空き家を活かす

 昨年の秋に発行され、購入して以来、長く書棚の上に積まれたままになっていた。松村秀一が「空き家を活かす」と書けば、内容は全国のリノベーション事例になるに決まっている。実際、本書では、和歌山市のリノベーションスクールに始まり、全部で8つの事例が紹介されている。その中には徳島県神山町長野市門前町などの有名な事例も多く、今さらこれを読んでもという気がしていた。実際読めば、多少は松村氏独自の視点もあって、それなりに読めはするのだが、本書で言いたいのは個々の事例の成功要因等ではない。だからたぶん「空き家を活かす」というタイトルは間違っていて、副題の「空間資源大国ニッポンの知恵」から引用し、「空間資源大国を遊ぶ」という方がふさわしい。重要なのは「遊ぶ」である。
 本書で紹介される事例はどれも、「空間資源で遊んでいる」事例ということになる。そして楽しく面白く遊べば遊ぶほど、日常から離れて面白く興味深いものになる。もちろんただ遊ぶだけでなく、実際に役に立つ空間に再生してはいるのだが、松村氏が注目するのは「遊び」という部分。成功の鍵は「遊び」、だけではないはずだが、他の要因についてはそれほど掘り下げてはいない。そして「おわりに―ストックで遊ぶ社会へ」では以下のように書いている。

○遊びにとって個を無化するような仕組みは必要ない。つまり、「空間資源大国」にとって、仕組みはさほど重要ではないと私は思っている。……仕組みにされてしまうことに抗うのが「空間資源大国」の小さな物語に相応しい態度だと、私は考えている。(P188)

 そうだろうか? リノベーションを「ストックで遊ぶ」と捉えることは間違っていないと思う。今や、まちや建物は大人の遊び場だ。DIYブームもその文脈で捉えて間違いはない。だが、そうした「小さな物語」だけで、松村氏が言うところの「大きな物語」が残した膨大な「空間資源」は消費しきれるのだろうか。そうした抜け殻がまさに膨大な空き家となって現れてきているのが現在ではないのか。
 しかしそのことには触れない。実は先日、都市住宅学会中部支部の講演会で、空き家問題について聞いてきた。またそのうちに紹介したいが、まさにそこで語られたことこそが「仕組み」だと思う。もちろん「遊び」や「小さい物語」にとって「仕組み」は無用の長物かもしれない。だが「空間資源大国」にとっては、「仕組み」はいよいよこれから重要になる。そこが語られない本書は、大学に閉じこもっていた東大教授が外の世界に触れて喜んでいる本ということに過ぎないのではないかと思う。松村先生、しっかりしてよ。

空き家を活かす 空間資源大国ニッポンの知恵 (朝日新書)

空き家を活かす 空間資源大国ニッポンの知恵 (朝日新書)

○建築業界でやっているリノベーションの多くは、発注者から与えられた条件の下で、与えられた目的を果たそうとする「仕事」にすぎないが、西村さんたちの活動はより豊かで人間的な「遊び」だと言える。……ストックがあり余るほど充足した時代においては、誰もが建築で「遊び」ができる……。空間資源大国だからこそ「遊び」が可能になったのである。(P24)
○まちレベルで時間をかけて展開されている空間資源を使った遊び、ミクロからじわっと広がりつつある遊び、点としての一つの空間資源に小さな物語が挿入されること、それらが線状あるいは面状に繋がって起こることによって、まちなかで続いていく遊び。それらは今全国の色々な場所で見られ、人々の暮らしの豊かさを、そして生活の未来を実感できるものにし始めている。(P73)
○居住地としての団地をどうするかという問題は……往々にして団地の内部問題への取組みだけで手一杯になってしまう。たまむすびテラスで大島さんたちの挑戦が示していたのは、むしろ団地をまちの中のポテンシャルの高い空間資源として捉え直すことの重要性、そしてまちのために団地をどう使うかを考えてみることの重要性である。本書の筋に引き寄せるならば、団地でどう遊ぶかという視点の重要性が示されていたと言い換えても良いだろう。(P151)
○以前の産業に代わる何かが見つからない限り、大きな物語の抜け殻はいつまでも鈍感な抜け殻のまま、空間資源としても可能性のまま捨て置かれる。必要なのは抜け殻に挿入する新しくて小さな物語なのだが……まだまだ小さな物語がうまく挿入されていないケースは数多い。(P165)

ブランドとしてのDIYカリスマ

 DIYクリエイターのChikoさんとは、2017年に高蔵寺ニュータウン住宅流通促進協議会が開催したDIYワークショップ(「高蔵寺ニュータウンについて(その2)」)で知り合い、その後、Facebookでのお付き合いが続いている。一方、DIYワークショップの成果を引き継いだ高蔵寺まちづくり(株)ではその後もChikoさんのサポートの下、ニュータウン内の集合住宅や戸建て住宅、タウンハウスなどをDIYサポーター(DIYワークショップ参加者有志)とともにリフォームし、入居者の募集をしている。(最新は「築37年タウンハウス石尾台 DIY併用リノベーション住宅」
 しかし、こうした高蔵寺まちづくり(株)の取組については、「入居者が自ら作業をすることがDIYであって、DIYサポーターが作業をした住宅というのは、要するに素人仕事のリフォーム物件ではないのか」という疑問が湧いて離れない。そもそもDIYワークショップを開催した趣旨は、ニュータウン内の空き家流通を促すために、「改修前の中古住宅を廉価で購入し、DIYで改修すれば、安い費用で住宅取得が可能」という事例を示すとともに、DIYサポーター等が支援することで、DIYに自信がない人にもDIY改修を促すということだろう。DIYサポーター部の設置は賛同するが、彼らが十分に生きていない。ニュータウン内での中古住宅流通がどれほどか知らないが、ニュータウン内で不動産仲介をする不動産業者と連携して、中古住宅購入者の希望に応じ、DIYサポーターを紹介するなどの取組から始めるべきではないか。そもそも入居者がDIYしないDIY住宅という言葉が形容矛盾である。
 と日頃から思っていたのだが、最近、Chikoさんから愛知県住宅供給公社と組んで賃貸住宅のDIYリノベをしたという情報が入った。この記事を読むと、DIYには公社職員も参加して作業をした様子。でも入居者は参加してないよね。当然、上記の疑問が頭をよぎった。「入居者がDIYしないDIY住宅」って何? でもよく考えてみると、県公社の場合は賃貸住宅のリフォームにあたり、「DIYカリスマのChikoさんがデザインした」ということで、これは県公社やURがサンゲツやMUJIなどと組んで実施したリノベーション物件と同じ。つまり、今やDIYカリスマのChikoさんはリノベ・ブランドの一つとなったということ。
 そう考えれば、高蔵寺まちづくり(株)の物件もそうした試みの一つと言えなくはないのだが、第3セクターまちづくり会社という性格上、それでいいのかという疑問が拭いきれない。そもそもDIYが住宅流通促進の決定打となるはずもないのだ。

(住宅)事業評価に係る研究者の目線・事業者の目線

 大学研究者や行政担当者等が集まった学会組織で、地域でこれまで行われてきた様々な住宅事業について評価・分析するような冊子を作ろうということになった。基本的には学生の研究活動の一環として、卒論・修論のテーマとして取り上げることで、効率的に評価・分析し、論文を集めていこうという構想だったが、いくつか担当が決まらない事業があった。
 そこである大学研究者が「事業の担当者に依頼したらどうか」と言った。その事業組織の方も同席していたが、自分がその担当ではないことから安請け合いもできずに、また大学研究者の手前、あからさまに拒否もできず、困っていた。その事業はもう20年近くも前に完了していたことから、「当時の担当者はいないだろうか」という話も出たが、計画策定時の担当者が誰かも定かではなく、もちろんとっくの昔に退社している。「では、事業完了時の担当者はどうだろう?」という話になったので私から一言、発言させてもらった。
 「事業完了時の担当者は、事業を完了するというタスクを見事に達成したという点では、高く評価をするが、そうした実務担当者に事業の計画と完了時・完了後の比較評価などを依頼するのは難しいのではないでしょうか」。
 もちろん、その担当者が喜んでそうした作業をしたいというのであれば構わないが、一般的に考えて、事業完了時には計画時には想定しなかった状況が多くあり、多くの関係者と難しい調整を重ね、その時点でできる最善な方法で事業完了に持ち込んだはずで、その担当者に事業の評価を依頼するというのはあまりに酷ではないか。
 研究者が考える住宅事業の評価は、計画と現実のズレを明確にして、その要因を探り、改善方策を検討したり、同種の事業に向けての知見を整理するといった感じだろうか。一方、事業実務者は計画時、事業実施時、完了時で変化する住宅需要や周辺事情、協力業者との関係、資金調達や採算性、社内人事などの様々な要素を考慮しつつ、与えられた期間内で最善の努力を重ねていく。計画と事業完了時でズレがあったとしても、そこには様々な理由があるし、様々な検討と選択の結果なのだと思う。もちろん事業者側からすれば、あの判断は間違っていたかもといった反省もあるだろうが、研究者による様々な研究や評価を苦笑いして聞いているしかないし、ましてや「おまえがやれ」と言われても、なかなか困難な仕事になるだろうと想像する。
 しかし一方で、事業実施のそれぞれの局面でどういう課題があり、どういう判断をしてきたか。それが積み重なった末の事業完了なので、それらをすべて明らかにできれば、あるいは面白いかもしれない。そのためには意思決定に関わらない第三者的な取材者が常に事業者の横で記録をしていく必要があるだろうから、まあ無理かな。
 いずれにせよ、今回、たまたま異業種の人たちが参加する会議に出席して、それぞれの事業評価の視点の違いに今更ながら気付かされた。事業者は事業者として、研究者は研究者として、同じ事業であっても違う目線で評価している。入居後50年が経過した高蔵寺ニュータウンに住んでいると、研究者目線の話を聞くことが多いが、事業者目線で評価することも重要な気がする。これは住宅事業(住宅建設事業や再開発事業、住宅地整備事業等)の話だが、ひょっとしてこれは住宅に限らず、様々な事業についても言えることかもしれない。