住まいから問うシェアの未来☆

 編者である住総研「シェアが描く住まいの未来」研究委員会の中心を担った岡部明子氏には、「サスティナブルシティ」など主にヨーロッパでの最先端の都市政策に関する専門家というイメージを持っていた。そこで、岡部氏が書いた序章「シェアを問い直す」を読んでも何が書かれているのか、さっぱりわからなかった。最近流行りの住まいのシェア事例を紹介する本かと思って読み進めた。
 第1章で紹介するシェアオフィス等はまさにそうした事例の一つである。第2章の、不動産所有までもシェアする南米の事例はかなり先進的だが、住まいのシェアという点では驚くに当たらない。だが、シェアを根源的に考え始める第2部以降になって、次第に様相が変わってくる。「似た者同士のシェア」「違うものを認めるシェア」は確かにシェアのフェイズを変えているし、第4章「人と人以外(モノ)のシェア」は人とシェアの関係を根源から問いなおす。
 そして第3部に入ると、さらに「シェア」とは何かを問い詰める。それでもまだ第5章は集合住宅を例に住まいのシェアの類型を考えるという一般的な範疇での考察だったが、その後、論考は大きく飛躍する。第6章では、文化人類学者の小川さやか氏が担当し、タンザニアにおける路上生活者などのシェアが当たり前な人々の生活を紹介する。そして、岡部自身が執筆する第7章では、所有をベースとした近代的な資本主義体制に対して異議を唱え、シェアを基盤とした社会の可能性を提示してみせる。
 なるほど、本書で示す「シェア」とはそういうことか。言ってみれば、排他的所有権の否定。所有を否定し、利用を優先する。誰が利用すべきかは、早い者勝ちのこともあれば、社会的有益性やひっ迫性など色々考えられるだろう。実際、本書で紹介するスラムなどでは、人々は個人主義的に生きているようで、いざとなれば当たり前のように協力し合う。これはすなわち、斎藤幸平が提案する「脱成長コミュニズム」の世界ではないか。
 「シェア」と言うからわかりにくい。「所有」のない世界を構想しよう。確かに一般人にとって「住まい」こそ、所有権の最大のものかもしれない。

○マスクは本来市場の原理で消費されるものですが、コロナ禍においては市場からの需給が困難になり、国がコントロールするようになりました。プログラマーたちが国に対して、マスクの受給状況をオンラインで公開するように提案し、さまざまなアプリが開発されたことで、市民にマスクが行き渡りました。今回のような特殊な状況では、マスクが公共財となっていったわけです。これからもわれわれが公共のもの・個人のものだと区分していたものが、違う意味を持つ可能性があるということです。(P50)
○コロナ以降にこそ、新しい住まいの形態を自由な発想で発明できるかもしれない。…建築家はルールから発想するのではなく、地域の人々の声を聞き、地域資源をネットワークしていき、暮らしのサポートをしていくような態度を取れなければいけないだろう。/敷地の中に自律的な建築を作るのではなく、自律的な地域を作るための建築を目指さなければならない。…サービスを提供する、されるという一方的な関係性を超えて、各人がさまざまな立場を自在に行ったり来たりするような分人的な能動性が求められるだろう。(P74)
○戸建て住宅は、民間資本による自助努力による…過去から引き継いだ在来の技術と生産基盤を最大限に活用した住まいの形式であり…現状追認主義的であると言える。対して集合住宅は…技術的にも形式的にも、近代以前の日本とは直接的なつながりを持たない、まったく新しい理想の庶民の住まいである。/また…住宅ローンという金融的な技術を使ってつくられる戸建て住宅は、資本主義的な色合いが強いが、ひとつの建物を平等に分かち合って住まう集合住宅は…共産主義の考え方と親和的である。(P146)
○そのときどきの分配やシェアがいま私はその人間と共にいることを望んでいるという意思表示になり、その結果として共同性が立ち現れる…シェアを目的とする集団やコミュニティが最初にあるわけではなく、偶発的に居合わせた者とのそのときどきの偶然のシェアを通じて路上空間=商店街が、元からシェアされる空間であったように遡行的に築いているのである。…だが…市当局には、彼らの「自由」と「非集団性」こそが問題となった。(P182)
○少しゆとりのある近隣の家の設備を…使わせてもらっていたりする…融通の利く空間があるから生活がかろうじて成り立っている。…しかし、正規化による住環境改善が想定しているのは、水回りや台所など住機能が各戸に揃った住居だ。…彼らの生活を成り立たせている基盤には空間の「シェア」があった。…しかし「所有」の排他性により生活基盤を確かなものにする施策が進むと、生きていくための基盤だった「シェア」が失われていってしまう。それは生きること自体を奪われるに等しい。(P216)
○魅力的な空き家や空き地、耕作放棄地は、活用のイメージがわいた人が手を上げれば使えるようになる。大局的に見ると、土地も空間もシェアされている状態を基盤として、時と場合によって「自分のもの」にする正当性を主張し合う世界になる。これこそが…「シェアを基盤とした未来」の姿なのではないだろうか。土地や空間を排他的所有の楔から解放すれば、シェアの可能性はもっと広がる。…「所有」に代わって「シェア」が、社会の基盤として存在感を増してくる。(P231)

地域学入門☆

 「地域学」とは何だろうか。「地理学」とどう違うのか。いや、そんなことはどうでもよい。グローバル化が進み、国家ナショナリズムが沸騰する現代、私たちが住む足元、「地域」をもっと学ぶ必要がある。「地域学入門」と題された本書は、まさに入門書。いや「教科書」である。実際、筆者が勤める東京都立大の講義が元となっていると言う。だから、筆者がかつて赴任していた弘前市や近辺の集落を題材に、地図を示しつつ、地域をつくる「自然」と「社会」と「歴史・文化」を具体的に説明していく。図書館や資料館の活用など、具体的な調査方法さえ指し示す。
 だが、「地域学」の入門書にして、なぜ今「地域学」が重要なのかを、特に後半の「変容の章」などで記している。ともすれば我々は、地域などなくても、直接、世界とつながり、市場経済の中で生きていけるかのように思ってしまう。しかしそれが実は真の意味で危うい選択であることを、熱を込めて訴える。国家は本来、個人を守り、地域を守るためにこそあった。だが今や、国家が個人に、国のために生きることを強要するようになっている。そのことに警鐘を鳴らす。
 筆者は、弘前大学時代はもちろん、東京都立大に移ってからも、地方の視線で生きること、地方をベースに生きることを訴えてきた。本書はそうした活動を「地域学」として捉えなおし、人々にその重要性を伝えようとしている。学び方を伝えようとしている。本当にそのとおりだと思う。我々はまず個人で生き、家族で生き、地域で生き、そして国に生きて、世界とつながっている。それが生身の存在として生きていることの真実だ。逆ではない。勘違いしてはいけない。

○古代の技術は、近代のそれと比べれば貧弱なものととりあえず解してよい。だが逆に言えば…ブルドーザーなどの重機はなく、すべて人の手にたよったから、古代の技術の実現には人間集団を引っ張る動員力も不可欠だった。そしてそうした人々を引っ張っていく力こそが、まさに「国家」が実現する社会の力だということができる。…ここにはある種の人間中心主義がある。「国家」の生成は社会の大きな転換である。(P096)
○村も町も基本的には家々が集まって形成され、それらが小さな国(地域)をなしているというのが、日本の社会の本来の基本的な姿であった。そしてこのように家々の関係を軸に地域が構成されていることは…近代工業都市…そして…官公庁においてさえ同じなのであった。…そもそもオオヤケ(公)とは、大宅(大家)のことである。…職場はどこも一つの疑似的な「家」であり、また別様に言えば「藩」であった。(P142)
○私たちは…未来がよいものであると信じ、よいものであるよう祈る。…「祈り」とは…統制できない未来を現在のうちにつなぎとめ、たしかなものにするための時間のマネージメントである。…そして祈りは本体、個的なものではなく共的なものである。…祈りがあってはじめて…この世界を上手に生きていくことができる。そして人々は運命共同体として一つになれた。…地域にはそれゆえ必ず祈りの場が存在する。(P200)
○西欧発・アメリカ発の近代化が日本にもたらされて、手のつけられない変化が生じてしまった。…すなわち、それは近代文化以外の文化の否定である。日本は西欧化し、アメリカ化した。そうなることで近代国家を実現できた。だが、それは本来は国家とともに地域を守るためだった。ところがいつの間にか…日本国家の存在だけが…絶対視され、それを実現させた欧米文化を重んじる一方で、私たちの国家を基礎づけてきた各地の地域文化の方は、不当にも軽んじられるようになってしまった。(P254)
○個人が国家やグローバル市場にだけ向き合って暮らしているかのような錯覚が、むしろ一般的な認識となってしまった。/だが見えにくいだけで、こうした装置を実際に保持し、また動かしているのは地域である。…一部の人々の視野にはすでに地域は存在せず、国家と個人しかない認識さえ確立されているようだ。だがそれは、すべてを国家に委ね、依存するしかないという危うい認識である。…私たちは地域を知るきっかけを取り戻さなくてはならない。(P286)