アナザーユートピア☆

 「Another Utopia」と題する新建築に掲載された槙文彦の論文に呼応し、様々な分野の専門家が論文を寄せた。槙が提起したのは、「オープンスペース」にはもっと多くの可能性があるのではないか、専門領域を超えたディスカッションの対象とすべきではないかという提案。そこには「モダニズムの建築が、かならずしも多くの人びとに都市生活の歓びを与えるものばかりではなかった」という反省がある。「建築の外にあって建築の侵入を許さない、より独立した存在としてのオープンスペースにさらなるパワーを与えることが重要なのではないか」とも書いている。
 この提案に促され、槙とともに編著者に名前を連ねる真壁智治を除いて、全部で16編の論考が集まった。その中には、建築家や都市計画家、造園家といった「オープンスペース」のハードに直接関わる専門家だけでなく、社会学者や法律家、アートキュレーターまでいる。まさにこの論考がディベートの発起点となって、本書が成立した。
 テーマは「オープンスペース」。それだけ。よって寄せられた論考は多種多様。面白い論文もあれば、当たり前じゃねぇ?と感じる論文もある。以下に引用したのは、中でもその論点に独自性があり、目に留まった論考。
 青木淳は、自著「原っぱと遊園地」に引き寄せ、両者の関係について再考している。広井良典は人口減少社会における居場所とコミュニティの問題として論じるともに、「オープンスペース」とは”空”の空間、すなわち無や死に通じているのではないかと問題提起する。東工大教授の塚本由晴は自校での経験を通して、オープンスペースと施設化の問題について論じ、オーサー(設計者)やオーナー(所有者)から離れて、メンバー(利用者)の重要性を訴える。
 饗庭伸はオープンスペースの設計における中動態の必要性について問題提起をする。これは住民参加型の施設設計やまちづくりについて新たな方向を提示するものだ。最後に引用したランドスケープアーキテクトの福岡孝典の文章は、特に目新しいわけではないが、まとまって王道的な認識だったので引用。しかし屋外空間は本質的にオープンネス(寛容性)を持つという指摘は重要かもしれない。まさにそれゆえこのディベートが成り立っているのであり、オープンスペースをテーマにした意味もそこにあるのだろう。
 だが、これらの論考とは一線を画し、第4章「オープンスペースをつかう」では、趣味の「パーソナル屋台」を実施する田中元子や障害者視点で空間と身体との関係を捉え直すことを提起した伊藤亜紗の論文が異彩を放つ。障害者は健常者が介助しやすいように演じている(本当はもっと簡単にできるのに)という指摘はかなり衝撃的だった。
 最終的に何がまとまったというわけでもない。しかし「オープンスペース」というテーマひとつでこれだけ多くの論考が集まったということ自体がすごいことだったと思う。誰のものでもないオープンスペース。みんなのものであり、誰でもどんなふうにでも使えるオープンスペース。その意味と重要性を提起した槙文彦の感性に驚くとともに、依然全く衰えていないことを痛感した。この人、すごいな。

○【青木淳】「原っぱ」はもともとは「遊園地」の最たるものだったのである。……遊園地の、その機能あるいは目的からの逸脱が原っぱをつくる。しかし、その原っぱも、いつしか機能あるいは目的に覆われていき、遊園地として固まってくる。そこで……もう一度、逸脱する。そうした流転のなかの、過渡的な初々しい状態が、原っぱなのかもしれない。/だとすれば必然的に、原っぱは失われる運命にある。しかしだからこそ、原っぱは「原風景」になる。(P028)
○【広井良典】これからの都市をデザインするにあたっては、「老いや死を包摂する都市・地域」という視点が課題になると私は考えている。……思えば「オープンスペース」とは“空”の空間ということであり、それは究極的には、無そして死と通じているはずではないか。(P055)
○【塚本由晴】世界各都市のオープンスペースにおける楽しい空間実践の数々には、オーサーもオーナーもいない。その場にある何らかの資源と人々が向き合うことによってふるまいが生まれ、共有され、……洗練され、……共感が生まれる。……オープンスペースのアナザーユートピアを潰えさせないためには、このメンバーシップをより繊細に議論できる建築・都市の批評言語の構築が必要である。(P085)
○【饗庭伸】能動的な人たちと受動的な人たちの間に、そのどちらにも分けられない人たちがあらわれることがある。人前に積極的に立ちたいわけではないし、誰かに承認されたいわけではない。しかしできることをできる範囲でやる。……こうした人たちの自然な動きを保ったまま、それを汲み上げ、さりげなく撚り合わせ、新しい動きを方向づけることに可能性があるように考えている。能動と受動の間の設計の可能性である。/その設計の対象になるのは……「制度」である。(P155)
○【福岡孝則】オープンスペースは今、多様なライフスタイルや文化を育み、想像力を引き出し、人々をつなぐことも期待されている。屋外空間が本質的にもつオープンネス(寛容性)を活かして、多様な市民の参画を促し、オープンスペースを育てる人の力を高めることが、ソフトインフラ(社会関係資本)の構築につながるのではないだろうか。そのような市民力がシビックプライドの醸成、都市の魅力の向上、そして非常時や災害時に支えあう大きな力になる可能性はある。(P172)

地域をまわって考えたこと

 小熊英二と言えば、自分の父親の半生を客観的に取材した「生きて帰って来た男」は面白く読んだ。歴史社会学者という肩書になっているが、現代社会に対してもそれなりの意見を述べる論客というイメージでいた。本書はそんな小熊氏が移住希望者向けの雑誌「TURNS」の連載企画で各地を訪れ、執筆した記事を中心に掲載されている。訪問した地域は、福井県鯖江市、東京都檜原村群馬県南牧村静岡県熱海市宮城県石巻市、そして雑誌連載ではなく独自取材として、高島平団地の6地域である。これに序論と結論が添えられている。
 社会学者・小熊英二の目から過疎地域や移住の現状はどう見えるかという点に興味を持って読み進めたが、はっきり言って期待倒れだった。それでも、檜原村の移住(移住する側と受入れる側)の現実や、石巻市の「災害ユートピア」の現状は興味深い。すなわち、移住に過大な期待はすべきではないし、ひょっとしたら現在は、太平洋戦争の災害ユートピア後の社会という捉え方ができるかもしれない。
 現実は甘くないし、伝統や文化は根強い。一方で着実に変化しているものもある。小熊英二という、普段はもっぱら屋内で書籍とにらめっこしているような感じの社会学者が、社会学関連の書籍を片手に持ちながら、地域の現状を見るということは意味があるのかもしれない。つまり、けっして地域の現状に対して助言や批判などをするのでもなく、ただ淡々と記述している。そこに他の地域研究者との違いがある。そんな気がする。
 序論と結論は、取材を終えて本書のために書き下ろした論考だが、正直、大したことは言っていない。結論に至っては、山下祐介の「限界集落の真実」をベースに書いていて、「それでいいの」とは思うが、もちろんそれだけではなく、取材をベースに最後は「チャレンジ精神と愛着をエネルギーとして、持っている資源と他からのニーズを把握し、目標を設定して精進すること」(P182)という「平凡な真理」を書く。いかにも小熊英二らしい。
 地域が素材になっているが、小熊英二のお勉強にお付き合いしたというのが読み終えた正直な感想だ。小熊ファンならそれでもいいのだろう。

地域をまわって考えたこと

地域をまわって考えたこと

○移住者の側は「田舎暮らし」を期待する。しかし受入れ側が移住者に期待するのは、村の人が持っていないもの、たとえば事務能力や企画力、法的知識、都会とのネットワークなどだったりする。……移住者に必要な資質は……一言でいってしまえば、「常識があって着実な人」ともいえる。鈴木氏がいう「勤勉で会話力のある人」も、その延長線上にあると考えられよう。(P045)
○移住する側と受入れる側が、ともに「夢」や「理念」を持っていないと、変化は起きてこない。なぜなら「夢」や「理念」がなければ、変化に耐えられないからだ。人間は変化のために着実に努力するよりも、現状に安住しながら文句を言っているほうが楽である。移住する側も、受入れる側も、自分自身を変えるという困難を乗り越えるには、着実さと理念の双方が必要なのだ。(P057)
○「不謹慎に聞こえるかもしれませんが、震災直後はある意味、わくわくしていた。いまはちょっと停滞ぎみ」という。……「被災地って、深刻な顔をしているだけじゃない。……僕も大切な人を失ったけれど、そういう非日常を、地域の年長者もある意味で楽しんでいたと思います。」……災害の直後は、既存の秩序が崩れ、人々の助けあい意識が高まる。これを学問的には「災害ユートピア」という。しかし、その期間は長くは続かない。……ISHINOMAKI2.0の松村氏は、「震災から5年くらいは、僕も街もドーピングをうけていた。これからが正念場です」と語った。(P110)
○「以前は、子育て中のお母さんの声を、地域の偉い人に聞いてもらえるムードがなかった。ところが震災で、上下関係やしがらみが崩れ、お互いに助け合う機運が出てきた。……もう一つ、震災で支援のNPOがたくさん石巻に来たことが、地域の刺激になった。……」/ここでも震災が「国内文化交流」を促進し、新しい機運を生むきっかけになったことがわかる。とはいえ荒木氏は、「いまは、古い上下関係がもどってきているのが気になる」と語ったのだが。(P121)
○インフラや財政をふくめた地域の持続可能性が確保され、地域で「健康で文化的な生活」が維持できるなら、活気がなくても「困る」ということはない。地域の目標は、まずこの点の確保に置かれるべきである。……「地域振興」の目的は、自治体財政の改善や域内GDPの増大だけではない。その地域の人権を守り、人口バランスとインフラを維持して地域を持続させることも、目的として認められてよい。(P175)

空き家対策の決め手は壊すことという真っ当な意見

 先月末、都市住宅学会中部支部の空き家セミナーを聴講した。講師は(株)住宅相談センターの吉田貴彦氏。大学で法学部を卒業後、不動産会社、ハウスメーカーを経て、2004年に独立。当初はホーム・インスペクションが中心だったようだが、最近は国交省の「地域の空き家・空き地の利活用等に関するモデル事業」で採択を受けるなど、空き家活用などの問題について相談を受けることが多い。日常的には、ホーム・インスペクションや空き家活用に関するコンサルタント業務、そして自治体や業界などからの講師・相談員などをされているとのことだが、実際のところ、会社としてどういう業務で収入を得ているのか。興味があったが、質問することは憚られた。
 日頃の空き家相談などから見えてくる空き家問題について具体的な事例を交えて話をされた。レジュメに沿って紹介すると、まず「1.空き家の何が問題なのか?」という設問に対して、放置空き家における放火等の問題に加え、住宅投資が資産価値として維持されないという国交省のグラフを示し、中古住宅活用の必要性について説明された。次に「2.なぜ空き家が発生するのか」の設問について、平均世帯人員の減少、特に単身高齢者の住まいが空き家予備軍となっている実態を説明する。
 さらに、「3.自分の空き家をどうしようと勝手でしょ!」というタイトルで、空き家放置による様々な責任発生や維持費もバカにならないことを説明した後、しかし「4.空き家の解決が難しい所有者側の理由」として、「所有者が聞く耳を持たない」「相続登記がされていない」「共有者の意見が合わない」などの現状を説明された。「所有者が行為能力を失して成年後見人を選定したとしても、法的に自宅売却は認められない」といった問題もあるとのこと。他にも、既存不適格や違反建築物であったり、残置物の処分など、空き家の利活用を実現するまでには整理すべき課題は非常に多い。
 そのため、「不要な住宅・土地は早めに処分」「住宅の相続について普段から意思統一をしておく」「単身世帯化を防ぐ」など、「5.空き家を作らないためのポイント」を提案。賃貸時や売却時の留意点・ヒントなども説明された。例えば、仏間以外の「部分貸し」、夏だけの「季節貸し」などであれば借家権が発生せずいつでも返還してもらえる。貸主に造作買取請求権を求めない「DIY型賃貸契約」といった方法。相続で取得した空き家を売却した場合の3000万円控除(ただし要件はかなり限定的)など。また、田舎の物件では、売買価格が低すぎて法定の仲介手数料では採算が取れないことから、仲介手数料の自由化なども提案されていた。「リバースモーゲージ」については、前に「リバースモーゲージ型住宅ローン」で報告したとおりだが、子供の反対が多いということだった。
 最後に、今年度、国交省から「地域の空き家・空き地の利活用等に関するモデル事業」で採択を受けた事業についても説明された。外国人に対する賃貸拒否事例が多いという現状の中で、来日する外国人介護技能実習生に対して、生活をサポートするバディさん(仲間・サポーター)を付けることで空き家の活用を促そうというもので、既に空き家や旧旅館を活用した取組が始まっているとのことだった。
 講演後、質疑応答があったが、個人的にはここが最も興味深かった。すなわち、「空き家対策には何が最も有効か」という問いについて、質問者である建築専門家は空き家の活用促進や新築を規制する方策について述べたのだが、新築規制については現実的に困難なこと、利活用にも限度があることから、空き家の解体促進が最も有効であり、必要だという意見を言われた。具体的には、空き家を解体すると税率が6倍となるような税制をやめることに加えて、空き家解体費に対する補助や税制控除等の解体促進の方策が必要だという意見。さらに、現状の空き家施策に対して解決目標がはっきりしていないという指摘もされた。
 これらの意見には私も大賛成だ。空き家が問題なら壊すしかない。空き家特措法で指導・勧告・命令・代執行と行政措置について制度を作ったとしても所詮、一部の空き家しか対象にならない。それよりもまず「利用していない空き家は解体した方が経済的に得」という状況を作ることだ。解体後にまた新築するより利活用した方が有利であれば利活用すればいい。空き地が放置されることも問題かもしれないが、空き家よりはマシ。何より総体的には、今以上に建物が必要になることはないのだから、とにかく壊すべし。こうしたシンプルな方策にストレートに向かえないのはどうしてだろうか。松村先生にも「空き家を活かす」前に「空き家を壊す」ことを真っ先に考えてもらえないものだろうか。