熱海の奇跡☆

 4月に筆者・市来広一郎氏の講演会「熱海のリノベーションまちづくり」に参加した。非常に啓発される講演会だった。次は本書を読もうと思っていたが、ようやく読み終えることができた。時間が空いたが、それもまたよかったのではないかと思っている。講演会だけではわからない。でも本だけでもわからない。両者を経験していよいよ「リノベーションまちづくり」の意味がわかってきた。
 「民間が利益をあげてこそ持続可能なまちづくりとなる」(P055)。「だからこそ、まちづくりは、あくまでも民間主導であるべきだ」(P015)。というのは私が日頃思っていることそのままだ。だが、思っているだけでは何も生まれない。市来氏がすごいのは、それを自ら実践していることだ。
 そして、「まちづくりとは不動産オーナーこそがすべき仕事」(P103)というのもそのとおり。「転貸ディベロッパーとしての役割が、現代版家守の一つのあり方」(P129)という言葉もよくわかる。ただし、誰もができるわけではないし、すぐにできるわけでもない。市来氏も最初からそこを目指していたわけではなかった。最初はカフェから。そしてさまざまな経験を続ける中で、そこに辿り着いている。
 一方で、やはり市来氏はすごいと思うのが、「CAFÉ RoCAは……失敗事例です」(P127)と言える決断と判断力。しかし失敗なる単なる失敗とせず、それを経験として次のチャレンジへ向かっていける精神力。だからこそ成功もついてきたと言えるし、成功したからこそ言えるという面もあるのだろうが、冷静に見極める洞察力と行動力がまちづくりの成功には欠かせないということか。
 本書の後半には「クリエイティブな30代」への期待や世代交代を任せてくれた前世代への感謝が述べられている。前世代に属する私としては、クリエイティブな30代はどこにいるのか、どうすれば活躍してもらえるのかと思ってしまう。「いやいや、あなたがそんなことを言っているから、30代は寄ってこないんですよ」。そうかもしれない。
 熱海は奇跡だったのか。本書では各章の末尾に「第○章で紹介した『成功要因』」がまとめられている。でもそれはそのまま他の地域では使えない。地域にはそれぞれの事情や資源があるはず。そして奇跡を起こす偶然も。それに巡り合うことができたらどんなに嬉しいだろうか。

熱海の奇跡

熱海の奇跡

○私たちのまちづくりは、税金に頼るのではなく、自ら稼ぎ、街に再投資し事業を生み育てることで、街に外資を呼び込んだり、経済循環を生み出すことを目指す事業です。……街の経済と向き合うことなしに、衰退している街を生まれ変わらせるということはできません。……観光やまちづくりの分野は本来、街として稼ぐ部分であり、そこで稼いだお金が税金として納められることによって福祉や教育などの行政サービスが可能になるはずです。/だからこそ、まちづくりは、あくまでも民間主導であるべきだと、私は思っています。(P015)
○地元の人が地元を知り、地元を楽しむ。/三年間の活動で、この目的は十分に達せられたと感じていました。……また、もう一つ大きな課題がありました。それは、オンたまの取組が全くお金にならないということです。……オンたまは資金面で言うと、持続可能な仕組みになっていなかったわけです。/このよう……ことから、「オンたま」を終了させる決意をしたのでした。(P083)
○私たちは「まちづくりとは不動産オーナーこそがすべき仕事」だと考えています。なぜなら街の価値を向上させて、一番メリットを受けるのが不動産オーナーだからです。……街というエリアを魅力的なものに変えるには、その地域全体の価値をどうやって上げるのかという発想が必要になってきます。……私たちが株式会社を立ち上げたのは、戦略的に地域の価値を高めるという目的のためでした。(P103)
○実はCAFÉ RoCAは成功事例でもなんでもないんです。失敗事例です。……何が失敗だったかというと、CAFÉ RoCAは利益を出せなかった。黒字にできなかった。/いくらいい場所をつくっても、赤字事業ではダメ。……失敗して、やめる。/でも、そこから次を考える。/これからもたくさんの失敗と、そして成功を繰り返していきたいと思う。(P127)
○空き店舗をオーナーさんから借りて、意欲のある人に貸し出す……。そのために必要なリノベーションをすることが私たちの主な仕事であり、新しいお店から入る家賃が会社の利益になります。その収益を使って、また、新たなリノベーションの資金にするというわけです。こうした転貸ディベロッパーとしての役割が、現代版家守の一つのあり方です。(P129)

団地と移民

 安田浩一と言えば、「ネットと愛国」で有名になり、その後も右翼やヘイトスピーチなどを取り上げたルポルタージュが多いライターだ。本書では団地に住む移民を中心に、差別やヘイトの問題を取り上げているのかと思って読み始めたが、思った以上にまともに現在の団地を取り巻く現状や課題について調査している。
 第1章、第2章で取り上げるのは、団地の高齢化や孤独死の問題。住民による孤独死対策の活動なども紹介するが、副題にもあるとおり、「課題最先端『空間』」として設定しようとしている。第3章「排外主義の最前線」は、ヘイト活動のターゲットとなった芝園団地における若者や学生たちによる活動を紹介する。「人種間というよりは、世代間のギャップなんです」という中国人入居者の言葉は鋭く急所を突いている。
 そして一転、第4章ではパリの郊外団地を取材する。移民たちが集まる郊外で活動をする者たちは、単に生活支援ではなく、移民たちを難民やホームレスを支える活動に誘い、誇りと生きがいを喚起しようとしている。第5章で取り上げるのは広島市基町団地。大高正人によるデザインと改良事業は建築の専門家には有名だが、入居者の現状について聞くことはこれまでほとんどなかった。ガタロと呼ばれる掃除人兼アーティストの視線から、中国残留孤児や中国人入居者の生活が描き出される。そして第6章は保見団地。ブラジル人の視点から団地を描いている。
 最期の「あとがき」には「団地は、移民のゲートウェイとなる」という副題が付いている。高齢者と外国人。現在の日本社会の中で疎んじられがちな存在同士を融合し、アマルガムする場として団地が最適かもしれないと言うのだ。現実問題として、団地の高齢化は“限界集落”と呼ばれても仕方がないほど進んでいるし、外国人入居者も多い。筆者が主張するような解決策が有効となる可能性もあるだろう。しかし逆にうまく融和できず、大爆発する可能性もある。団地であれば、たとえ大爆発しても大丈夫だろうか。
 安田浩一という一般の人々にも影響力のあるライターが団地問題を取り上げたことは評価すべきかもしれない。しかし本書が逆に団地スティグマを広める結果となってしまわないかと心配にもなる。一般の人は本書をどう読み、団地をどう理解しただろうか。団地の現状はあくまで日本の居住の問題が先進的かつ集約的に現れているのであるから、その解決も一般の住宅施策の中で解決すべきというのが私の持論だが、難しいだろうか。特別な住宅地である団地をさらに特別な地域とするというのではない解決策はないものか。

団地と移民 課題最先端「空間」の闘い

団地と移民 課題最先端「空間」の闘い

○給水塔は団地のシンボルだった。屹立し、高い空間から、コミュニティを見守ってきたのではないか。いや、人々は給水塔を見上げながら、団地の住人であることを自覚していた。改築によって給水塔が撤去されたとき、同時に団地を支えてきた”つながり”もなくなった。支柱を失い、団地は団地でなくなった。……団地とは……濃密な人間関係によってつくられたコミュニティを意味する記号でもあったのだ。(P16)
○「人種間というよりは、世代間のギャップなんですよ。高齢者ばかりの日本人と、働き盛りの中国人では、どうしたって交流の機会が少なくなる。接触がなければ相互理解だって進まない」/なにかのはずみで、無関心は容易に憎悪や不寛容に変化する。/差別は、そうした場所に入り込む。憎悪を煽り、亀裂を持ち込む。……団地はときに、排外主義の最前線となる。(P87)
○日中両住民の間に最初から壁が置かれているわけではないし、境界線が引かれているわけでもない。両者を分かつ何かがあると、みんなが思いこんでいるだけなのだ、と。/「文化、習慣、言葉、どれもが違う。でも、違いは壁でも境界でもないと思うんです。違いを理解したうえで、普通に付き合えばよいだけなんですよね。同じ地域でともに生きているのだという共通点こそ重要なのではないでしょうか」(P98)
○下から見上げると世の中がよくわかる。……ガタロは、そうした下流のもっとも深い場所から、団地の移り変わりも目にしてきた。/「被爆者、在日コリアン、貧困者、そしてヤクザも住んでいた。様々な人生が、この団地で交差し、溶け込み、ときにぶつかり、独特のダイナミズムを生み出してきました」……「ここはそういう場所なんですよ。多様で、多彩で、多文化の街。絶対に一色に染まることはない。面白いじゃないですか。それでこそ基町です」(P188)
○政府の思惑が何であれ、少子化と急激な高齢化が進行する以上、好むと好まざるとにかかわらず、移民は増え続ける。/その際、文字通りの受け皿として機能するのは団地であろう。/そう、団地という存在こそが、移民のゲートウェイとなる。/私はそこに、団地の高齢化問題を解決するひとつの解答が示されているようにも思うのだ。……いつの時代であっても、地域に変化をもたらすのは“よそ者”と“若者”だ。……限界集落化した団地を救うのは外国人の存在かもしれない。(P251)

石見銀山・大森の町並み

 山陰旅行で訪れた古い町並み歩き。倉吉の報告をしてからだいぶ時間が過ぎてしまった。公私にゴタゴタが続いているが、気分転換のためにも次の石見銀山・大森の町並みを報告しておこう。
 石見銀山へは4月29日の午後に到着した。前日、倉吉から境港へ行って新鮮な魚介料理を堪能し、この日は足立美術館松江城と堀端で出雲そばを食べてから石見銀山に入った。宿にクルマを止めるとすぐに石見銀山・龍源寺間歩まで歩いた。自然の中を歩く往復4.5kmの散策は気持ちがいい、と言いたいところだが、雨に降られ、散々な状況。だが途中にあった大森小学校の木造校舎は伸びやかで気持ちがよかった。

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大森小学校
 宿の正面に国史跡「渡辺家住宅」があり、夕食・朝食ともに渡辺家住宅の土間を通って奥にある「せせらぎ茶房まぶのや」で食事をした。30日は朝から大森の町並みを散策する。土産物屋などが開くのは10時・11時過ぎのようで、9時にはまだ町並みを歩く人も少なく、その佇まいを堪能した。赤いポスト。通りに面して緑の表出が気持ちいい。家屋の多くは平入りで、通りに面してガラス障子の家も多いが、昔は格子窓だったのだろう。低い30㎝ばかりの縁が出ているのもかわいい。友人に勧められたカフェ・ギャラリー・ショップの群言堂もまだ準備中だった。
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渡辺家住宅
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町並みと緑の表出
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群言堂
 しばらく行くと、きれいに復元された武家屋敷「宗岡家住宅」がある。2018年に改修オープンしたばかりというのでまだ新しい。欄間の意匠が繊細で見事だった。栄泉寺を過ぎてしばらく行くと、「株式会社アットゴー 石見銀山サテライト」という看板が懸かった民家があった。「大田市インキュベーション施設」とも書かれている。リノベーションして利用しているのかな。
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宗岡家住宅
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宗岡家住宅の欄間
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大田市インキュベーション施設
 左手には工夫も食べていたという堅いせんべい「げたのは」を売る有馬光栄堂。うだつに「洋菓子の有馬」と書かれているのは、一時、洋菓子も売っていたのか。しばらく歩くと、武家屋敷「旧河島家」に出る。正面には五月人形が飾られていた。大田市町並み小閏センターは「旧大森区裁判所」。こんな山間に裁判所があったということもすごいが、明治23年に建築された擬洋風な建物で、真っ白く塗られた壁は威厳がある。
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有馬光栄堂
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大森区裁判所
 その先にこんもり盛り上がっているのは観世音寺。ここに登ると前後に連なる大森の町並みが一望できる。緑豊かな自然の中に、オレンジ色の瓦、白い壁、黒い格子。ベージュ色の土壁もやさしい。さらに街道に沿って進む。ドイツパンのお店もある。左手に「理容館アラタ」。正面脇に「理容遺産認定第1号」の石碑が設置されている。内部も大きな鏡に向かって昔ながらの椅子がデンと鎮座。盛時の面影がしのばれる。
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観世音寺からの景観
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理容館アラタ
 また向かいには民家を再生した「山陰合同銀行 大森代理店」。左手には「旧大森郵便局舎」を改修した「オペラハウス大森座」。そして白壁とうだつの町並みが続く。右手のしっくい壁が続く大きな屋敷が重要文化財「熊谷家住宅」。石見銀山御料で最も有力な商家というだけあって、内部も広い。欄間の透かし彫りもきれい。居間の床下には石組みの地下蔵もある。
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山陰合同銀行 大森代理店
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オペラハウス大森座
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熊谷家住宅(右側)
 そして通りもいよいよ終わり。石見銀山資料館は「大森代官所跡」だが、現存するのは角長屋(1815年築)のみ。資料館本館は「旧邇摩郡役所」で1902年建築というから十分古い。帰りは宿に置いたクルマを取りに、代官所前ひろばを通って、旧河島家住宅横の路地を抜けて、来た道を戻った。大森の町はそれほど観光化されることもなく、昔の風情を残して、生きている。一時の世界遺産ブームは去ったとも聞くが、この落ち着いた佇まいはいつまでも残っていってほしい。心癒される町である。
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石見銀山資料館(大森代官所跡)