日本住居史☆

 来年の春から、某大学でハウジング論の講義をしてほしいと依頼があった。それで少し前からそのための準備をしている。日本の住宅事情や住宅政策についてはそれなりに知識と経験もあるが、住宅史については興味に沿って何冊か本を読んだ位で、体系的な知識を有していない。そこで勉強のため適当な本はないかと探したところ、本書に辿り着いた。もう15年近く前に発行された本だが、縄文・弥生期の住居から現代の住宅まで、実に手際よく、かつ非常にわかりやすくまとめられている。授業計画では、住宅史は90分一コマで終える予定であり、そのための資料も前任者から引き継いでいるが、それを補完する意味でも本書の記述は大いに参考になる。何より具体的でわかりやすいのがいい。
 縄文・弥生期から時代ごとに全部で23節。それぞれ具体的な実例(実物が残っているものもあるし、古文書の図面等によるものもある)が1例提示され、それを説明する中で、それぞれの住宅の使用方法や他の時期との違い、特徴などが具体的に理解できるようになっている。例えば最初の「戦う弥生人の生活と集落」では、火を炊いた炉の跡がどのような形で発掘され、その位置が住居によって異なることから原始住居のゾーニングについて解説する。下に引用したが、慈照寺銀閣の東求堂がいかに「普通」であり、それが実は重要なこの時期の住居の変化を示していると説明する下りは、なるほどと納得する。
 また近代に移って、日本初の公営集合住宅は横浜市で建設された「中村町第一共同住宅館」であることや、日本女子大同窓会による会員向けの集合住宅「桜楓会アパートメント・ハウス」が、日本初の洋式集合住宅「お茶の水文化アパートメント」よりも早く建設されていたことなど、本書で初めて知ったことも多い。ちなみに日本初の集合住宅が軍艦島のもので、お茶の水文化アパートメントが一般向け集合住宅の第一号という点では変わりはない。
 大学の建築史の授業などで使うにはもっと体系的である必要があるのかもしれないが、一般の方が読んでも十分に面白い。そしてそこらの建築専門家よりもはるかに多くの知識を得られるだろう。読み物としても優れているし、何より私が読んで楽しかった。レベルの高い良書と言える。

日本住居史

日本住居史

○【水沼淑子】近代以降、住宅の意味や役割は大きく変化した。近世までの住宅の主要な機能の一つは格式の表現であり…接客を第一義とする住宅が形成された。しかし、近代以降の住宅では、家族の生活こそ住宅の中枢であるという考え方が広く浸透し…た。…一方、住宅の商品化は住宅の意味そのものを大きく変えた。経済効率のみで住宅を考えることは、スクラップ・アンド・ビルトを促し、地域固有の住宅の伝統や文化を過去のものとして葬り去った。住宅が「時代を写す鏡」としての役割を見事に果たした結果である。(P8)
○【小沢朝江】〔慈照寺〕東求堂の…四畳半の空間は、いわば「普通」の和室であって、現代にあっても何の違和感もない。ということは、逆に寝殿造と比べれば、劇的に変わっていることを意味する。…では、何が新しいのか。/最も大きいのは、畳が敷き詰められていることだ。…明障子が外廻りに使われている点でも新しい。/もう一つ、天井があることも大きな変化だ。…この結果…平面に関係なく建物全体に大屋根を懸ける方法が採られるようになり、母屋・庇構造は次第に消滅していった。(P96)
○【水沼淑子】バンガローとはもともと「ベンガル風住宅」の意であり、インドのベンガル地方原住民の簡易なベランダ付き住宅をさす。…ベランダコロニアル様式と呼ばれることもあるこのスタイルは…西洋館の定番だった。…幅の狭い板を横向きに貼り付けた下見板張りも西洋館らしさを決定づける要素である。下見板張りは、北海道開拓のために来日したアメリカ人技師たちが持ち込み…ペンキを塗った。…下見板張りの西洋館のスタイルを下見板コロニアル様式と呼ぶことがある。(P238)
○【水沼淑子】大正11年、上野公園で開催された平和記念東京博覧会には明治以降の日本における住宅改良の成果が住宅の実物展示として具現化した。今で言うモデルハウスである。…これらの住宅を実物展示した会場は「文化村」と命名された。そしてここに展示されるような洋風の外観をもつ瀟洒な小住宅を「文化住宅」と呼ぶようになった。…「文化住宅」はまたたく間に流行し、一室のみ洋室を附加した…住宅までも「文化住宅」と呼ばれるようになった。(P317)
○【水沼淑子】関東大震災前に横浜市は4棟の共同住宅館を建設した。中村町第一共同住宅館が竣工したのは大正10年5月のことである。民間の集合住宅の先行例としては、日本女子大学の同窓会が卒業生のために建設した桜楓会アパートメント・ハウスなど数例がある。しかし、恒例の集合住宅、とりわけ、耐震耐火造の集合集宅となれば話は違う。中村町第一共同住宅館は…日本の公営集合住宅の第一号だった。(P327)

縮減時代の新たな地域マネジメント 「直観に従う勇気」を持つこと

 内田樹の講演を聞いてきた。神戸女学院大学名誉教授にして思想家。内田氏の本はこれまで、「現代思想のパフォーマンス」や「ためらいの倫理学」などの初期の頃から読んできた。最近は少し食傷気味な感もあるが、やはり来名するからには行かずばなるまい。友人の友人が親戚で、友人が別の友人につないで実現された、愛知大学三遠南信地域連携研究センター主催の「第1回アシタシアサロン」。Zoomでも配信されたが、私は幸運にも、愛知大学のグローバルコンベンションホールで、生の内田樹を拝見することができた。
 タイトルは「縮減時代の新たな地域マネジメント」。冒頭で、「越境地域マネジメント研究」に取り組む愛知大学三遠南信地域連携研究センターに対して、「今時、越境というのは流行らない」と軽くジャブを入れた後、「学際研究や深掘りといった言葉はもはや使われなくなった」と、最近の日本の政治状況やトランプ対バイデンの討論会などを例に挙げて、世界的な幼児化、文明の没落傾向を嘆いた。
 大阪府大阪市を統合する大阪都構想参議院不要論などの最近の風潮に対しても、「異なる意見を尊重し調整すること」について、多くの人が非効率だと言い、「多様性を維持し尊重すること」に意義を感じなくなっている。その理由は「日本が貧乏になった」から。1989年には世界の16%を占めた日本のGDPも今や6%にまで凋落した。経済が拡大しないものだから、自然、個々人のパイの奪い合いになる。すると、パイの分配が主要な関心事となり、査定が幅を利かせるようになった。
 「パイが大きくならないのであれば、餅を食べたらどうか」と発想を変えるのが、イノベーションだが、今の日本ではそうした風潮は起きない。加えて、人口減である。現在、1億2500万人程度の日本の人口だが、既に減少に転じて久しく、2060年には半減、2100年には現在の1/3になる(と、手帳を見ながら話されたが、国立社会保障・人口問題研究所の平成29年推計によると、出生低位・死亡高位の条件で、2060年に8600万人、2100年には4800万人となっているから、多少話を盛ったかもしれない)。こうした状況に対して、政府は少子化対策などを言うばかりで、人口が減少した時にどういう国づくりをしていくのか、その方針をまともに述べてはいない。述べてはいないけれど、「首都一極集中」そして「地方切り捨て棄民政策」という方針であることは明らかである。
 しかし実は、人口5000万人だった明治末にも日本全国に人は住んでいた。「それを目指すべきだ」というのが内田氏の主張だ。「地方離反シナリオ」と呼ぶ。経済思想家の斎藤幸平氏は「人新生の『資本論』」で「現在の状況を打破するには、経済成長を止めるしかない」と言っている(さっそく読まなくては!)。また、神戸大教授の医師、岩田健太郎との対談の中で、「新型コロナは都市の脆弱性を明らかにした」と語っている(岩田健太郎との共著「コロナと生きる」も読まなくては!)。すなわち、在庫を持たず、必要な時に必要なモノを取り寄せるという「ジャスト・イン・システム」の不都合さが浮き彫りになった。アメリカではさっそく「国内生産を強化しよう」という動きも見られるが、その時に重要なのが「ニッチをずらす」という考え方である。
 ところで、人口減少が始まると、既に農村部では獣が人間の居住地に侵入して、様々なトラブルを引き起こしているが、自然の繁殖力というのはバカにならない。一方で、自然と居住地とのフロントラインに人間を置くことで、自然の繁殖はかなり抑えられる現実もある。経済学者の小沢氏(調べたが、誰か不明?)は、「農村に人口の1/4を置け」と主張したが、地方部の文化的な魅力等を発信するなどして、「地方離反シナリオ」をもっと強力に推し進める以外に日本の人口減に対応する方法はない。2040年には中国でも人口減が始まる。人口減対策について「今こそ衆知を集めるべき時だ」と訴え、講演は終わった。
 その後の質疑応答では、「地方離反シナリオ」のための具体的な方策や「直観の重要性」などについて質問があった。後者の質問に対して、スティーブン・ジョブズの言葉を引き、直観はみんな持っている。大事なのは「心と直観に従う勇気を持つこと」と答えていた。この言葉がもっとも心に残ったかもしれない。内田樹の言葉ではなく、スティーブン・ジョブズの言葉で恐縮だが。
 肉眼で見、肉声を聞いた内田氏は、予想以上に「普通」でマイルドだった。声も優しい。そして、多くの書物を読み、そこから自分で考えているということがわかる。「縮減時代の新たな地域マネジメント」についても、具体的な方策は直面するそれぞれが考え、行動していくべきだろう。「私に何ができるのか」と自問し、自答することは難しいが、久しぶりの講演に新鮮な気分を感じた。「直観に従う勇気」。そのために、まずは自分を信じること。そして、結果を受け入れること。そんな「勇気」を持つことが重要だと得心した。

名古屋栄に「ヒサヤオオドオリパーク」がオープン

 しばらく工事が進められてきた名古屋栄地区の久屋大通公園が先月18日、リニューアル・オープンした。たまたま当日、名古屋へ行く機会があったので、ついでに寄ってきた。時間はちょうどお昼時。だが、天候はあいにくの小雨模様。それでも久しぶりにオープンした公園には多くの人が集まっていた。
 地下鉄「栄」駅で降りると、地上に出て、まず南方向に歩いて行った。栄の中心的なビルの一つであった中日ビルは解体工事が進み、跡形もなくなっている。それを横目に、久屋大通を南に向かう。今回オープンしたのは、外堀通から錦通までの「北エリア・テレビ塔エリア」で、それより南の若宮大通までの「南エリア」は、これから整備が進められる。だが、以前、市バスのバスターミナルがあった区域については、「栄バスターミナル(噴水南のりば)跡地暫定活用事業として、2023年春までと期間を区切って再整備が実施され、中日新聞社を代表とする事業グループにより、今年3月に「ミツコシマエヒロバス」がオープンしている。

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解体された中日ビル

 広小路通に面してイベント広場があり、一周70mの小さなトラックと人工芝を介して、南に、屋上バーベキューのある平屋の商業施設が建つ。小雨であまり人出は多くなかったが、パラソルの下のベンチで食事をするグループもあり、これまでよりも広々とした感じがして気持ちいい。ただ、「ミツコシマエヒロバス」という名称は、久屋大通西側に隣接する三越百貨店の前ということを知っている人にはいいが、あまりにカタカナが長く連なると、どこが切れ目か、わからなくなる。「ミツコ・シマ・エヒロ・バス」ってどういう意味。

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ミツコシマエヒロバス

 南へ歩くと、途端に人通りもなく、寂しくなる。かつて森永製菓がスポンサーとなり「エンゼル球場」があったことから、「エンゼルパーク」と名付けられているが、中でも北側の区域は「愛の広場」と呼ばれる。「慈(いつくしみ)」というタイトルが付いたベンチで和む親子や鳩と戯れる子供らが楽しそうな「愛・5人家族」など、多くの銅像が展示され、また、間歇的に噴き上げる噴水広場もあるが、今は歩く人もなく、ひっそりと次の整備を待っている。これらの銅像はどうなるのだろうか。

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ベンチに座る「慈」
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「愛・5人家族」

 そのまま南に歩いても寂しくなるばかりなので、「愛の広場」の南端辺りで引き返した。「ミツコシマエヒロバス」の広小路通を挟んで北側、錦通との間の空間が「希望の広場」。ここにある「希望の泉」は変わらず、元気に水を噴き上げている。噴水越しに見るテレビ塔の姿もこれまでと変わらない。錦通久屋の交差点から東を見ると、「オアシス21」、そして「愛知県芸術文化センター」と「NHK名古屋放送センタービル」が並ぶ。また、錦通の中央分離帯には野々村一男作の「双身像」が建っている。

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希望の泉
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愛知県芸術文化センター」と「NHK名古屋放送センタービル」

 横断歩道を渡ると、いよいよ、「ヒサヤオオドオリパーク」の一角に足を踏み入れる。だが、公園の両サイドに並ぶ店舗に視界を遮られて、まだテレビ塔を見ることができない。これまでも大きな木々に遮られていたかもしれないが、建物の陰というのは少しいただけない。正面に回り込むとようやく、テレビ塔が全貌を見せてくれた。かつてはレンガ敷きの広場だったが、今度は芝生広場。そしてサンクンガーデン(旧「もちのき広場」)を挟んでテレビ塔が聳える。左右にはびっしり店舗が並ぶ。

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錦通から見るテレビ塔

 「ヒサヤオオドオリパーク」は正式には「レイヤード ヒサヤオオドオリパーク」、若しくは「RAYARD Hisaya-odori Park」と言う。2017年の都市公園法の改正により創設された公募設置管理制度(Park-PFI)に基づき、名古屋市が公園の整備及び運営管理を行う事業者を公募し、三井不動産(株)を代表とする事業者を選定し、整備したもので、「RAYARD(レイヤード)」は三井不動産が用いる公園一体型商業施設のブランド名だ。それにしても、こちらも全部カタカナで表記するのは煩わしい。せめて「レイヤード 久屋大通パーク」が一般的にならないものか。
 サンクンガーデン(単に「地下広場」と呼ぶらしい)には大型ビジョンが設置され、広場手前の手すりにもたれてテレビ塔を眺めるのも面白い。サンクンガーデンを回り込むと、テレビ塔に向けて、水盤が延びる。水盤の両側は芝生。そして歩道を挟んで、店舗が並ぶ。水盤に映るテレビ塔は夜間にはもっときれいになるようだ。ただし、両側の店舗は、水色に塗られた「Café de paris」や縦縞模様の「ダンデライオン・チョコレート」など、外観もバラバラで、猥雑な感じがする。

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地下広場とテレビ塔
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水盤とテレビ塔

 そのままテレビ塔下まで歩く。テレビ塔は免震工事をするとともに、エレベーター棟を増設。内部も改修され、ホテルやレストランなどが入る。だが、テレビ塔の左右(東西)には、足元まで店舗が迫り、窮屈になった印象。テレビ塔や店舗に用がないと、スタスタと通り過ぎてしまう。テレビ塔は近くで立ち止まって上を眺めるのではなく、遠く離れて見なさい、という感じ。少し気ぜわしい。

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テレビ塔の足元

 それでもテレビ塔の北側、桜通の南側は芝生広場が広がっており、少しホッとする。振り返ると、窮屈そうにテレビ塔が聳えている。それにしても、各店舗の外観がバラバラなのは、あえて意図したものだろうか。桜通の東側にかかる歩道橋を渡って、一番北のエリアへ。ちなみにこの歩道橋、「レインボーブリッジ」と言う。トヨタ自動車に勤務していた友人から後日、「レインボーブリッジは、久屋大通公園内にロサンゼルス広場が整備された際に、トヨタ自動車が寄付をして設置された」という話を聞いたが、ロサンゼルス広場が整備されたのは、お互いまだ就職前の1978年。彼はたぶん就職直後に、先輩からその話をよく聞かされたのだろう。

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レインボーブリッジからテレビ塔を振り返る

 歩道橋を渡ると、「ZONE 2」と呼ぶエリア。テレビ塔周辺やその南側ほどではないが、店舗がパラパラと距離を取って、立ち並んでいる。周りの機微の間から、古い町家が見える。今までもそうだが、公園は、周囲の街並みとは全く無関係に整備された。足早に過ぎ去ると、魚ノ棚通から北の「ZONE 1」には気持ちよく芝生広場が広がっている。中央に、丸みを帯びた2体の像が並ぶ形のモニュメントがあり、左右に一棟ずつの店舗が立地する。東側の「FabCafe Nagoya」は大垣共立銀行が協働で出店参加をしている。と、直前にお会いした銀行員の方が言っていた。

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「ZONE 2」
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木々の間から町家
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「ZONE 1」

 そして最後の通りを渡ると、あとは外堀通を走る名古屋高速道路まで何もない。いや、その手前にアイストップとして、「天狼院書店」。カフェが併設され、居心地も良さそうだ。この立地でどこまでがんばれるかは定かではないが。そして振り返る。広がる芝生の先にテレビ塔。この景観はすごい。以前の公園は両側に高木が聳え、薄暗い雰囲気だったが、一変した。かつての林がなくなってしまったのは残念という意見も聞くが、左右には適度に高い木々が残っており、しょうがないんじゃないかな。

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芝生広場と名高速
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芝生広場とテレビ塔

 それよりも、公園の左右、車道と歩道、そしてビルなどが立ち並ぶ街区への配慮、というか、意識が全くないことの方が問題。帰りは公園東側の歩道を歩いた。これまでも「ZONE 2」の辺りは、公園地下のセントラルパーク駐車場への入口もあることから、左右の歩道空間と公園との縁は切れていたが、それでも前は木々があった。しかし公園整備後は、店舗の背面が丸見えになっている。景観への配慮は全くない。ところどころ店舗の切れ目から公園内が見えるだけ。

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東側歩道から見る店舗背面
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東側歩道から見る公園

 そして、周囲との連続性のなさが特に際立つのが、「オアシス21」との関係。テレビ塔を過ぎて、左手に「オアシス21」、その向こうにはNHK名古屋放送センタービルが見える交差点があるが、公園側の外観は実に味気ない。「オアシス21」の最上階「水の宇宙船」に広がる水面には、テレビ塔に向けて、色とりどりのカーネーションの花を集めた架け橋「Flower Ship(フラワーシップ)」が作られていたが、オアシス側のお祝いに対して、テレビ塔側はあまりに冷淡。「オアシス21」は、芝生もきれいな気持ちのいい空間なだけに、商業施設で賑わう「ヒサヤオオドオリパーク」を訪れた人にとっても、憩いとなる空間のはずだ。同じ名古屋市が所有する公園のはず。もう少し連携があってもよかったのではないか。

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オアシス21北西の交差点
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オアシス21愛知芸術文化センター
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愛知芸術文化センター前の広場
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オアシス21」の「花の架け橋(Flower Ship)」

 「オアシス21」からエレベーターで地下まで降り、地下街のセントラルパークに行くと、多くの店舗にシャッターが降ろされていた。11月6日にリニューアル・オープンの予定だが、スーパーマーケットを核とした食物販ゾーンが新設される計画となっている。今は多くの集客を集める「ヒサヤオオドオリパーク」だが、名古屋人は手強い。名古屋初出店の店舗も多いが、いつまでこの賑わいが続くだろうか。周辺の業務施設や文化施設、商業施設などとの関係性を断ち切って、地下鉄駅利用者だけをターゲットにするのでは、意外に厳しいかもしれない。
 おしゃれなテナントか、都心のスーパーマーケットか。地上か、地下か。久屋大通の上下で異なった戦略の商業施設がオープンする。どんな結果になるか。これは見ものだ。