縮小まちづくり

 米山秀隆と言えば、空き家問題の専門家というイメージがあるが、本書では空き家問題の前提となる都市の縮小・地域の縮小をテーマに、第1章・第2章ではエリアマネジメントやコンパクトシティ政策でいかに都市を縮小していくかを考え、第3章・第4章では縮小する地域にいかにマネーと人を呼び込むかを考える。そして第5章では専門の空き家・空き地問題について解決策を探る。
 といっても、これらの方策を自ら提案するというのではなく、それぞれ先進的な事例を挙げて、その内容と効果などを考察し、今後の課題をまとめる。例えばエリアマネジメントでは、シーサイドももちや山万(株)のユーカリが丘尾道市鶴岡市におけるNPOの取組などが挙げられる。内容的には既に知っているものも多いが、例えばユーカリが丘の事例でも米山氏がまとめると目の付け所が変わってくる。有名な徳島県神山町の事例もその始まりから的確に紹介されると、大南氏のすごさというだけでなく、ある程度、運にも支えられていることがわかる。島根県海士町の事例についても同様。いずれにしても唯一の解はないし、それぞれの地域の状況に応じて試行錯誤するしかない。
 第3章「マネーを呼び込む」の中でクラウドファンディングが紹介される際に「マイナス金利」という金利環境が強調されるが、今後、金利が上昇局面に入ったらどうなるんだろう。「共感」と「資金集め」の関係をもう少し掘り起こす必要があるのではないか。
 そういった細かい疑問はさておき、やはり米山氏に期待するのは第5章、空き家・空き地問題である。ここでは久高島の土地総有制の紹介が興味深い。1988年に久高島土地憲章を制定し、土地の総有制を明文化し、利用管理規則を定めている。久高島では2年間着工しない宅地、5年間放棄された農地は、字へ返還しなければならない。土地の利用は土地管理委員会と字会の承認が必要とされる。しかしそれを全国に適用するのは不可能だ。そこで米山氏は、所有と利用を分離し、強力な主体による利用の推進を提案する。また所有権放棄に伴う放棄料の徴収なども提案している。現実的な提案。もちろん実現にはかなりの困難が伴うだろうが、国で真剣な議論が期待される。
 「縮小まちづくり」の前提には「縮小する人口」がある。その現実をまだ多くの国民が十分認識していないように感じる。そろそろ真剣に考え始めないと大変な事態がやってくる。そんな危機感を共有し、その方策を考えてみよう。本書の副題「成功と失敗の分かれ目」の主体は「地方」ではなく、「国」であることを理解しなければいけない。

縮小まちづくり ―成功と失敗の分かれ目―

縮小まちづくり ―成功と失敗の分かれ目―

○世帯アンケートを3年に1回行っているほか・・・年に3回ほど1軒1軒訪問し、住民の声を直接聞いている。人間関係の構築が、後々のリフォームや物件活用などのビジネスにもつながっていくとの考えである。/このようにユーカリが丘では、まちの成長管理を行い、住民の新陳代謝や建物の再利用を進めていくことでまちを持続させ、事業もまた永続させていくという理念を実践している。・・・社員の過半がまちに住み、業者としての立場から、また住民としての立場からエリアマネジメントを支えている(P17)
○森林保全のため間伐を促すとともに、地域の消費を活性化させようとする仕組みが2009年に岐阜県恵那市中野方町地区で始まった「モリ券」の仕組みである。・・・補助金を得て発行するモリ券で間伐材を相場より高値で買い取る・・・木材チップ価格3,000円に補助金3,000円が上乗せされ、6,000円分のモリ券と交換される。モリ券は、スーパー・・・など地元の商店30店舗以上で使用することが出来る。・・・「軽トラとチェーンソーで晩酌を」という合言葉が、この取り組みが気軽にできるものであることを象徴している。(P110)
○マンションでは除却に億単位の費用がかかる。代執行も困難だが、仮に代執行して費用が回収できない場合、それは納税者全体で負担することになる。区分所有者が必ず負担する形にするには、除却費用の積み立て義務付けが考えられる。しかし、その実効性を確保することが難しいのなら、固定資産税に上乗せする形で毎年少しずつ徴収する仕組みが有効となる。(P177)
○人口減少下で今後、放置、放棄されたり最終的に所有者不明にな田t利する土地がますます増加する可能性を考えれば、総有的な管理の仕組みを導入する必要性は高い。/具体的には、放置、放棄される土地を第三者が共同管理する仕組みを導入することが考えられる。所有権には手を付けず、利用の共同化を進めるものである。・・・それを推進する強力な主体を必要とする。(P186)
○今後、こうしてなし崩し的に放棄され、国が引き取らざるを得ない不動産が増加していく可能性を考慮すれば、最初から所有権の放棄ルールを明確にしておく方が望ましい。・・・国の所有に移ると、国の管理負担が増すが、これについては放棄時に一定の費用負担(放棄料)を求めることが考えられる。(P191)

地元経済を創りなおす

 知人から勧められて読了。地域のお金は地域で回すようにしましょう、というのは、藻谷浩介が「里山資本主義」で述べていたことと同じ。これに、「漏れバケツ理論」や市町村単位の産業連関表、地域経済分析システム、地域内乗数効果とLM3などの理論やツールを紹介し、さらに島根県海士町富山県入善町農業公社、岐阜県郡上市石徹白などの実例を紹介している。
 私としては、元新潟県知事・平山征夫氏が語ったという「地消地産」と言葉が面白かった。「地域で消費しているもの」を先に調べ、それを「地域内で生産・供給する」道を探すという、一般の「地産地消」とは逆の考え方。一方で、地域外から移入せざるを得ないものも多くあるわけで、そのあたりの見極めは難しい。
 本書で紹介されていた「地域経済循環図」で地元の県と市を入力して表示してみたが、さてこれをどう読んだらいいのかわからない。特徴のある地域、地域づくりの方向性がはっきり定まっている地域であれば、それを補強するツールとして使用可能だろうが、ツールからスタートするのはやはり難しい。漏れ箇所が見つかったとしても、それを塞ぐソースが地域にあるかどうかはわからない。何より人材の有無は大きな課題のような気がする。

○これまでの地域経済再生の取り組みは、「いかに外部からの資金を呼び込むか」だけに焦点を当てるものが大半でした。本書では、「地域経済の循環」「地域内乗数効果」を重視しており、「単に外からのお金が入ればよい」とは考えておりません。「いったん入った外からのお金のうち、どのくらいが地域に残るのか?」「地域に残ったお金のうち、どのくらいが地域で循環するのか?」を把握したうえで、望ましい形で外からのお金を呼び込むことを考えます。(P68)
○「地産地消」の考え方を、地域経済の観点から大きく発展させた考え方が「地消地産」です。・・・「地域でできたものを地域で食べよう」ではなく、「地域で消費しているものを地域でつくろう」が大事なんだ、と。・・・この「地消地産」の考え方に立てば、「地域で消費されているのに、地域で供給されていないもの」=「地域で生産・供給すれば、地域で消費してもらえるであろうもの」を見つけようという意識が出てきます。(P70)
○石徹白の地域の小水力発電・・・地元の負担は6000万円です。・・・自治会長などをはじめ・・・半年間話し合いを重ね、地域の住民から出資を募ることにしました。・・・100世帯に説明をした結果、ほぼ全世帯が出資をし、負担金を集めることができました。その受け皿として、2014年4月には農業用水農業協同組合を設立しました。・・・地域の人々がお金を出し合い、地域でずっと維持管理してきた水路の水を使って小水力発電をし、その利益を地域の農業振興に使っていくという、素晴らしい好循環の事例です。(P110)
○ローカル・インベストメントは、地域住民による地元企業への投資によって、地域の暮らしを豊かにしよう、という取り組みです。地域の住民が地元の小規模ビジネスに投資することで、利益を上げると同時に、自分たちの生活に必要な店舗や企業を支援するという、市民の手による新しい資本主義の形でもあります。・・・投資したお金は地元経済にとどまります。投資の資金を地域から流出させない、地域経済の「漏れ穴」をふさぐ取り組みでもあります。(P120)

近居とは ― 不十分な社会支援と不安定な家族支援の狭間

 先日、「郊外住宅団地における多世代居住の可能性と近居実態」と題する講演会に行ってきた。旧日本住宅公団が昭和43年から横浜市で開発をした左近山団地における近居実態の調査結果を報告したもので、団地入居者の近居率や外出頻度などを調査した上で、近居世帯に対してヒアリング調査を行い、親世帯の団地入居から現在に至るまでの転居等の状況や意識調査などを行っている。近居率が22%というのは高いような気もするが、居住地域の住宅状況などにも大きく影響されてくる。そもそも何をもって近居と定義するのかも決まった定義はない。この調査では左近山団地及び隣接する市沢団地に親子世帯が居住している場合を近居と定義していたようだ。
 近居をすれば親子間で、家事支援、育児支援、介護支援などの相互支援が可能となる。高齢世帯の外出頻度も高くなり、健康につながる。といったメリットがある一方で、支援が必要な時期は短く、近居ゆえに過重な負担となる。支援が不要な時には煩わしさの方が勝るといったデメリットが挙げられていた。さもありなん。
 親子の住み方には、同居、隣居、近居、遠居など様々な形があり、どんな住まい方を選択するかは、職業の事情や配偶者・親族の状況、地域の住宅事情や従前の住まいの状況など様々な要因があるだろうが、複数の選択肢がある中で、敢えて「近居」を選択するというのは、どういう理由からだろうか。講演者からは「将来(非常時)のための漠然とした安心感を期待している」という言葉があった。たぶんそんなところだろう。何に対する安心感か。それは子育てや介護などの生活支援について、十分な社会的支援が得られない可能性に対する「保険」としての「安心感」。
 結局、「近居」とは、不十分な「社会支援」に対する選択なのだ。逆に言えば、「近居」を推奨し、支援する制度というのは、不十分な社会支援に対する代替として制度化されていると考えるべき。しかし、親子間の支援は、時に感情に支配され、また家族成員の状況によっても左右される不安定なものだ。不十分な社会支援と不安定な家族支援。日本ではまだしばらく、双方の微妙なバランスの狭間で、近居という選択が続けられるということだろうか。