正面玄関のポーチや両翼に大きく張り出した形は堂々として気持ちがいい。また議事堂は中央に塔が聳えて、きれいにまとまっている。
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山口県庁舎
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山口県議会議事堂
 最後に「ザビエル聖堂」へ行ったが、これは1998(平成10)年に再建されたもの。1952(昭和27)年に建築された建物のつもりでいたので少しがっかりした。現在の建物も、2本の尖塔や前庭の芝生広場も気持ちよく、いい建物だとは思うのだが。
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ザビエル聖堂
 以上、GWに回った「倉吉」「大森」「津和野」と「萩・山口」の町並みを紹介した。家族旅行の合間なので十分な時間は取れなかったが、多くの町並みを歩くことができて楽しかった。

津和野は重伝建にして日本遺産の街

 津和野と言えば、「アンノン族」や「るるぶ」の時代に萩と並んで大ブームとなった。私も学生時代に一度訪ねた記憶がある。それから40数年。今、津和野はどうなっているのか。GWに山陰を旅行した際に、津和野の町も歩いてきた。ちなみに旧津和野町は2005年に旧日原町と合併し、津和野町役場は旧日原町にあるので、昔の人は間違えないように。

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多胡家表門
 山口線を走るSLが展示された津和野町駅前を通り過ぎ、津和野町大橋手前の駐車場にクルマを停めて、町を歩いた。まず、「多胡家表門」から。門をくぐると殿町。門しか残っていないが、多胡家は津和野藩筆頭家老を務めた家。1860(安政7)年の建築と言う。殿町通りの向かい側には「藩校養老館」。高い白壁の手前には津和野観光の象徴、菖蒲が植えられた水路に鯉が泳いでいる。殿町通りに面する土塀の腰の部分は、濃淡の付いた瓦が張られたナマコ壁となっており、その上のしっくい壁や赤瓦屋根と一体となって、柔らかい色合いとなっている。
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藩校養老館と殿町通り
 通りを北上すると、左手にあるのが「津和野町役場津和野庁舎」。鹿足郡役所として1919(大正8)年に建設されたもの。入口には大岡家老門が建っており、こちらは江戸時代のもの。さらに進むと右手に「津和野カトリック教会」がある。1929(昭和4)年建築の木造平屋建てだがゴチック様式にステンドグラスもある。
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津和野町役場津和野庁舎
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津和野カトリック教会
 小さな信号のある交差点に面して、右手に「戝間家住宅」。左手には「旧河田家具店」。ともに2階の細格子と赤瓦の庇が美しい。また妻壁窓庇の方杖模様が力強い。しばらく行くと、右手に「分銅屋七右衛門本店」。津和野大火(1853年)の直後に焼け跡の廃材などを使用して建てられた火事場普請の家で、保存地区内最古の商家建築だという。その隣にある「山陰中央新報」の看板が上げられた建物は「旧布施時計店」で1934(昭和9)年建築の洋風木造建築。2階の切り込んだ窓や縦に3つ並んだ丸窓がモダンなイメージを醸している。
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戝間家住宅
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旧河田家具店
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分銅屋七右衛門本店
 その向かい側には「俵種苗店」。そして隣に「呉服商さゝや」。1854(安政元)年に創業されて以来、今も呉服商として立派に営業されている。左側の土蔵も立派だ。その向かいにあるのが「古橋酒造場」。建築は1921(大正10)年と比較的新しいが、堂々とした外観で町並みに溶け込んでいる。右隣にベージュ色のモルタル塗りの洋館が併設されているところが面白い。
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呉服商さゝや
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古橋酒造場
 さらに進むと右手に「橋本本店」。1717(享保2)年創業の津和野で最も古い造り酒屋だそうだが、建物は1883(明治16)年頃の建築。表に張り出した酒樽や杉玉が酒造場であることを示す。主屋の左側に門が付き、ナマコ壁の土蔵が並んでいる。その先にあるのが「俵屋華泉酒造」。こちらも1883(明治16)年頃に建てられた商家で、両側に土蔵が併設されている。2階は塗籠のむしこ窓になっているのが特徴だ。
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橋本本店
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俵屋華泉酒造
 続いて見えるのが「高津屋伊藤薬局」。1798(寛政10)年創業の薬種問屋で、森鴎外とも縁のある薬局で、1911(明治44)年の建築とされる。斜めに引き込んだ駐車スペースなどもあり、近年になってなお改修を重ねているようだ。
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高津屋伊藤薬局
 さらに足を伸ばすと、近代的な建物の「津和野町日本遺産センター」がある。町並みの案内があるかと思ったが、もっぱら2015(平成27)年に日本遺産認定された「津和野百景図」の展示と説明のための施設だった。それでもそこで初めて津和野が重要伝統的建造物群保存地区に選定されていたことを知った。1975(昭和50)年の重伝建地区制度が創設された当時には、津和野は既に観光地として有名だったこともあり、地区指定には至らなかったが、時代が変わり、ようやく2013(平成25)年になって津和野の重伝建地区に選定された。しかしここまで歩いてきて、重伝建地区の説明はほとんどない。文化庁では2015(平成27)年から日本遺産制度を創設し、これのPRに努めているようだが、重伝建地区の方が町並みや建物の価値もよく理解できるし、何より住民等と一体となった地域づくりにつながるのではないか。せっかく選定された重伝建地区がほとんど重視されていないことを残念に思う。
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森鴎外旧宅
 帰りは旅館などもある魚町通りを抜けて、新丁通りを通って駐車場まで戻り、その後、「森鴎外旧宅」まで足を伸ばした。久しぶりに訪れた津和野にはまだ十分に懐かしい時代の町並みが残されていた。この先も伝統的な建物を大切に、継承していってほしいと願っている。

熱海の奇跡☆

 4月に筆者・市来広一郎氏の講演会「熱海のリノベーションまちづくり」に参加した。非常に啓発される講演会だった。次は本書を読もうと思っていたが、ようやく読み終えることができた。時間が空いたが、それもまたよかったのではないかと思っている。講演会だけではわからない。でも本だけでもわからない。両者を経験していよいよ「リノベーションまちづくり」の意味がわかってきた。
 「民間が利益をあげてこそ持続可能なまちづくりとなる」(P055)。「だからこそ、まちづくりは、あくまでも民間主導であるべきだ」(P015)。というのは私が日頃思っていることそのままだ。だが、思っているだけでは何も生まれない。市来氏がすごいのは、それを自ら実践していることだ。
 そして、「まちづくりとは不動産オーナーこそがすべき仕事」(P103)というのもそのとおり。「転貸ディベロッパーとしての役割が、現代版家守の一つのあり方」(P129)という言葉もよくわかる。ただし、誰もができるわけではないし、すぐにできるわけでもない。市来氏も最初からそこを目指していたわけではなかった。最初はカフェから。そしてさまざまな経験を続ける中で、そこに辿り着いている。
 一方で、やはり市来氏はすごいと思うのが、「CAFÉ RoCAは……失敗事例です」(P127)と言える決断と判断力。しかし失敗なる単なる失敗とせず、それを経験として次のチャレンジへ向かっていける精神力。だからこそ成功もついてきたと言えるし、成功したからこそ言えるという面もあるのだろうが、冷静に見極める洞察力と行動力がまちづくりの成功には欠かせないということか。
 本書の後半には「クリエイティブな30代」への期待や世代交代を任せてくれた前世代への感謝が述べられている。前世代に属する私としては、クリエイティブな30代はどこにいるのか、どうすれば活躍してもらえるのかと思ってしまう。「いやいや、あなたがそんなことを言っているから、30代は寄ってこないんですよ」。そうかもしれない。
 熱海は奇跡だったのか。本書では各章の末尾に「第○章で紹介した『成功要因』」がまとめられている。でもそれはそのまま他の地域では使えない。地域にはそれぞれの事情や資源があるはず。そして奇跡を起こす偶然も。それに巡り合うことができたらどんなに嬉しいだろうか。

熱海の奇跡

熱海の奇跡

○私たちのまちづくりは、税金に頼るのではなく、自ら稼ぎ、街に再投資し事業を生み育てることで、街に外資を呼び込んだり、経済循環を生み出すことを目指す事業です。……街の経済と向き合うことなしに、衰退している街を生まれ変わらせるということはできません。……観光やまちづくりの分野は本来、街として稼ぐ部分であり、そこで稼いだお金が税金として納められることによって福祉や教育などの行政サービスが可能になるはずです。/だからこそ、まちづくりは、あくまでも民間主導であるべきだと、私は思っています。(P015)
○地元の人が地元を知り、地元を楽しむ。/三年間の活動で、この目的は十分に達せられたと感じていました。……また、もう一つ大きな課題がありました。それは、オンたまの取組が全くお金にならないということです。……オンたまは資金面で言うと、持続可能な仕組みになっていなかったわけです。/このよう……ことから、「オンたま」を終了させる決意をしたのでした。(P083)
○私たちは「まちづくりとは不動産オーナーこそがすべき仕事」だと考えています。なぜなら街の価値を向上させて、一番メリットを受けるのが不動産オーナーだからです。……街というエリアを魅力的なものに変えるには、その地域全体の価値をどうやって上げるのかという発想が必要になってきます。……私たちが株式会社を立ち上げたのは、戦略的に地域の価値を高めるという目的のためでした。(P103)
○実はCAFÉ RoCAは成功事例でもなんでもないんです。失敗事例です。……何が失敗だったかというと、CAFÉ RoCAは利益を出せなかった。黒字にできなかった。/いくらいい場所をつくっても、赤字事業ではダメ。……失敗して、やめる。/でも、そこから次を考える。/これからもたくさんの失敗と、そして成功を繰り返していきたいと思う。(P127)
○空き店舗をオーナーさんから借りて、意欲のある人に貸し出す……。そのために必要なリノベーションをすることが私たちの主な仕事であり、新しいお店から入る家賃が会社の利益になります。その収益を使って、また、新たなリノベーションの資金にするというわけです。こうした転貸ディベロッパーとしての役割が、現代版家守の一つのあり方です。(P129)