内田樹のコレクティブ・ハウス論から考える弱者をベースにしたコモンの構想

 内田樹の「コモンの再生」を読んでいる。なぜ今、内田樹がコモンということを言い出したのか、興味があった。これを読みつつ思い出したのが、かつて内田樹が「コレクティブ・ハウスを強く否定していた」ことである。それで内田樹のブログ「内田樹の研究室」を検索してみた。
 2011年1月に投稿された「教化的ということについて」という記事では、朝日新聞がいかに上から目線の教化的な視点で紙面が作られているかということを批判しているが、その中で「コレクティブ・ハウスの問題点は…『すでに他者と共生する十分な市民的成熟に達したメンバー』以外はこの共同体に参加できないことである」と書かれている。「これは一種の『強者連合』」であり、「私たちの社会の構成員の過半」である「『市民的に未成熟な弱者』を支援し、癒し、成熟に導くための装置がビルトインされていない」と言うのだ。
 また、その前の2010年11月に投稿された「『七人の侍』の組織論」では、コレクティブ・ハウス実践者から「子供のいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護しなければならず、若い人たちは『他人に介護してもらうためにコレクティブ・ハウスに参加したのではないか・・・』という猜疑のまなざしで老人たちを見ている」という話を前提に、「どうすればこの共同体を継続できるのでしょう」という質問に対して、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」と答えている。
 その記事では続いて、「全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在」せず、必ずオーバーアチーブする者とアンダーアチーブに留まる者が生まれるから、それを許容できるのは、『他者と共生する十分な市民的成熟に達したメンバー』に限られるということらしい。そして、「弱者」をベースとした共同体、内田氏の言葉によれば「『もっとも非力なもの』を統合の軸にし」た共同体でなければ生き延びることはできないとして、以降、『七人の侍』における勝四郎の役割について筆を進める。私は『七人の侍』を観たことがないので詳述はしないが、それ以降に内田樹が立てる論はよく理解できる。仲間に弱者がいてこそ、強者の価値が見出される。弱者は弱者ゆえにその集団で価値を持つのだ。
 内田氏がコレクティブ・ハウスを評価しないのは、「お互い助け合い、助けられることでプラマイゼロ」という理想を前提としているからだ。では逆に、最初から弱者がいる前提でコレクティブ・ハウスを作ればどうなるだろうか。低家賃住戸があり、そこの賃料は他の住民の家賃で補填されている形の賃貸住宅。でも、そんな住宅に入居を希望する人はいないだろう。高家賃住居はもちろん、低家賃住居にだって入居したくない。
 1月19日に放送された「ガイヤの夜明け:ニッポンの問題…“住まい”で解決!」で、神戸市長田区の介護付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」が紹介されていた。ここでは1階のリビングルームを地域に開放することで、周囲に住む地域の人々との交流と助け合いが生まれていると言う。だがテレビを見ただけではどうしてこういうコミュニティが生まれたのか理解できない。ネットで検索すると、「はっぴーの家ろっけん」を取り上げたいくつかのサイト記事に辿り着く(例えば「多世代が集まる『大家族』の新しいカタチ。介護付き住宅『はっぴーの家ろっけん』」など)。それらを読むと、どうやらシェアハウスを経営する首藤氏が開設前に地域で長期間にわたり実施してきたワークショップがベースにあるようだ。
 そしてシェアハウスの入居者を「弱者」とすれば、彼らに関わることが自分にとってプラスになると考える人たちが集まっている。シェアハウスの住人が『七人の侍』の勝四郎かどうかはわからないが、コモンを構想する時に「『弱者』をベースにする」というのは、重要な視点かもしれないなあと思った。その意味において「弱者のいないコレクティブ・ハウスは継続しない」というのは正しいのかもしれない。
 コレクティブ・ハウスと言えば、「かんかん森」などが有名だが、最近はどうなっているのだろう。それよりも最近はシェアハウスが一般的かもしれない。弱者の入居を前提としたシェアハウスの実例があったらぜひ見てみたい。想像するに、比較的容易に入退去ができる形なら、入居者の入れ替えがありつつ、一定期間存続できるのかもしれない。弱者を支援することに喜びを感じる人や時期はあるようには思うから。もっともその場合でも、弱者支援のやりがい搾取を前提にしているのではないかという疑念を完全に拭い去ることはできない。『七人の侍』の世界は現実社会でどのように実現しているのか、内田氏に実例を示してもらえるといいのだけれど。引き続き「コモンの再生」を読み進めよう。