家の文化学

 「家」という言葉から当然のように家屋としての「家」だと思って読み始めたが、そればかりではなくて「イエ」制度のことでもある。本書に寄稿している執筆者は、アメリカ文学、日本古典文学、古筆学、古典芸能、日本近世文学、民俗学、女性論、社会学、そして建築学と実に多様な専門家が揃っている。
 住居の形式と社会制度の関係を論じたり、リカちゃんハウスに見る住空間からジェンダー論を論じたり、原節子が出演した映画に映し出される住宅の変遷を論じたりと、内容も多岐にわたり面白い。また、「家」を飛び出た女性という視点から、「旅する女たち」とか、代々歌の家として続いてきた冷泉家や、能書の家としてあった世尊寺家に関する論考などもある。
 しかし本書を通して問題意識として通貫しているのが、女性とイエ制度との関係だ。これを読むと、常に女性は「家」から逃れようとし、同時に「家」と一体化しようとしているように見える。そして女性が変われば当然、男性と「家」との関係も変化する。いや、家族そのものが変化する。先日は「ひとり空間の都市論」を読んだが、それと比較しつつ、人間にとって家族や「家」とは何かを考えてしまう。人は「家」から逃れようとしつつ、「家」に逃げ込まなくては生きていけないのかもしれない。
 ところで、「女性詩人の書斎」では、江戸時代に多くの女流漢詩人がいたことが紹介されている。寝殿造が消えるとともに女流作家が消え、書斎を得て、女流漢詩人が現れる。やはり建物と社会の関係は深いと言わざるを得ない。

家の文化学

家の文化学

○【今関敏子】住居の構造と社会制度は相関する。……位の低い者が高い者を訪ねる社会組織では、寝殿造という住居もまた、そのように造られていた。/このような寝殿造から書院造への変遷の背景には、王朝期から南北朝動乱を経て室町期へという社会制度の激変がある。とりわけ婚姻形態の変化を看過できない。……寝殿造は、男を招く「女の空間」であった。(P64)……寝殿造と「待つ女」が消えると同時に、「書く女」も消えた。南北朝を境に日本の制度と文化は大きく変わったと論じる網野善彦の見解は、文学史と軌を一にする。(P80)
○【若山滋】住まいは女性と一体である。……近代日本の「家」の変遷は、日本の男性にとっての「女性像」の変遷でもあったのだ。……現実の空間(建築)が虚構の空間(文学)を生み出すだけではなく、虚構の空間が現実の空間を生み出す……われわれは、その虚実が表裏になった精神的空間の中に息づいているのだ。(P222)
○CIE民間情報教育局<の>……彼らはアメリカで実現できなかった理想を掲げて各分野で日本の復興に尽力したのである。……彼らの信念は「清潔で健康的な生活こそ社会の豊かさと幸福を培う」という理想に基づいていた。だがアメリカの共産主義への脅威が増大すると、彼らは早々に戦後改革の表舞台から姿を消す。その結果、女性解放の旗印であった「台所改善」は家事労働の軽減ではなく、逆に女性の家庭回帰を促す大義へ変容してゆくことになる。(P237)
○いざという危機時にあるいは己のルーツを模索、確認するときに、イエ、ムラといった心の中の家郷に立ち戻る人びとも少なくない。……先祖、子孫へとタテに繋がる累代の時間、記憶も私たちを根底において支えている。……人々はその時代時代においてそれを「家族」と呼ぶのかも知れない。言い方を変えれば、状況変われど「家族」は時代時代に応じて社会文化的に更新され再構築されてゆくものとも言える。(P282)
○個人も家も共同体も、閉鎖系になれば滅亡するのは自明の理である。……共同体も個々人も、存続するためには自然の摂理に対して開いていなければならない。文明は大自然の叡智を受けてこそ栄え、それを無視すれば滅びて来た。……現在日本もアメリカも個人や家の大変動期を経過中である。各々の個人が開かれた十全な「個」でありえる、新しい形の「家」と共同体を、それぞれの風土に合わせて探求することがいよいよ必要な時代に、世界は既に入っている。(P353)

ひとり空間の都市論

 「都市」を「ひとり空間」という視点から見る・考察する、というのは面白い視点だ。筆者は都市・建築論を専門とする社会学者。建築職の立場からすると、都市にしろ、住宅や商業施設などの建物にしろ、既に「ひとり空間」という視点からの様々な取組や考察がされてきているように思う。本書でも紹介されている「中銀カプセルタワービル」や黒沢隆の「個室郡住居」など。確か岐阜県営北方住宅にも各個室が共用廊下側に開いている住棟があったはずだが、多くの建築家がこれまでも住宅と個人の関係について考察し、また実践してきた。
 また、住宅機能の外部化、いや家事機能の外部化と言ってもいいと思うが、従来、家庭内で担われてきた機能の外部化は、保育にしろ、食事にしろ、ほとんど当たり前になりつつある。だから本書に期待するのは、やはりモバイル・メディアとの関係だ。モバイル・メディアを用いることで、物理的にどんな空間にいても、それを無力化して、情報空間に移動できる。という実態は、外食先でスマホを見ながら食事をしている家族や若者をよく見かけることでもわかる。
 そもそも人間は一人で生まれ、一人で死ぬ。自分の口から摂った食事は自分の栄養にしかならないし、知識や頭脳も共有はできない。これまではっきりとは可視化されてこなかった人間の「ひとり」性が、さまざまなメディアとそれを利用した空間(物理的・情報的)によって、激しく揺す振られていることは理解できる。問題はそうした状況にいかに対処すべきか、だ。
 本書では、人間の「ひとり」性について、建築や都市がどのように対応してきたか、メディアや商業サイドがどのように利用しようとしているかが描かれている。だが、人間として重要なのは、「ひとり」性をいかに確保していくかということだろう。その意味でも、終章末尾に書かれているように「仕切りの多様性をいかに担保できるか」(P243)が重要だ。人間は究極的には常に必ず「ひとり」だが、ひとりでは生きていけない存在でもある。そこで提起されるのは、「人間としての尊厳」をいかに確保していくかということではないか。「ひとり空間をどう扱うか」というのは都市論となりうるが、「ひとり空間とは何か」というのは哲学でしかないのだろうか。筆者には社会学者としてそこまで深掘りしてほしかった。

○方丈庵があったとされる場所から現在のJR京都駅までの距離は、約10㎞ほどである。長明は、徒歩で行き来が可能な場所に「ひとりの住まい」を構え、社会との距離をはかりながら、当時の出来事を観察し、『方丈記』を執筆していたことがわかる。/つまり、方丈庵には、都市における「ひとりの住まい」が抱えるモビリティ、多機能性、メディアを介した遠隔でのコミュニケーション、自分の姿を隠したまま周囲を見る快楽、といった諸要素の原形が宿っていたのである。(P080)
○「ひとり空間」は、インターネットや携帯電話などのメディアを介した「見えない仕切り」によって、物理空間と「情報空間」を横断しながら息づいているからである。……情報空間が物理空間と独立していることは、それが物理空間とは異なる秩序をもっているということである。……認識しておくべきことは、都市空間における経験は、物理空間と情報空間が重層化しながら形づくられているということである。(P068)
○従来は家、職場、余暇など別々の空間で行われていた、さまざまな活動の領域が重なり合い、カフェ、駅、空港、モール、広場などの「中間空間」を形成するようになった。……それゆえ、モバイル・メディアが物理的な都市空間に組み込まれることによって……他者との精神的な距離、ウチとソトとの境界意識、身体経験などを含めた、既存の空間の諸要素が再編成されている……。新たなメディアが台頭することによって、都市の「ひとり空間」は再編成されていくのである。(P189)
○「ひとり空間」は、他者との関係においてしか生じえない。そこでは、他者との「距離」をどのようにとるかが、つねに問題となる。……ひとりでいる状態を喪失するのでも、他者との関係を分断するのでもない、ゆるやかな仕切りの多様性をいかに担保できるかが、今後ますます問われることになろう。(P243)

倉吉の町並みを歩く

 GW中、山陰を旅行した。家族旅行なので鳥取砂丘秋吉台など、いわゆる観光地にも行ったが、古い町並みもいくつか訪れた。その中からまずは倉吉から報告をしたい。倉吉へは28日の午後に到着した。まず市役所にクルマを止める。本庁舎は1956年丹下健三の作品だ。コンクリート打ち放しの外装に、細い部材の手すりが廻っている。玄関上裏の格子状の小梁もきれいだ。

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倉吉市役所
 坂を下りて、商家が並ぶ本町通りを西に向かう。細い格子窓にオレンジ色の赤瓦がきれいだ。1998年に伝統的建造物群保存地区に選定され、2010年に区域を拡大している。四つ角にあるのは赤瓦七号館の元帥酒造。隣には火災で焼失した後に民家風に建設された「くら用心」がある。さらに赤瓦二号館の「くらよし絣」や赤瓦六号館「桑田醤油」が並ぶ。南側にも昭和レトロな雰囲気の店舗が並んでいる。打吹公園通りを過ぎるとやや人通りも落ち着くが、北側の高田酒造は蔵もあって風格がある。
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元帥酒造
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くら用心
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桑田醤油(本町通り側)
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高田酒造
 ところで、この地区は一般に「倉吉白壁土蔵群」と呼ばれるが、この本町通り沿いには細格子に赤瓦の商家が並び、白壁土蔵は少ない。灯篭が並ぶ弁天参道を抜けるとようやく、玉川の流れに沿って白壁の蔵が並ぶ特徴的な景観が広がる。川には鯉が泳いでいる。少し東に戻ると、打吹公園通りから右手川沿いに桑田醤油醸造場、左手に赤瓦五号館が並ぶ。ここが最も有名な撮影スポットか。
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玉川沿い
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白壁土蔵群(桑田酒造と赤瓦五号館「久楽」)
 「赤瓦五号館 久楽(くら)」は1階が玉砂利敷きのモダンな待合となっていて、1階のカウンターであずき入りのコーヒーを受け取ると、2階からしばし川沿いの景色を眺めながら休む。南側の蔵に向かって、川の上に小さな橋が架かり、搬入口になっている。北側には赤瓦一号館。こちらは土のままの黄土色の土壁。手前は土産物店、奥はギャラリー的なスペースになっているが、小屋組が手前は洋組のトラス、奥は和小屋組となっているのは面白い。打吹公園の前まで戻ると、竹細工の店もあったりする。
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赤瓦一号館
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玉川沿い
 ここでまち歩きを終えた。後でパンフなどを確認すると、旧国立第三銀行倉吉支店「白壁倶楽部」など、せっかくだから見ておけばよかったと後悔する建物もあった。残念。またの機会、は何時あるかわからないけど、今回がそもそもほぼ40年振りに訪れた。その時の記憶は「川沿いに蔵があった」という程度で、今回久しぶりに訪ねて、倉吉の魅力を再認識した。こじんまりとしているけど、いい町だ。