ひらかれる建築

 2013年に松村先生は二つの本、「箱の産業」「建築―新しい仕事のかたち」を出している。本書はその続編として、これからの「建築」のあり方、方向を考察したもの。「民主化」をキーワードに、グロピウスなどが、庶民が健康で快適に住むことができる住宅のプロトタイプを提案した第一世代の民主化。セルフビルドやDIYなど、住み手が主体的かつ自由に住宅を建築・選択できるよう、工業化・商品化が進められた第二世代の民主化。そして、箱としての住宅が充足した現在は、その箱を生かして、その中に新たな暮らしの形を創造する第三世代の民主化だと時代区分する。
 松村先生は私とほぼ同年代で、建築家の仕事にあこがれ、ハウスメーカーの活躍をながめて年を重ね、そして今、若い世代のリノベーションなどの活動を驚きの目で見ている。定年退職を間近に控え、建築の専門家として食べてきたこれまでを振り返り、これからどうやって生きていこうかと考える。自分の職能は何だったのか、これからの時代、役に立つのか。第三世代の民主化の時代、建築専門家の役割はどこにあるのか、と。
 本書では、これまでの2冊と違い、第一世代、第二世代の民主化についても、その歴史や内容を振り返り、その意味を考察している。例えば、鉄筋コンクリート造や鋼構造の発明が第一世代の民主化に果たした役割について。中でも、釘の量産が木造建築技術の発展、ツーバイフォー構法の出現に果たした役割については興味を惹いた。また第二世代では、ハブラーケンの「サポート」と「インフィル」という提案とこれを踏まえたプレハブ住宅の誕生。中でも、サポート(躯体)ではなく、インフィルの工業化により、住み手の参加が成立するという考え方は興味深い。そして、20世紀初頭から始まったカタログハウスとセルフビルド・DIYの動き。だが日本では、畳の存在が第二世代の民主化が展開される下地として既に存在した。その上でのプレハブメーカーによる生産情報化による生産性の飛躍的な向上、在来工法住宅におけるプレカットシステムの席捲。これらにより、第二世代の民主化は日本において当たり前のものとして隆盛した。
 第三世代の民主化は今後さらに深化していくとして、問題は、第二世代の民主化、第一世代の民主化は今後どうなっていくかだ。筆者の言葉を使えば、タテモノとケンチクの未来はどうなるかということである。本書の末尾は「ケンチクとタテモノの間で迷っていた私も、本書を書き上げて漸くケンチクからのタテモノからも卒業できそうだ」(P218)という文章で締めくくられるが、東大の先生は退職しても食べていけるだろうから卒業しても別に困らないだろうが、一般の建築専門家はそうはいかない。最終節に、「そうした先駆例から成功の要素のようなものを抽出して、何かシステムというか仕組みにしないと、市場は広がっていきませんよね?」と言われて「残念ながらわかっていないとしか言いようがない」(P213)とする文章がある。市場を広げるべきかどうかは議論があるとして、たぶんそうしたシステムを考案する事業者が出現し、一定の成功を収めるだろうことは想像に難くない。我々、一般の建築専門家はそうしたシステムの中で食べていくことになるのかもしれない。「仮にそうできたとしても、そうした途端に第三世代の民主化は後退し、その意義は薄れるだろう」(P213)と書いているが、みんながみんなデモの最前線にいるのではなく、ほとんどは民主主義と言われる社会に住んでいるだけで、本当の意味での民主主義など実践していないのが世の常ではないか。
 そう、「民主化」をキーワードとすることには、最後まで違和感があった。住まい手目線、生活者主義という程度ではないのかなと思う。でも、松村先生の気持ちは同年代としてよくわかる。そんな思いを抱きながら通読した。

ひらかれる建築: 「民主化」の作法 (ちくま新書 1214)

ひらかれる建築: 「民主化」の作法 (ちくま新書 1214)

○マスカスタマイゼーションが進行する中で、日本中の営業マンは個別の住み手に対応する能力を自然と磨いてきたはずである。・・・日本に一体どれほど多様な住み手がいて、どれほど多様な住まいづくりの動機があり、それにまつわる悩みや喜びがあるかという、具体的でリアルな話の数々である。・・・これからの時代を考えた時、マスカスタマイゼーションの時代に鍛えられた日本中の営業マンの能力は大きな資源になるのではないだろうか。(P132)
○リノベーションの核になる構想自体は・・・まちでの暮らしや仕事についてのそれである。生活者としてのイメージの膨らみや、事業としてのリアリティに対する感性がなければ、リノベーションの構想は面白くもならないし、実現可能性も高まらない。しかも、新築と違って、手掛かりになる建物は既にある。建築の専門家でなくても、いくらでも取掛りが見つけられる。/リノベーションに見られるこの現象は、専門家の内に閉じがちであった建築の世界が生活者に向けて開いていく現象として捉えられ(P170)
○健康で近代的な暮らしがおくれるような建物=「箱」を人々に届けるために・・・量産技術で遍く実現することを目指して専門家たちが邁進した第一世代の民主化。・・・人々の個性や「箱」の置かれる地域の特性等を考慮の対象とすることの重要性を認識し・・・市場の変化に適応することを目指した第二世代の民主化。そして・・・それぞれの人が、自身の生き方を豊かに展開する「場」創りに利用する第三世界民主化が始まっている。・・・第三世代の民主化が前の二世代と根本的に異なるのは・・・そこでの主体は専門家ではなく生活者になるということであろう。(P182)
○「箱の産業」の時代の民主化の本質に近いところには、近代的な個の確立への志向があ・・・った。しかし、個に対応する空間や制度が行き渡り、うっかりすると個が「孤」に陥るような環境下にある今日の人々にとって、・・・そこに民主化の本質はない。むしろ・・・公空間と私空間の間に位置する共空間(コモン)とそれに対応する人間同士の関係(コミュニティ)を、それぞれの人がいかに創造的に生み出せるかが、民主化の核心に位置する問題になると思われる。そしてここには、空間の問題を扱ってきた建築専門家の転身の上での役割が見出せるようにも思える。(P216)

空き家の手帖

 先日、京都空き家セミナーを聞いた際に本書を購入した。わずか91ページで、活字や行間も大きいQ&Aのページが中心で、その間に5つのコラムと空き家活用事例が6点掲載されている。最初の方のページなどは、見開きで「手遅れになる前に」「活用しましょう。」と書かれているだけで、あとは白地。もともと高齢者が多い地域へ無料配布することを目的に作成した本なので、読み易い。30分もいらずに読めてしまう。
 でも対話形式で書かれたQ&Aは、確かにこんな会話がありそうだと思わせる。チラシではなく本にしたのは、すぐに捨てられないようにするための方策だとセミナーで言っていたが、相続の問題や片付けの方法、民間業者へ依頼した場合の問題や仏壇の処分法など、実務的な心配事までフォローしており、この内容なら確かに捨てにくい。
 京都という空き家需要は高い地域ならではの活動ではあるが、住民が中心となって楽しく活動して様子が伺えて、楽しい。本の販売で得た利益はまちづくり委員会の活動経費となるとのこと。私も少しでも応援できただろうか。

空き家の手帖:放っておかないための考え方・使い方

空き家の手帖:放っておかないための考え方・使い方

  • 作者: 六原まちづくり委員会,ぽむ企画
  • 出版社/メーカー: 学芸出版社
  • 発売日: 2016/09/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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○この空き家を活用するきっかけは六原の地域住民が手がける「空き家の片付け支援プロジェクト」だった。空き家の解消を条件に片付けを支援するという取り組みだ。片付け支援プロジェクト当日は地域の消防団員をはじめとする18人が集まり、実働3時間で片付けを終えた。/次に問題となったのが、この建物に風呂がなかったことだった。・・・そこで検討されたのが、まず安心して家を貸せる入居者を探し、家賃の前払いという形で入居者にリフォーム資金の負担をお願いする手法だった。(P61)
〇法律では、「問題のある空き家」への対策が中心となっています。とはいえ重要なのは、空き家を「問題のある空き家」にさせないことです。・・・京都市の場合、法律に先んじて2013年12月に「京都市空き家の活用、適正管理等に関する条例」を制定しました。そこでは・・・地域における空き家の活用を重視している点が特徴です。(P64)

建築士制度の矛盾

 新年早々、建築士のあり方について議論をしてしまった。
 昨今、ゼネコンでは建築系学科を卒業した社員に、一級建築士よりも一級建築施工管理技士を取得するよう勧めることが多い。一定規模以上の工事現場には監理技術者を配置する必要があるが、監理技術者の資格取得には一級建築士又は一級建築施工管理技士であることなどが条件となっている。では、一級建築士になると何ができるかと言えば設計業務であり、設計部門のある建設会社では当然、一級建築士の資格は有用だが、施工専門の建設会社では一級建築施工管理技士を持っていれば足りる。そこで上記のような状況となる
 こうした中、建築士会の役員の方から、「一定の大規模な建築工事については、一級建築士の資格のある監理技術者を配置すべきではないか」という意見があった。その方が理由に挙げたのは、(1)施工者からのVE提案にあたり、施工に特化しない建築士の役割が重要、(2)工事監理(建築士の専管業務)にあたり、工事の品質管理は実質的に施工者が担っている実態から工事監理者と施工者の建築士が二重で検証をする意義が大きい、の2点だが、これは工事監理において建築士が実質、その役割を十分担っていないことの裏返しのような気がする。
 ただ、この方がこうしたことを提案する意味はよくわかる。「一級建築士は足の裏の米粒。取らないと気持ち悪いが、取っても食えない」とは昔からよく言われるが、それでも以前は、設計事務所に勤務する者はもちろんのこと、公務員や建設会社の社員なども一級建築士の資格取得を目指した。しかし、姉歯事件があって建築士法が改正されて以降は受験資格の審査が厳格化され、設計業務に特化した資格になっている。
 一方で、既に一級建築士の資格を持っている公務員や建設会社の幹部などは、一級建築士は建築関係のオールマイティな最上位の資格だという意識があり、また一般的にも、一級建築士は一級建築施工管理技士などよりも高度な資格だというブランドイメージがある。建築士会では、一般の建築士の上位資格として、専攻建築士の制度を創設しているが、団体による認定・登録資格であって、国家資格とはなっていない。また、建築設計の中の特定の分野の専門的知識等を有する建築士として、構造設計一級建築士と設備設計一級建築士がある。こちらは国家資格となっている。
 要するに、建築士は制度的には姉歯事件以降の建築士法改正により、設計業務により特化した資格になっているが、それ以前に建築士資格を取得した者や社会一般にとっては、以前のブランドイメージが抜け切らず、混乱しているということか。設計業務を行う建築士は定期講習の受講が義務付けられているが、日常的に説教業務を行わない公務員などは定期講習を受講していないことが多い。そこで、こうした建築士は定期講習未受講建築士としてきちんと差別することで、建築士のブランドイメージを変えていく必要があるのかもしれない。
 建築士が設計業務に特化した資格だとして、その場合に問題になるのが、建築基準適合判定資格である。一級建築士が設計したものを審査するという業務のためか、現在、この資格は一級建築士の資格を持っていることが条件となっている。そして建築士の資格取得のためには製図試験に合格することが必須である(それもなぜかいまだに手書き)。建築基準適合判定の業務は他人が書いた図面を読み取り審査するので、自ら図面を書く必要は全くないが、その試験に合格しなければ受験資格も得られないというので苦労している公務員や民間建築確認機関の職員は多い。
 ここはやはり、建築基準適合判定士という資格を建築士資格とは別のものとして設置すべきだろう。設計業務を行う「設計建築士(・構造設計建築士、設備設計建築士)」、審査業務を行う「建築基準適合判定士」、施工管理を行う「建築施工管理技士」と資格を明確に分けることで見通しがだいぶよくなる(この際、建築士も名称を「設計建築士」に変更すべき)。
 それでは従来の、設計業務を行っていない建築士はどうするのか。これは試験などやめて、建築学科を卒業したものは全員、「建築士」にしてしまえばいいと思うのだが、さすがそれは暴論だろうか。建築士とは建築学士(修士・博士)の略だと思えば違和感はないと思うのだが、どうだろう。