西洋都市社会史

 「西洋都市社会史」という堅いタイトルだが、内容はヨーロッパ、特に北ドイツを中心とした各都市の訪問記である。筆者は中世ハンザ都市の都市史を研究する経済学者。筆者が勤務する中央大学の雑誌「中央評論」に掲載してきたエッセイを中心に、全20章にまとめている。概ね1章1都市。第1部はドイツ都市編、第2部はヨーロッパ都市編。だが興味深いことに、歴史事象順目次がついていて、今回はその順番で読んでみた。「中世都市の成立過程」と小見出しの付いたトリアを最初に、「世界統治主義と国民主義的世俗の統一」「中世の不動産担保」など、この小見出しを見ているだけでも興味深い。
 各章は都市の紹介だけでなく、その都市の成立過程に見られる歴史的事象について、説明されている。それが面白い。ハンザ都市は何を運んだのか。領邦君主が治めたドイツの中世都市はどうやって市民自治に移行していったのか。イギリスの産業革命の意味とフランスとの違い。パリの一極集中はなぜ起きたのか。オランダやポルトガルの栄枯盛衰。リカードの比較優位論の歴史的背景、など、さまざまな事柄が語られている。
 欧米の都市のいいところだけを見て、それを取り入れようとするのではなく、その背景も知ることはとても重要だ。もっともこれは海外だけではない。日本国内であっても、都市によって背景が異なり、歴史がある。読みながらそんなことを思った。前著「西洋の都市と日本の都市 どこが違うのか ―比較都市史入門」も読んでおこうか。

西洋都市社会史:ドイツ・ヨーロッパ温故知新の旅

西洋都市社会史:ドイツ・ヨーロッパ温故知新の旅

○都市や市民の土地取得の理由としては・・・財貨不足に苦しむ領邦君主の土地を担保とした金銭の要求・・・を受け入れ・・・不動産だけでなく(裁判権のような)都市にとって大事な権利が・・・販売されたりして、市民による自治が少しずつ実現されていったのである。・・・そうした状況下で・・・市民自治がしっかり定着し、市民たちは危機に追い込まれれば、時には武器をとって命がけで都市を守った。それゆえ、市民たちは自らの都市に誇りを持ち、都市もまた個性的であった。(P34)
産業革命・・・の背景には農村における農法の改良による農業の近代的な生産・・・の実現があったことを忘れてはならないであろう。・・・これにより穀物価格が低下して・・・経済政策は保護主義から自由主義に大きく転換することを可能にした。他方で都市の労働者に食糧以外の商品の購買を可能にさせ、農民たちにも購買力の向上をもたらした。・・・工場で生産されるようになった大量の生産物は・・・植民地に供給されて多大な富をイギリスにもたらした。(P107)
○オランダは世界の覇権を握りながら、それは長くは続かなかった。その要因は・・・羊毛の供給国であったイギリスが完成した毛織物を生産し輸出する・・・競争国に成長したことにあったが、イギリスに敗北した原因の一つは、ぜいたくな生活の中で危機感を失い、ただ議論を重ねるだけで対抗策を打ち出すことのできなかったことであったという。・・・バブル景気の中で危機感を忘れ・・・その後現状に至るわが国の状況はオランダの16・17世紀の状況に似ていないであろうか。(P123)
○グダンスクは・・・遠隔地商業都市としてハンザ商業の東西貿易の拠点であり、・・・流域からもたらされる農産物の集散地であり・・・南欧地域の穀物不足などにともなって、オランダが輸送した穀物の供給地となり、逆に・・・大量の塩を西方フランスなどから輸入し、塩の生産ができない北欧やバルト海地域に再輸出していたのが知られている。東方ロシア、北方スウェーデンとのバルト海の中継貿易港として発展した都市であった。(P127)
フランス革命によって実現された小作農民への土地配分により小土地所有農となった農民たちは容易に土地を離れず、国内で産業革命が進展しても工場労働者は不足し、政府の努力にもかかわらずフランスの工業化は遅れ、現在もなお農業国である。(P143)
○ヨーロッパの市民は、祖先が命がけで守ってきた自由で安全な空間の中で、便利さを享受できるかわりに、集合住宅での生活で我慢するという義務を果たすことで都市を維持してきたとも考えられるのである。そこには、それぞれ個性を維持してきた都市に対する愛着や故郷のまちを愛する心が必然的に育っていったと思われる。他方で、近年では欧米各大都市の中心市街地から購買力のある大きな裕福な市民が郊外の一戸建て住宅へ大量に流出する空洞化が深刻になっているのも事実である。(P187)

次の震災について本当のことを話してみよう

 福和先生とは地元で昔から何かとお付き合いがある。講演会でいじられることもあれば、飲み会で同席したこともあった。本書には日頃から色々な機会に聞いてきた話がほとんど網羅的に書かれている。その点では内容的に特に驚くこともない。
 第2章の冒頭で、阪神淡路大震災を経験し、「防災」を研究テーマにしようと決めた経緯が書かれている。それは初耳。もともと福和先生は建築物の振動解析等が専門で、構造設計研修の講師として話を伺ったこともある。しかし、ここ20数年間はすっかり「防災」の専門家として、地震工学や地域防災の啓発に力を入れている。
 本書でも「口うるさく・・・脅したり、すかしたり、褒めたり」(P246)と書かれているが、そのやり方も最初のうちは面白いが、何度も経験していると次第に鼻についてくる。そのあたりは先生も相手を見ながら巧みに変化を付けているのだろうけど、結局、何をするか、どう行動するかは本人が決めることで、全員が福和先生のようにできるわけでもないし、したいわけでもない。そのあたりは難しい。過度に脅し過ぎると、かえってやる気を削ぎかねない。
 本書を読んだすぐ後で、友人から以下のようなサイトを教えてもらった。
 「2階で寝よう!」
 確かにこれならすぐにできる。それでもわが家では、2階に娘が寝て、私たち夫婦はその直下の部屋で寝ており、これを変えるのは難しそうだ。死ななければいいのか。壊れなければいいのか。憂いなく死ねればそれでもいいのか。そのあたりは人それぞれ。
 本書で書かれていることの多くは最悪の事態を想定して書かれているのであって、日本中が壊滅するわけではなく、たとえ首都圏や太平洋岸の諸都市が壊滅しても、日本海側や北海道・東北は無事かもしれない。中国地方や中部地方の山間部も大丈夫だろう。そして日本がいつまでも経済大国でいるとも限らない。本書で書かれる「本当のこと」は現在想定されることであって、「実際に起きること」ではない。だからこれを踏まえてどう行動するかは、個人個人に委ねられている。
 それでも、福和先生の講演に直接触れる機会がない一般の方には、本書の果たす役割は大きいだろう。本書には、地震の危険性から耐震化の現状、歴史や地名から見える危険地帯、そしてすぐにできる対策と防災社会への提言など、福和先生の全てが詰まっている。ぜひ一度は一般の方が読んでみることを勧めたい。

次の震災について本当のことを話してみよう。

次の震災について本当のことを話してみよう。

○今の日本人は、まだ何とかできるお金も知識も持っています。そして知恵もあるはずです。/そんな国民が何もやらずに30~40万人の犠牲者を出し、日本経済の破滅に端を発した金融不安で、世界を破綻に陥れるようなことになったらどうなるでしょうか。世界の人たちは、私たちを助けてくれるでしょうか。・・・まだ残された時間があると信じ、少しでも被害を減らす取り組みをすべての人が始めるべきではないでしょうか。(P33)
○昔の役所の建物は良い地盤に建った壁の多い建物が普通でした。この時期は技術もなかったので、構造計算をするときに壁は計算外にして、柱だけで安全性を確認していました。ですから、壁がある分だけ余裕たっぷりでした。一方で、今は技術が発達したので、壁の耐力をしっかり見込んで計算をしています。・・・科学が発達すると、自然を克服したと誤解して自然の怖さを忘れがちになり、安全性がおろそかになることもあります。技術の発達が、安全性よりもコストカットに使われれば、バリューエンジニアリングは、大きな矛盾と危険をはらんだ思想にもなります。(P83)
○建築構造の分野では、耐震性の高い建物が実現でき、免振や制振も開発して「終わった」と思っていました。・・・しかし、阪神の光景はショックでした。「終わった」はずの建築構造の分野が全然終わっていない。先端技術を使った高層建築はごく一握りで、技術をあまり入れていない一般の住宅がたくさん壊れ、多くの人が亡くなった。/先端ばかりやっていては災害被害は減らせない。私は「防災」を自分の最大のテーマにすることにしました。(P99)
原子力の世界は、あまりにもたくさんの専門家が関わっていて、お互いに情報交換することはめったにありませんでした。・・・建屋を担当している人は、原子炉やタービン、配管のことは知らず。逆も同様です。専門家はたくさんいますが、隙間が多くて間をつなぐ人がいません。/全体を見るような発想がなく、みんな部分的な担当者として動いていたのです。私自身、いまだに痛恨の想いがしています。(P110)
○言いにくいホンネも言うちょっと「口うるさい」人がいないと、面倒な防災対策は進みません。おせっかいな人が脅したり、すかしたり、褒めたり。人の感情に訴える道具や物語をつくって、ホンキになって伝えることも役に立ちます。時間はかかりますが、言い続けていれば少しずつ実現していきます。(P246)

港北ニュータウンへ行ってきました。

 港北ニュータウンと言えば、今や人口20万人を超える大ニュータウンで、今さら私が紹介するまでもないとは思うが、たまたま先日、港北ニュータウンを歩く機会があったので、報告をしておきたい。首都圏にお住まいの方には田舎者の見学記としてご笑覧いただきたい。
 港北ニュータウンを歩くことになったのは本当にたまたまで、というよりも私があまりに横浜のことを知らなかったがゆえの、私にとっては偶然の出来事だったのだが、夕方に横浜馬車道近くにあるUR本社へ行く予定があり、それまでの間、時間があったので、「どこか見学すべきところはないか」と社内の友人に聞いたところ、「それなら最近リニューアルしたショッピングセンター巡りとかどうですか」と、昨年9月にリニューアルした「ノースポートモール」と10月リニューアルオープンの「みなとみらい東急スクエア」を紹介された。どちらも市営地下鉄駅から遠くなく、半日で2ヶ所回ることも可能だと思い、まずは新横浜駅を降りて地下鉄ブルーラインに乗って「ノースポートモール」へ向かった。
 市営地下鉄は港北ニュータウンに近付くと、地上に出て、マンションも多く立地する中を走っていく。「センター北」駅を降りると、目の前に広い広場が広がり、正面には「ドンキホーテ」の看板がある商業施設「プレミア・ヨコハマ」。その左手には観覧車がひときわ目立つ「モザイクモール港北」。そして改札を出て右手にモダンなデザインが印象的な「YOTUBAKO」があり、目的の「ノースポートモール」はその先のデッキを渡った先にある。
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 「ノースポートモール」の3階にエスカレーターで上がると、ファミリー&キッズコーナーはかなり充実している。また同じ階にあるフードコートも、多様な形状のベンチやイスが全530席もあって楽しい空間になっている。ウェンディーズで買ったハンバーガーを食べながら、これからどうしようかと考えた。「ここは港北ニュータウンじゃないか」「初めて港北ニュータウンにやってきた」「ニュータウンを見ずに、みなとみらい地区へ向かうのは惜しい」「でもそとは日差しが強くかなり暑そう」。自問自答しつつ逡巡したが、せっかく来たのなら、やはり港北ニュータウンを歩かないわけにはいかないと、「みなとみらい東急スクエア」はまたにして、しばらく歩いてみることにした。
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 だが、実は港北ニュータウンについて何も知らない。住都公団が開発したとは思うが、その事業手法は? 面積は? 計画人口は? まずはフードコートでスマホ検索。概ねの概要を頭に入れた後、「センター北」駅前広場に戻り、「プレミア・ヨコハマ」の中を通ってそのまま北へ抜けた。歩行者道路が北へ伸びている。陸橋で幹線道路を跨ぎ、戸建て住宅の間を抜けて歩いていくと、緑豊かな緑道に出た。緑道の真ん中にきれいなせせらぎが流れている。左へ行けば東京都市大学(旧・武蔵工大)と思いつつ、右手へ向かう。「ビュープラザセンター」って何だろうと思いつつ、幹線道路の下をくぐり、徳生公園の池端に至る。ここまで本当に気持ちのいい空間。センター駅から程近いところにこんなにも豊かな自然空間があることに心底驚いた。
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 しかしここから先はマンション街が続いている様子なので、強い日差しの中、そろそろ「センター北」駅に向かって戻ることにする。戸建て住宅地に出て、歩道橋から住宅地を眺め、戸建て住宅に挟まれた緑道を歩いていく。途中、共有庭を囲んだコートハウスもあって興味深い。しばらく行くと児童遊園に出て右折。やや広めの歩行者道路をしばらく歩くと、「センター北」駅前の広場に戻った。まず、高級そうなマンションが多い。戸建て住宅は高蔵寺ニュータウンに比べれば敷地は狭いが、歩行者道路や児童遊園などの緑に恵まれている。そして完全な歩車道分離がされている。高蔵寺ニュータウンではUR賃貸住宅の中でこそ、狭い歩行者道路が住棟の間を縫って続いているが、戸建て住宅地までは続かない。
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 「センター北」駅に戻ってどうしようかと迷ったが、「センター南」駅まで歩いてみた。「ノースポートモール」の横を通り、横浜市歴史博物館まで歩く。この間、広い歩道が気持ちいい。そこから先も歩行者空間は続くが、周りはかなり殺風景。東西に「ルララこうほく」と「港北みなも」の二つの商業施設。もっとも歩道から見ると施設の裏側で駐車場と看板しか見えないが、これだけの大規模商業施設がいくつも立地して成り立っているかと思うと、高蔵寺との規模の違いに改めて驚愕する。しばらく歩き、川を渡り、「センター南」駅の中に入っていく。駅は長いエスカレーターの先だが、とりあえず地上階を通り過ぎて右へ曲がり、都築区役所へ向かった(あとから考えれば、エスカレーターに乗って、駅南の広場からペデストリアン・デッキ経由で行けばよかった)。
 港北ニュータウンの開発経緯や全体計画がわかるような資料はないかと訪ねたのだが、図書館があったので、郷土資料コーナーを物色したところ、「(財)港北ニュータウン生活対策協会」発行の「写真集 港北ニュータウン~むかし・いま・そして未来へ…~」がわかりやすかった。それをパラパラっと見て感じたことは、地域の歴史があり、また区画整理を成功させるにあたって地元地権者の勉強や協力もあった。が、それが現在の入居者にどれだけ伝わっているか。港北ニュータウンアイデンティティは何か。それがもう一つわからなかった。いや、たぶん、港北ニュータウンに長く住んできた人にはそれなりの思いがあるだろうし、住民相互の活発なコミュニティなどもあるのだろうが、高蔵寺ニュータウンにあって港北ニュータウンにないもの。それは「物語」ではないかなと思った。高蔵寺ニュータウンは港北ニュータウンに比べれば、わずか1/5位の規模しかない。歩いても十分、ニュータウンの端から端まで行ける。だから、長く住んでいる人には、どこに何があって、どんな経緯をもって今があるのかを知っている。そして、一昨年上映された「人生フルーツ」、津端修一という都市計画家の存在。そこに高蔵寺ニュータウンと港北ニュータウンの違い、わずかに高蔵寺ニュータウンが優っている点があるのではないか。そんなほのかな希望を抱いた。いや、私の単なる幻想かもしれない。港北ニュータウンの方がずっと環境的にもすばらしいし、それが多くの人を惹きつけ、ほぼ計画人口並みの事業の達成を果たしている。
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 資料の中に「まちづくり館」という名前を見つけ、行ってみる。だがそこは社協などが入っている施設だった。2階に「(NPO法人)港北ニュータウン記念協会」があったので訪ねてみればよかったかも。でも、何を聞きたいのか、明確な意思もなかったので躊躇した。隣に「(株)横浜都市みらい」もあった。「センター北」駅前の商業施設「あいたい」などを管理運営している会社だが、入口が地味だったので気後れして、そのまま「センター南」駅まで引き返した。
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 そしてエスカレーターに乗って驚いた。駅前に広い広場が広がり、商業施設が並んでいる。すごい。こちらも広場の南の端まで歩いて戻ってきた。帰りに不動産屋を覗いたら、中古戸建て住宅が6000万円前後、賃貸住宅も11~16万円近くする。なるほど高級住宅地。高蔵寺ニュータウンと比べるのもおこがましい。そんな劣等感を抱きつつ、チケットショップで名古屋までの格安チケットを購入した。横浜へ行くのも、名古屋へ行くのも、値段は一緒。それだけはよかった。首都圏へ向かう電車運賃の方が、下りよりも2倍も高いとしたら、きっともっと深い劣等感に陥っただろう。夕方、UR本社での仕事を終え、新横浜駅でシュウマイ弁当を買って、新幹線に乗り、心温まる家族のもとへ、高蔵寺へと帰路を急いだ。港北ニュータウンはかなり高いレベルでニュータウンの理想形を実現している。田舎者にはちょっと手が届かないけど、歩いてみるだけなら誰でも自由にできる。