藤森照信の建築探偵放浪記☆

○50年近く建築探偵業を続けていると、自分の関心の傾向が分かってくる。まず、その建築が作られた社会的、文化的、宗教的、歴史的背景への強い関心がある。作った人への興味も深い。/一方、そこに使われている素材、例えば泥とか石とかコンクリートとか、そしてそれらによって表される仕上げについてもうるさい。/“背景”と“仕上げ”・・・この両極端の間を言葉に乗って行ったり来たりしながら、なんとかその中間に位置し、広がる建築というものを捉えようとしている。(はじめに)

 タイトルを見て気軽にネットで貸出予約をしたが、届いた本を見て驚いた。何と大部。全468ページ。藤森照信が月刊「積算資料」で連載してきた「建築あれこれ探偵団がゆく」をまとめたもの。全部で71件の建築物等と文章が収められている。冒頭に掲げたのは「はじめに」の最後の文章だが、なるほど藤森氏の建築探偵の視点はここにあったかと頷く。
 「Ⅰ章 工法・造形・素材」から始まり、東京駅の鉄骨煉瓦造を皮切りに、木造、コンクリート造と続き、「造形」、「素材」の各テーマで分類されている。煉瓦造が関東大震災以降、なぜ日本で発展しなかったのかという疑問への回答も興味深いし、コンクリート造の仕上げについて、鉄筋コンクリート造の祖、モニエの給水塔を訪ねるところから、世界初のコンクリート打ち放し建築と言われるペレのル・ランシーの教会、ミュンヘンのコンクリート小叩きの建築群、さらに本野精吾の旧鶴巻邸、レーモンド自邸など訪ね歩き、最後の結論に至る一連のシリーズも興味深い。
 「Ⅱ章 人物」では、丹下健三ル・コルビュジエアドルフ・ロースミース・ファン・デル・ローエフランク・ロイド・ライトなどを取り上げるが、特に丹下健三の偉大さへの評価が際立っている。「Ⅲ章 宗教」「Ⅳ章 歴史」では世界の教会や修道院ナチスドイツの建物や世界の史跡などを見て回る。その中では、キリスト教アール・ヌーヴォーの関係などが興味深い。そして自然と建築物との関係について、自らの設計コンセプトと対比して思索を巡らす。
 いつ読んでも、何を読んでも、藤森氏の本は面白いが、本書はさらに内容満載で充実している。建築学科学生のテキストにしても十分な内容を備えている。

藤森照信の建築探偵放浪記―風の向くまま気の向くまま

藤森照信の建築探偵放浪記―風の向くまま気の向くまま

○鉄骨煉瓦造の東京駅・・・関東大震災が襲う。でも、ビクともしなかった。・・・実は、当時の震災被害の調査報告を見ると、煉瓦造も、帯筋・丸棒入り煉瓦造も、鉄骨煉瓦造も、鉄筋コンクリート造や鉄骨造に比べ特別壊れているわけではない。・・・同じ程度の壊れ方だったのに、なぜ震災後、煉瓦造は・・・造られなくなったのか。・・・震災後の構造は、佐野利器の強力な指導により鉄筋コンクリート造一色に統一されてしまう。辰野の没後、日本の建築界のトップに立ったのは、東京駅の鉄筋コンクリート化を進言したが撥ねられた佐野だった。(P014)
○鉄筋コンクリート表現について・・・今は、次のように考えている。/“1910~20年代、コンクリートという新しい材料と構造をどう表現するかに取り組んだ世界の革新的建築家たちは、ブロック、小叩き(ハツリを含む)、モルタル塗り、打ち放しを試みたが、やがて打ち放しに収束してゆく“(P124)
○戦後、日陰に隠れてしまった左官の仕事に光を当て、その重要性を浮かび上がらせたのが石山の伊豆長八美術館なのである。/この仕事の後、石山は名言を吐いた。/「表現は技術を刺激する」/技術と表現の関係は20世紀建築の核心に位置する問題で、鉄やガラスやコンクリートといった技術を使っていかなる表現をするかについて、多くの先人たちが実践上も理論上もさまざまな努力を積み重ねてきた。そうした長く厚い歴史の中に置いても、石山のこの一言は輝きを失わないだけの力を持っている。(P174)
○建築と周囲の自然との関係をどうするかは楽ではない。一歩間違うと自然を壊すか、建築を消すか、どちらかに至る。・・・そこで私は、自然と親和力のある自然由来の素材を多用することを試してきたが、こうしたやり方以外にも方法はあることを2200年前の建築が現物をもって教えてくれた。/勘所は二つ。一つは自然の斜面がそのまま人工物の斜面へと繋がっていること。・・・もう一つは、建造物と自然との接点の処理にあり、両者が断切していないように見せること。(P392)
キリスト教は、この人類誕生の物語において肝心なことを言外に隠しているが、要するにアダムとイヴは性の悦びに目覚め、そのことで楽園から追放され、そして・・・性の悦びに目覚めた結果として子供が生まれ、そこから人類の歴史が始まる。この性の悦びに目覚めたことこそ、キリスト教の言う“原罪”にほかならない。・・・アール・ヌーヴォーが好んで登場させる動物と植物が語るのは、/「20世紀はキリスト教の代わりに“生命”を発見した。・・・」ということになる。(P420)