町を住みこなす

 大月先生の講演会が先日あった。あいにく参加できなかったが、本書と同じタイトルというので、さっそく読んでみた。大月先生には2015年に講演会があった時にも参加した。その時は「人口減少時代の住宅地運営~住宅地における多様性の獲得」というタイトルで、本書とほぼ同じ内容の話だったような気がする。すなわち、「多様な住宅、特に賃貸アパートがあることによって、地域の循環居住が確保され、住宅地の多様性が確保される」といった内容。これに、第4章以降で、東日本大震災時の仮設住宅計画に関連して、居場所づくりの話が付け加わっている。いや、家族資源:地域資源:制度資源という話は、先の講演会でも話されていたから、私が単に忘れただけかもしれない。
 書かれていることに異論はない。そのとおりだと思う。今回の講演会に参加した友人から、「高蔵寺ニュータウンの話をもされていた」と聞いた。どんな話だったんだろう。それを聞けなかったのが残念だ。高蔵寺ニュータウンについては、高齢化や空家が多いといった話をよく聞くのだが、UR賃貸住宅の空き家は多いが、戸建て住宅の空き家率は3%程度に収まっており、けっして高くない。また、ニュータウンに接する周辺住宅地も含めてみれば、賃貸アパートもあれば、商業・業務施設もあり、ある程度の多様性は確保されている。高齢者についてはもう20年もすればいなくなるはずで、その時には周辺住宅地も含めて、十分に地域循環居住が達成されている、持続性のある街になっていると考えている。
 課題は、空き家が多く発生している中層階段室型のUR賃貸住宅をいかに地域循環居住の双六の中に組み込んでいくかということだろうか。賃貸アパートがあればいいという訳ではない。「地元」化のためには「団地の環境を気に入っている人が一定割合いる」(P132)ことが必要だと言うのだが、一定割合以上の賃貸アパートはやはり余剰と言うべきだろう。適当な割合というのはやはりなかなか難しい。

○たいていの団地というのは、当初の設計図通りには家は建たないし、建っても、時間が経つにつれて違う機能に置き換わったりするものである。・・・しかし、これを居住者の立場から見たらどうだろうか。団地の隅から隅まで、似たような住宅ばかりが軒を連ね、その間に空き地も店舗もないような息の詰まるような町ではなく、「町角のタバコ屋」みたいな形で、町のところどころに住宅と馴染みのよい商店や教室があり、たまに空き地で家庭菜園がなされていて、買い増しした車の置き場にもそんなに不自由しない。こうした点では、当初は、ぎこちなく未熟であった団地が、多様な世代に住まわれるための多様な機能を時間とともに獲得し、成熟した町に成長したともいえるのではないだろうか。(P51)
〇賃貸アパートは、戸建て住宅や分譲住宅とはかなり異なる住民層を受け入れる器として機能している実態がある。このことを、今後の町のつくり変えに、有効に活かす可能性は十分あると考える。・・・できるだけお金のかからなそうな工夫と努力で、町を少しずつつくり変えていく方策だってあるに違いない。排除とコントロールは違うのだ。排除の道を選んでしまえば、町から多様性も排除されていく。逆にコントロールの道を選んで、多様性のある生き方を許容する町を目指そうじゃないか(P62)
〇「近居」を契機として、子育て世代が移り住んでくれることは、そこの地域の人口構成を「多様化」することにつながる可能性をもっている。・・・画一的なデザインと規模の住宅だけで構成される町は、多様な人を呼び込めないだろう。いろいろな形や大きさや機能をもった建物が「混ざる」ことによって、多様な人が移り住む素地ができ、近居の先に、町における多様性の確保、そして、町の持続性の獲得というものが見えてくるのではないか。(P105)
〇若者が住むための賃貸アパートも同時に、地域循環居住の計画の中に仕組んでおくべきであろう。/老若男女がどんな家族形態であるときにも住めるような、地域循環居住が可能な状況の中ではじめて、持続性をもって町が住みこなされて、ゆるい定住環境が実現できるのである。もちろん・・・たくさんの新陳代謝があった方が、町はかえって活気づくことも事実である。一定の割合の人がゆるい定住をし、一定の割合の人が入れ替わる。こうした、いわば町の自然な新陳代謝のようなものが、町を急激にいびつに変化させない、いわば恒常性(ホメオスタシス)をもたらしてくれるのだろう。(P127)
〇ある人にとってその町が薬箱のように見えてくると、・・・なるべくこの薬箱を手放さないようにしたくなるに違いない。・・・また、この町が自分の薬箱のように思えるまでに、自分がこの町に費やした時間とエネルギーは莫大だ。しかも、その時間の蓄積はそのまま町での暮らしの思い出でもある。・・・こうして町は、居続けたいと思った人びとによって、時間をかけて拠点化されていくのである。そうして拠点化された結果、この町を人びとは「地元」と呼ぶようになる。(P140)