小さな建築

 隈研吾といえば竹や木など、自然素材を使った建築物を多く作ってきている印象がある。それはたぶん、人間の身体性に近いところで設計をしていきたいという意図があったのだろうと思うが、「小さな建築」というのは「身体性」に近い位置にある。

 「はじめに」では東日本大震災を経験して、「強く合理的で大きな」建築の無力さを実感した。電気やガスなどの「インフラに・・・頼らず、直接的に自然とやりとりをして、自然エネルギーに直接依存する、自立的な『小さな建築』に興味が移っていった」(P19)と書いている。

 そこでまず思い付いたのが「水のレンガ」である。ウォーターブロックを積み上げて作られた建築物は、いつでも容易に構築でき、解体でき、修正ができる。そしてその発展形としてのウォーターブランチ。ここではブロックのなかを水などが流れ環境を守り、変化を及ぼす。細胞のイメージだ。

 「積む」ブロックの次は、「もたれかかる」である。木の板やアルミの板を使って、カードキャッスルの要領でもたれかかり、積み重ねたインスタレーションなどが紹介される。

 次に、「千鳥」組みした木のフレームで作り上げたGCミュージアム。タイルを織り上げたセラミック・クラウド。三軸織りの布を用いた店舗。そして傘を組み合わせたカサ・アンブレラ。「織る」だ。最後の「ふくらます」では、二重の膜構造で作った茶室が紹介されている。

 それぞれはそれなりに面白い。身体性と自立性をキーワードに、様々な素材と工法で「小さな建築」を作り上げていく。それは理解できるが、同時に建築家特有のこねくり回した理論と作品紹介にとどまっているような気がしなくもない。面白い。けど現実的ではない。

 それで結局「小さな建築」は一般に受け入れられるのか。先日読んだ伊東豊雄「あの日からの建築」の方が東日本大震災を受けて素直に自らの建築活動を振り返り、反省し、次の一歩に歩みだしている。それに比べれば本書は結局、いつもの建築論にすぎないように思われる。

●労働者階級に住宅を私有させる政策は、彼らをかつての農奴以下の地位に転落させ、固定させるためのまやかしでしかないと、エンゲルスは指摘した。なぜなら労働者が住宅を私有したとしても、その住宅は資本としてお金を生み出すことはなく、やがて老朽化してゴミくずとなる。そのゴミくずとなる住宅のために、重いローンを払い続けなければならない労働者は、土地に縛りつけられていた農奴以上に悲劇的な存在だというわけである。(P46)
●人間の実際の生活というものが、このような機械論的理解をはるかに超えた、複雑に絡み合った流動的なものであることを誰もが知っている。しかし建築論はいまだにモダニズム建築の機械論、臓器論から抜け出せない。伝統的な日本建築の方がモダニズムよりはるかに、生き物としての人間の現実に対する深い理解に根ざしていて、現代的である。・・・日本建築は、20世紀のモダニズム建築とは比較にならないほど生物に近く、やさしく、しなやかだったのである。(P58)
●単に小さいだけでは「小さな建築」とはいえない。「小さな建築」の理想型は、自立した建築である。生物の個体が、自然の恵みを巧みに利用して、オカミに頼ることなく、自立しているように、小さな建築も、小さいからこそ自立できる。小さいからこそ、オカミに依存せずに勝手に生きていける。そこで蓄積された「小さな」知恵を、少しずつ大きな建築にも応用していけばいいのである。(P64)