近代化遺産を歩く

 2001年発行だから、もう16年も前の本である。これまでも何度か書店で手に取ったことがあるが、先日ようやく購入した。どうしてこれまで購入しなかったかと思うに多分、もっと土木的な構造物が掲載されていることを期待したからではないか。思った以上に建築物が多い。
 「近代化遺産」と似た言葉に、「土木遺産」、「産業遺産」などがある。「土木遺産」は土木学会が2000年から認定を始め、毎年20件ほどを認定している。「産業遺産」については、国際産業遺産保存委員会なる国際的な組織がある。また、経産省では2007年と2009年に「近代化産業遺産」の認定を行い、66の近代化産業遺産群と1,115の認定遺産が公表されている。
 一方、「近代化遺産」については、文化庁重要文化財の種別として1993年に創設している。本書で紹介される構造物がすべてこの近代化遺産に指定されているかどうかは定かでないが、これらの〇〇遺産の中には重複して認定・指定されているものも多い。本書に掲載されている近代化遺産はあくまで、写真家・増田彰久の選定によるものとして理解したほうがいい。全体的にはやはり写真家の目から見て、美しいもの、感情に訴えるものが多く選定されているように思う。その中には既に壊されてしまったものも多い。伊豆大島の測候所が知らないうちに壊されてしまったことを嘆いているが、確かに自然や災害の力よりも経済力の方が破壊力は大きいようだ。
 「はじめに」では、「近代化遺産は懐かしい、自分の生活に関わるもの」「市民の文化財」といった定義がされている。私が昔関わった常滑市のやきもの散歩道では、「世間遺産」という言葉が使われていた。「近代化」というと近代化に功績のあった文化財ということになってしまうが、自分の生活と関わってきた、自分自身をつくってきた構造物と考えれば、こうした文物はまさに多くあり、全て「遺産」と言えるのかもしれない。「自分遺産」である。自分にとっての遺産をもっと発掘していきたい。

カラー版 近代化遺産を歩く (中公新書)

カラー版 近代化遺産を歩く (中公新書)

○「近代化遺産」では「懐かしい」という言葉がキーワードになるのではないだろうか。学者や研究者がこれは価値がある、というからではなく、むしろ自分自身の周りで「これは」と思うもの、基本的には多くの人々が大切にしていきたいものが「近代化遺産」ではないだろうか。・・・言い換えれば、自分史の資料となるような文化財とも言えるし、生きた物語のある文化財とも言い換えることもできる。現在の生きた社会の中にある文化財なのである。・・・「近代化遺産」の場合は・・・市民からアプローチしていく文化財と言えるのではないかと思う。(P6)
〇どの都市でも駅は町の中心にはつくることができなかった。鉄道建設に強い反対があったからである。・・・地方でもとんでもないところに駅が誕生したことにより、江戸時代の都市の構造は大きく崩れていく。駅から町の中心までは道路でつなぐことになり、そこで駅前大通りが生まれていく。この通りが新しい町の骨格となり、町を大きく変えていった。駅は都市のイメージの中心となり、新しい核となった。新しい文化や近代的な技術を鉄道が運んでいった。駅は文明開化の窓のようなものであった、ということができる。(P20)
〇土木の人は技術者として自らがつくったものが多くの目に触れるので、いろいろなデザインを、ここぞとばかり施し、がんばった。・・・建築家たちがもし、このデザインをやっていたら、もっときちんとし過ぎて、今のような少しユーモラスで少しキッチュで大きいが可愛らしいというような、楽しいデザインは生まれなかったのではないかと思う。この配水塔の中は水だけだが、すこしも冷たく感じさせない。なんとなく親しみを感じさせる不思議な構造物である。(P81)
〇野蒜に国際的な港をつくり海外との貿易の拠点にしようと考えたのである。明治11(1878)年に野蒜築港は起工、明治15年に完成した。竣工した突堤は、その2年後の明治17年9月の台風によって流失し、壊滅的な打撃を受け、せっかく築いた港は完全に崩壊してしまった。・・・このプロジェクトが成功していれば、野蒜は横浜をしのぐような町になっていたのだと言う人もいる。当然だが、まだ横浜には港の計画すらなかった時代のことである。(P122)
三原山が噴火して、全島に避難勧告が出されたときに、テレビで測候所の人たちも避難したという情報を伝えていた。その後、この建物が無傷であったことを聞き、ホッとしたことを思い出した。測候所が無事に残ったと喜んでいたら、最近、この名作は壊されたと聞いた。日本を代表するモダニズムの建物が、こんなにあっさり、話題にもならずに壊されたことは、まことに残念である。自然の地震や災害で壊されるということよりも、破壊力は、やはり経済の力の方が強いことを、ひしひしと感じた。(P182)

世界の美しい名建築の図鑑

 原題は「THE STORY OF BUILDINGS」。「建物の物語」。この方が内容を的確に表している。確かに精密で美しいイラストがついて、世界の様々な建物の特徴が余すところなく表現されている。それらを見ているだけでも楽しい。外観だけでなく、内部も各所で建物を断ち切っては断面図を描き、わかりやすく説明もついている。だから「図鑑」とタイトルをつけたのもわからないではないが、しかしそれ以上に楽しいのが、建物を巡る物語だ。
 アテネの再建。パラーディオによる古典様式への回帰。万国博覧会での水晶宮の採用。オペラハウスの誕生に纏わる物語。洞窟から始まった住まいが様々な工夫の中で多様な家が現れる。さらに様々な用途の建物。ピラミッドに始まって、最後は環境共生住宅であるストロー・ベイル・ハウスまで。有史から現代に至るまでの建物の歴史を辿りつつ、単にそれらを説明するだけでなく、物語として提示する。
 読んでいると、建物のデザインが、装飾と装飾のないデザインとの間を行ったり来たりしていることに気付く。古典様式からゴシック様式。そしてルネサンスを迎えてネオロマネスクに戻り、バロックが現れ、しかし産業革命ともに水晶宮が現れ、アーツ・アンド・クラフツやバウハウスなどの活動があり、インターナショナル・スタイルが生まれる。
 西洋建築史の講義の中で、こうした物語を聞いたことがなかった。中高生が読んでももちろん面白い。だが建築教育の初期課程で読んでも十分有用だ。建築の楽しさや意味が伝わってくる。建築にも物語の力が必要だ。

世界の美しい名建築の図鑑 THE STORY OF BUILDINGS

世界の美しい名建築の図鑑 THE STORY OF BUILDINGS

○クセルクセス軍はペルシアへ引き揚げましたが、アテネの人々が戻ったのは、廃墟と化した都市でした。・・・ペリクレスはよくアクロポリスに登り、自分がこよなく愛する都市を見下ろしました。焼け焦げた石の建物の中では政治家たちが集会を開き、劇場では観客が歓声を上げ、広場では哲学者たちが討論しています。これこそがアテネが特別な都市である理由だ、とペリクレスは思いました。・・・新たなパルテノンはアテネを象徴するものにしようとペリクレスは固く心に決めていました。・・・パルテノンは、女神に捧げた単なる神殿ではありません。アテネそのものの象徴だったのです。(P25)
○来る日も来る日もスケッチを重ねるうちに、パラーディオはある結論に達しました。美しい建物をつくるには、見栄えのする柱やアーチや彫像で飾り立てる必要はありません。本当に大切なのは、それぞれの部分とほかの部分との関係です。対称的な形にし、数学を用いて各部分が全体とバランスを取るようにすれば、どんなにシンプルな建物でも美しくなるのです。・・・パラーディオの『建築四書』はヨーロッパ中で出版されました。・・・人々は理解したのです。/美は華やかな装飾に頼る必要はなく、最もシンプルなものが最も完璧なこともあるのだと。(P57)
○パスクストンのホールは無事に完成し、開会の日を迎えました。/ロンドンっ子たちは、日の光を受けて輝くガラスのヴォールトを見て、水晶宮クリスタル・パレス)という呼び名をつけました。・・・分解される・・・様子を見物していた人たちは、建物というもののイメージがすっかり変わってしまったことに気づきました。建物が機械を使って建てられるというだけではありません。建物自体が機械だったのです。・・・展示ホールは・・・やがて焼け落ちてしまいましたが、建っていた場所は今でもクリスタル・パレスと呼ばれています。(P75)
○20世紀初めの第一次世界大戦では多くの人が亡くなり、多くの町も跡形もなく破壊されました。その影響で、戦争が終わると人々はますます過去ではなく未来を見るようになりました。・・・貧しい人でもいい家に住める世界、新たな可能性やすばらしい発明を誰もが分かち合える世界を。・・・人々は口々に言いました。「私たちは、今、この時代に生きているのだ。すべては現在にふさわしいものにしなければならない」/こうして登場したのが近代建築です。(P83)
○審査員たちが最も気に入った案は・・・ペンとインクで描かれた素朴な小さなスケッチでした。・・・しかし、この時点で、シドニー・オペラハウスが完成するまでどれほどの歳月がかかるか・・・まだ誰も知りませんでした。・・・激しい対立の末にウツソンは解任され、怒ってデンマークに帰ってしまいました。/そのようなわけで、水に浮かぶ帆のような小さなスケッチを描いたヨーン・ウツソン本人は、オペラハウスがついにこけら落としを迎えた日、その場にはいませんでした。(P102)

知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」

 GW前に東北旅行へ行った。その際に旅程の参考にするため、本書を購入。中でも目に付いたのが「出雲崎」。期待通りの妻入りの町並みを見学した。しかし、出雲崎に行って初めてわかったのは、建物自体は意外に新しい、ということ。本書ではそこまでは書かれていなかった。
 著者「『ニッポン再発見』倶楽部」というのがまず怪しい。巻末の著者紹介に「独自の切り口・視点には定評がある」と書かれているが、さっぱりそんな感じはない。「主な参考文献」に多くの書籍が挙げられた最後に「*その他、官公庁・自治体など多数のホームページを参考にさせていただきました」と書かれているが、ほとんどこれらの書物やHPから引用して書き連ねたのではないかと思うほど。そもそも文庫本紙面の半分以上は写真で占められ、1ヶ所につき見開き1ページ、または片面1ページで紹介するのだから、書けることは限られている。言ってみれば、私のこのブログのよう。いや、私の方がもっと驚きなどの感情が表現されているのではないかと思うが。
 取り上げられる町並みは79地区。函館や尾道など、有名な街もあれば、伊根や外泊など、あまり知られていない町もある。私が知らなかったのもいくつか。その点では役に立つ。今回、本書に掲載された町並みのうち、出雲崎と喜多方、角館、東山ひがしを訪れた。大森銀山や黒江、渡名喜島、秋月、筑後吉井、佐原など、ぜひ行ってみたい町。大内宿、平福、栃木などもう一度行きたい町も多い。もちろん、今井町美濃市、足助、飛騨古川など、忘れていませんか、と言いたい町もあるけれど。
 本書を見ながら、また旅に出たくなった。次はどこへ行こうか。

○「水の都」といえば、ヴェネツィアが有名だが、日本にも海に浮かぶ町が存在する。日本海に突き出た丹後半島北端の港町・伊根である。伊根湾岸の海上には、古い家がいくつも連続して建っているのだ。これらの家々は「舟屋」といい、主として昭和初期までに建てられた。一階は船を収納する舟揚げ場兼作業場、二階は居住空間になっており、舟屋の先は海底20メートル以上と急に深くなるため、湾から直接船を引き入れることができる。(P34)
○ここ三国だけでしか見られない、「かぐら建て」の民家も見逃せない。/かぐら建てとは、妻入りの母屋を道から少し下げて建て、その正面に平入りの屋根を差し掛ける形式。・・・母屋を妻入りにしたのは、海から吹く強風を防ぐための知恵で、町並みを整えるために、通りの面を平入りの造りにしたものと考えられる。(P38)
愛媛県西南端、南は黒潮の太平洋に面し、西は豊後水道を臨む外泊。この集落は“石造りの要塞”のように見える。・・・石垣は最高7メートルにも及ぶ。なぜそれほど高い石垣が築かれたのかというと、家を強風から守るためである。また、石垣に「遠見の窓」というくぼみを設け、そこから漁をする海を見渡した。/石垣とともに生きてきた、「石垣の里」と呼ぶにふさわしい集落だ。(P43)
○江戸時代、佐賀藩は有田焼の中心地である有田皿山を内山と外山に区分。内山地区では有田焼特有の赤絵付けなどの技術漏洩を防ぐため、内山地区を一つの窯元のようにして町づくりを進めた。・・・最も特徴的な建造物としては、耐火煉瓦(トンバイ)や陶片などを赤土で塗り固めた「トンバイ塀」があげられる。この頑丈な塀は仕事場や屋敷を囲み、技法が漏れないように工夫したのだ。(P208)
○黒江塗400年の伝統に支えられた黒江の町並みは、じつにユニーク。/道路に対して斜めに家が建てられているため、上空から町全体を眺めると、まるで鋸の歯のようにギザギザした形に見えるのである。/道路に面した部分にできている三角形の空き地は、もともと漆器の原料や製品などの置き場だった場所で、食と住が一緒だった頃の名残といえる(いまは植木などを置いている)。