世界の美しい名建築の図鑑

 原題は「THE STORY OF BUILDINGS」。「建物の物語」。この方が内容を的確に表している。確かに精密で美しいイラストがついて、世界の様々な建物の特徴が余すところなく表現されている。それらを見ているだけでも楽しい。外観だけでなく、内部も各所で建物を断ち切っては断面図を描き、わかりやすく説明もついている。だから「図鑑」とタイトルをつけたのもわからないではないが、しかしそれ以上に楽しいのが、建物を巡る物語だ。
 アテネの再建。パラーディオによる古典様式への回帰。万国博覧会での水晶宮の採用。オペラハウスの誕生に纏わる物語。洞窟から始まった住まいが様々な工夫の中で多様な家が現れる。さらに様々な用途の建物。ピラミッドに始まって、最後は環境共生住宅であるストロー・ベイル・ハウスまで。有史から現代に至るまでの建物の歴史を辿りつつ、単にそれらを説明するだけでなく、物語として提示する。
 読んでいると、建物のデザインが、装飾と装飾のないデザインとの間を行ったり来たりしていることに気付く。古典様式からゴシック様式。そしてルネサンスを迎えてネオロマネスクに戻り、バロックが現れ、しかし産業革命ともに水晶宮が現れ、アーツ・アンド・クラフツやバウハウスなどの活動があり、インターナショナル・スタイルが生まれる。
 西洋建築史の講義の中で、こうした物語を聞いたことがなかった。中高生が読んでももちろん面白い。だが建築教育の初期課程で読んでも十分有用だ。建築の楽しさや意味が伝わってくる。建築にも物語の力が必要だ。

世界の美しい名建築の図鑑 THE STORY OF BUILDINGS

世界の美しい名建築の図鑑 THE STORY OF BUILDINGS

○クセルクセス軍はペルシアへ引き揚げましたが、アテネの人々が戻ったのは、廃墟と化した都市でした。・・・ペリクレスはよくアクロポリスに登り、自分がこよなく愛する都市を見下ろしました。焼け焦げた石の建物の中では政治家たちが集会を開き、劇場では観客が歓声を上げ、広場では哲学者たちが討論しています。これこそがアテネが特別な都市である理由だ、とペリクレスは思いました。・・・新たなパルテノンはアテネを象徴するものにしようとペリクレスは固く心に決めていました。・・・パルテノンは、女神に捧げた単なる神殿ではありません。アテネそのものの象徴だったのです。(P25)
○来る日も来る日もスケッチを重ねるうちに、パラーディオはある結論に達しました。美しい建物をつくるには、見栄えのする柱やアーチや彫像で飾り立てる必要はありません。本当に大切なのは、それぞれの部分とほかの部分との関係です。対称的な形にし、数学を用いて各部分が全体とバランスを取るようにすれば、どんなにシンプルな建物でも美しくなるのです。・・・パラーディオの『建築四書』はヨーロッパ中で出版されました。・・・人々は理解したのです。/美は華やかな装飾に頼る必要はなく、最もシンプルなものが最も完璧なこともあるのだと。(P57)
○パスクストンのホールは無事に完成し、開会の日を迎えました。/ロンドンっ子たちは、日の光を受けて輝くガラスのヴォールトを見て、水晶宮クリスタル・パレス)という呼び名をつけました。・・・分解される・・・様子を見物していた人たちは、建物というもののイメージがすっかり変わってしまったことに気づきました。建物が機械を使って建てられるというだけではありません。建物自体が機械だったのです。・・・展示ホールは・・・やがて焼け落ちてしまいましたが、建っていた場所は今でもクリスタル・パレスと呼ばれています。(P75)
○20世紀初めの第一次世界大戦では多くの人が亡くなり、多くの町も跡形もなく破壊されました。その影響で、戦争が終わると人々はますます過去ではなく未来を見るようになりました。・・・貧しい人でもいい家に住める世界、新たな可能性やすばらしい発明を誰もが分かち合える世界を。・・・人々は口々に言いました。「私たちは、今、この時代に生きているのだ。すべては現在にふさわしいものにしなければならない」/こうして登場したのが近代建築です。(P83)
○審査員たちが最も気に入った案は・・・ペンとインクで描かれた素朴な小さなスケッチでした。・・・しかし、この時点で、シドニー・オペラハウスが完成するまでどれほどの歳月がかかるか・・・まだ誰も知りませんでした。・・・激しい対立の末にウツソンは解任され、怒ってデンマークに帰ってしまいました。/そのようなわけで、水に浮かぶ帆のような小さなスケッチを描いたヨーン・ウツソン本人は、オペラハウスがついにこけら落としを迎えた日、その場にはいませんでした。(P102)

知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」

 GW前に東北旅行へ行った。その際に旅程の参考にするため、本書を購入。中でも目に付いたのが「出雲崎」。期待通りの妻入りの町並みを見学した。しかし、出雲崎に行って初めてわかったのは、建物自体は意外に新しい、ということ。本書ではそこまでは書かれていなかった。
 著者「『ニッポン再発見』倶楽部」というのがまず怪しい。巻末の著者紹介に「独自の切り口・視点には定評がある」と書かれているが、さっぱりそんな感じはない。「主な参考文献」に多くの書籍が挙げられた最後に「*その他、官公庁・自治体など多数のホームページを参考にさせていただきました」と書かれているが、ほとんどこれらの書物やHPから引用して書き連ねたのではないかと思うほど。そもそも文庫本紙面の半分以上は写真で占められ、1ヶ所につき見開き1ページ、または片面1ページで紹介するのだから、書けることは限られている。言ってみれば、私のこのブログのよう。いや、私の方がもっと驚きなどの感情が表現されているのではないかと思うが。
 取り上げられる町並みは79地区。函館や尾道など、有名な街もあれば、伊根や外泊など、あまり知られていない町もある。私が知らなかったのもいくつか。その点では役に立つ。今回、本書に掲載された町並みのうち、出雲崎と喜多方、角館、東山ひがしを訪れた。大森銀山や黒江、渡名喜島、秋月、筑後吉井、佐原など、ぜひ行ってみたい町。大内宿、平福、栃木などもう一度行きたい町も多い。もちろん、今井町美濃市、足助、飛騨古川など、忘れていませんか、と言いたい町もあるけれど。
 本書を見ながら、また旅に出たくなった。次はどこへ行こうか。

○「水の都」といえば、ヴェネツィアが有名だが、日本にも海に浮かぶ町が存在する。日本海に突き出た丹後半島北端の港町・伊根である。伊根湾岸の海上には、古い家がいくつも連続して建っているのだ。これらの家々は「舟屋」といい、主として昭和初期までに建てられた。一階は船を収納する舟揚げ場兼作業場、二階は居住空間になっており、舟屋の先は海底20メートル以上と急に深くなるため、湾から直接船を引き入れることができる。(P34)
○ここ三国だけでしか見られない、「かぐら建て」の民家も見逃せない。/かぐら建てとは、妻入りの母屋を道から少し下げて建て、その正面に平入りの屋根を差し掛ける形式。・・・母屋を妻入りにしたのは、海から吹く強風を防ぐための知恵で、町並みを整えるために、通りの面を平入りの造りにしたものと考えられる。(P38)
愛媛県西南端、南は黒潮の太平洋に面し、西は豊後水道を臨む外泊。この集落は“石造りの要塞”のように見える。・・・石垣は最高7メートルにも及ぶ。なぜそれほど高い石垣が築かれたのかというと、家を強風から守るためである。また、石垣に「遠見の窓」というくぼみを設け、そこから漁をする海を見渡した。/石垣とともに生きてきた、「石垣の里」と呼ぶにふさわしい集落だ。(P43)
○江戸時代、佐賀藩は有田焼の中心地である有田皿山を内山と外山に区分。内山地区では有田焼特有の赤絵付けなどの技術漏洩を防ぐため、内山地区を一つの窯元のようにして町づくりを進めた。・・・最も特徴的な建造物としては、耐火煉瓦(トンバイ)や陶片などを赤土で塗り固めた「トンバイ塀」があげられる。この頑丈な塀は仕事場や屋敷を囲み、技法が漏れないように工夫したのだ。(P208)
○黒江塗400年の伝統に支えられた黒江の町並みは、じつにユニーク。/道路に対して斜めに家が建てられているため、上空から町全体を眺めると、まるで鋸の歯のようにギザギザした形に見えるのである。/道路に面した部分にできている三角形の空き地は、もともと漆器の原料や製品などの置き場だった場所で、食と住が一緒だった頃の名残といえる(いまは植木などを置いている)。

モダニズム建築紀行 日本の1960~80年代の建築

 「モダニズム建築紀行―日本の戦前期・戦後1940~50年代の建築」とセットだが、後巻である本書から読み始めてしまった。1960年から1983年までに建築された46件の建物を紹介する。大阪府建築士会の会報「建築人」に「記憶の建築」として2009年から掲載されたものをベースに加筆したと言う。実に長きにわたってこの連載を続けている大阪府建築士会にも敬意を表したい。
 取り上げられている建物の設計者は、前川國男増田友也谷口吉郎大高正人白井晟一丹下健三吉村順三芦原義信、林昌二、鬼頭梓村野藤吾など多数に及ぶが、なかでも前川國男大高正人が多く目に付く。筆者がかつて前川國男建築設計事務所に勤めていたことから、そうした選択になっているかと思われる。別に、日本のモダニズム建築ベスト100を選ぼうという企画ではないので、それはかまわない。事務所在職時に出会った建築家から直接聞いた話なども紹介されるが、それぞれの建築家が作品発表当時に建築雑誌等に掲載した文章やインタビューも多い。筆者の感想は控えめに、建築家自身の言葉や文章を伝える姿勢は評価できる。
 そしてこれら日本の近代を作ってきた建築家がいかに建物と人間や自然、都市との関係などを真摯に捉え、模索してきたがよくわかる。現在の我々はここまで真摯に建物に向き合って建築しているだろうか。しかしそうして建築された建物が今、次々と壊されている。本書で紹介される建物の多くも、雑誌掲載後に解体されてしまった。そのことが連載の途中ながら本書の執筆・発行を進めた理由だという。本書が発行されたことはうれしいが、解体が進んでいることは悲しい。
 我々はどんな社会を作ろうとしているのか。それが建物や都市の姿にも表れているはずだ。でも経済性ばかりが優先されて、建物と社会や人間性との関係について真剣に考えることは少なくなっているような気がする。そうしたことを考え抜いた建物を安易に壊すことができるのもその故ではないか。

モダニズム建築紀行―日本の1960~80年代の建築

モダニズム建築紀行―日本の1960~80年代の建築

〇私は荒廃を深めてゆく都市の文明を思いながら、再び、素朴な人間の精神と肉体をつちかう自然とそして農村の価値を考えないわけにはゆかない。人類は・・・工場からはげしく煤煙を挙げた放射能に手をそめながら、巨大な経済力をたくわえ危険な文明を築こうとしている。私はその人類の意志と生命のはげしさを頭から否定することは出来ない。しかし一体そこに平和はあり得るのだろうかと深い疑念にもおそわれるのである。・・・都市化が急激に進む中、それを相対化できる「平和の原形」を農協に求めて、大高は農村建築にユートピアの具現化を志していたのだ。(P041)
〇「近代建築は人間の建築としての『初心』を思いださなければならない。科学といい、工業といい、人間の頭脳で考えられたものであるのに、それによってつくられる近代建築や近代都市が、何故に非人間的なのであるか。」(前川國男「文明と建築」)(P071)
〇「変転を続ける社会でつくられてきた建築の中に、変転を超えて生き続ける建築の生命を読み取り、いま建築がこの社会の中でもつ意味を誤りなくとらえることが必要です。過去をつぎつぎに消し去ってきたために、建築は現実の条件に密着しすぎるものとなってしまいました。社会的条件の変転に比べて建築の生命は長く、建築をつくる思想はさらに寿命の長い、確かなものでありたいと思います。」(林昌二「歪められた建築の時代―1970年代を顧みて」)(P115)
〇吉村は、名もない民家を訪ね歩いた経験から、「よい建築には人間的なスケールがある」ことに気づいたと言い、「プロポーションが結局生命なんだ」と述べている。・・・「私はデザイン或いはクリエーションというものは、これは決して手品のように新しいものを作り出すものではなくて、一つの配置再編成だと思うのです。やはり昔のものの中からいいものを一杯集めてよく勉強してそういうものを再編成することが即ち創造だと思う」(P144)
〇あるインタビューで、村野は次のように述べている。/「もともと建物というものの対象は、人間でしょう。・・・人間が建物にどういう影響を及ぼし、また反対にいえば、建物が人間にどういう影響を与えるかということでもあります。ところが、これを考えていきますと、まず建物の影と光という問題について考えなければならなくなります。しかし私は、陰影ということはただ物理的な意味ばかりではなくて、心のなかの光と影ということまで広げて考えたいと思います。つまり、私は、建物と人間との関係に倫理性を求めたいと思います。」(P233)