「計画的縮退」について

 facebookで若い昔の同僚と議論をした。
 先に書いた「町を住みこなす」の後半で、高蔵寺ニュータウンの地域循環居住について書いたが、そこから「計画的縮退」について派生した。
 彼が「そろそろ『計画的縮退』が必要だ」というのに対して、私からは「行政的には難しいのでは」という微温的な意見を書いた。それに対して彼から「ズルズルとなし崩し的にとギリギリな低空飛行を続けるより、思い切って閉店ガラガラしちゃう方がみんなハッピーなような気がします」とコメントがあり、それにどう返答しようかと思い、ふと手が止まった。
 いろいろなことが頭に去来した。一つは、「それは若い考えだ。現実はもっと様々な考え、色々な人がいる。思い出も幸福感には重要な要素だ」といったこと。また、「計画高権に対する嫌悪。理想と現実が違うとして、理想の都市を実現するために、計画的に高権を発動することが正しいのか。計画で人々を動かすよりも、人々の流れに沿った計画であるべき」といったこと。さらに「人口が減少するにあたって、どういう住まい方・都市のあり方が理想なのか。都市的集中と過疎の二分化が本当にあるべき都市の姿なのか。それは欧米的都市像ではないのか。もっと薄く平べったい都市のあり方は実現困難なのか。情報化などの技術革新が都市の姿を変える可能性はないのか」とか。一方で、「日本の都市計画は50年早すぎた。これまでは、土地所有に対する権利意識などが強く、都市計画が日本人一般には十分理解し受け入れられていない状況にあったが、これからの若い人たちは意外に規律よく、都市計画を順守するのかもしれない」という思いも去来する。
 国土に対して人口は減少するのだから、土地利用が全体的に「希薄化」するのは確かだ。それが満遍なく希薄化されると、これまでと同様の都市インフラの維持は困難となる、ということも理解できる。だから、行政としては、行政サービスの「選択と集中」をせざるを得ない状況になることも明らかだ。すると、行政の選択肢は、「行政投資を維持・充実する地区と撤退する地区を、事前に空間的に明らかにする」か、「空間的な明示は行わず、ある程度の基準等に基づいて行政投資を行い、結果的に行政投資が集中する地区と、希薄な地区が生まれる」形にするかだ。「計画的縮退」というのが前者で、私が何となく指向しているが後者だ(「なりゆき縮退」とでも名付けておこう)。時代は前者に傾いている? 少なくとも若い元同僚はそう主張している。
 しかしそれではどちらがハッピーか? 「計画的縮退」では、撤退地区とされた住民からは異論が出るだろうし、その説得にかなりの行政努力を要する。しかも、縮退後の結果に対して、行政的な責任を負うことになる。一方、「なりゆき撤退」の場合、行政は、知らず知らずサービスが希薄となった地区住民からのクレーム対応に追われることになる。「ある程度の基準」にどれだけ客観性があるかが問題となるが、最後は説明して押し通すことになる。そうして、行政サービスが希薄となった地区からは、自主的に撤退する住民が現れだす。その後は加速度的に縮退が始まり、しかし一定程度、人口が減少した時点で、その地区に愛着と使命心をもった住民が残る。過疎化かもしれないが、地区が完全に放棄されるにはしばらく時間がかかる。そしてまた時代が変わり・・・。
 これは結局、計画経済か、市場経済か、という選択なのだろうか。都市政策に計画経済と市場経済のアナロジーは適合するのか。もちろん完全自由主義とはいかないと思っているが、どこまで規制して、どこまで計画的であるのかは難しい問題だ。都市計画サイドからは、日本の都市計画は市場経済に引き摺られ、規制が十分ではないという議論が多く語られるが、確かに都市化という部分ではそうであったと思う。しかし過疎化という部分では、都市計画に十分な理論があったとは思えない。そして今、「計画的縮退」ということで過疎化を計画的に進めることには、やはりためらいを覚える。行政サービスの希薄化はやむを得ないとして、その結果、過疎化が進む地区の住民に対しては、「追い出す」のではなく、継続居住を温かく支える姿勢が重要に思う。それが「なりゆき縮退」なのだろうか。ここまで書いてもまだ、自分の考えがまとめきれない。
 とは言っても、私は既に第一線を退いた人間だ。微温的な意見を言ったところで、それで第一線に舞い戻ることもないだろう。だからこれからの都市づくりは、これからの若者たちに任せるしかない。人口減少化の日本の都市はどうなっていくのか。それをこれからは第三者的に、客観的に観ていこう。都市やまちの変化、さらには、むらや国土の変化というのは、何時になっても、いくつになっても楽しいものだ。