自然な建築

 「自然な建築とは、場所と幸福な関係を結んだ建築のことである」。こう主張する著者が、最近、設計・建築された8つの作品を紹介しつつ、自然と建築の関係について論じていく。8つの作品のテーマと名称は、以下のとおりである。

・ 水:タウトの日向邸に隣接するある企業のゲストハウス(静岡県熱海市)

・ 芦野石:石の美術館(栃木県那須町

大谷石:ちょっ蔵広場(栃木県高根沢町

・ 杉:広重美術館(栃木県那珂川市馬頭)

・ 竹:グレート(バンブー)ウォール(中国万里の長城)他

・ 日干し煉瓦:安養寺収蔵施設(山口県下関市豊浦)

・ 山頂:亀老山展望台(愛媛県今治市

・ 和紙:陽の楽家(新潟県柏崎市高柳)

 石、土、木、竹、紙など自然素材を使用しているが、隈研吾の言う「自然な建築」はこれらの素材を使用しているだけにとどまらない。石の格子や隙間をつくる石の壁、広重の雨のように細かい杉の格子、切り取られた山頂を復元し埋め込まれた展望台、雨や風に耐える和紙の外壁と茅葺きの屋根。どれをとっても魅力的な造形だ。同時に、場所の地形や地域性を踏まえつつ、地場の材料と技術を生かしていく。しかもこれらの自然素材を、時に応じ鉄骨などの既成材料や技術と組み合わせ、柔軟に生かしていく。自然原理主義には陥らないと本書の後半で述べている点はご愛敬だが、こうした姿勢も重要であろう。

 「自然とは関係性である」。そして自然な建築とは、その自然との関係性を熟慮した建築のことである。こうした著者の建築観が、作品紹介と豊かな文章能力により余すことなく表現されている。確かにこうした建築は、その中で生活する人間にもやさしく豊かにするだろうと思う。できればすぐにでも見に行きたいと思うが、残念ながら著者の建築した作品はどれも遠方だ。ぜひいつか機会を得て実作をみてみたいものだ。

●不安定なものほど、うわべの固定化によっては救われない。不安定なものがもっとも必要としているのは柔軟性のはずである。固定化は不安定なものに不自然な足枷をはめるだけである。・・・コンクリートとは消えゆく不安定なもの達の、断末魔の叫び声である。(P9)
●あるものが、それが存在する場所と幸福な関係を結んでいる時に、われわれは、そのものを自然であると感じる。自然とは関係性である。自然な建築とは、場所と幸福な関係を結んだ建築のことである。場所と建築との幸福な結婚が、自然な建築を生む。(P13)
●自然の本質もまた、何かを待ち続けることである。自然とは凝結していない。・・・自然に内在するおそろしくゆるやかな時間表からみるならば、すべては流動的であり、何かを待ち続けているのであり、すべては粒子なのである。(P36)
●自然とは何かを問うことは、時間とは何かを問うことだし、生とは何か、死とは何かを問うことにもつながるのである。(P174)
●最も必要なのは、胸をはれない、という現実をしっかりと見つめることである。そのうしろめたい、胸をはれない現実を認めた上で、そこに対して現実的な解決策を練り上げていくことである。その現実認識にしか、建築の望みはない。その胸のはれなさからスタートするのが、本当の意味での自然な建築であると、僕は考えている。(P209)