ひとり空間の都市論

 「都市」を「ひとり空間」という視点から見る・考察する、というのは面白い視点だ。筆者は都市・建築論を専門とする社会学者。建築職の立場からすると、都市にしろ、住宅や商業施設などの建物にしろ、既に「ひとり空間」という視点からの様々な取組や考察がされてきているように思う。本書でも紹介されている「中銀カプセルタワービル」や黒沢隆の「個室郡住居」など。確か岐阜県営北方住宅にも各個室が共用廊下側に開いている住棟があったはずだが、多くの建築家がこれまでも住宅と個人の関係について考察し、また実践してきた。
 また、住宅機能の外部化、いや家事機能の外部化と言ってもいいと思うが、従来、家庭内で担われてきた機能の外部化は、保育にしろ、食事にしろ、ほとんど当たり前になりつつある。だから本書に期待するのは、やはりモバイル・メディアとの関係だ。モバイル・メディアを用いることで、物理的にどんな空間にいても、それを無力化して、情報空間に移動できる。という実態は、外食先でスマホを見ながら食事をしている家族や若者をよく見かけることでもわかる。
 そもそも人間は一人で生まれ、一人で死ぬ。自分の口から摂った食事は自分の栄養にしかならないし、知識や頭脳も共有はできない。これまではっきりとは可視化されてこなかった人間の「ひとり」性が、さまざまなメディアとそれを利用した空間(物理的・情報的)によって、激しく揺す振られていることは理解できる。問題はそうした状況にいかに対処すべきか、だ。
 本書では、人間の「ひとり」性について、建築や都市がどのように対応してきたか、メディアや商業サイドがどのように利用しようとしているかが描かれている。だが、人間として重要なのは、「ひとり」性をいかに確保していくかということだろう。その意味でも、終章末尾に書かれているように「仕切りの多様性をいかに担保できるか」(P243)が重要だ。人間は究極的には常に必ず「ひとり」だが、ひとりでは生きていけない存在でもある。そこで提起されるのは、「人間としての尊厳」をいかに確保していくかということではないか。「ひとり空間をどう扱うか」というのは都市論となりうるが、「ひとり空間とは何か」というのは哲学でしかないのだろうか。筆者には社会学者としてそこまで深掘りしてほしかった。

○方丈庵があったとされる場所から現在のJR京都駅までの距離は、約10㎞ほどである。長明は、徒歩で行き来が可能な場所に「ひとりの住まい」を構え、社会との距離をはかりながら、当時の出来事を観察し、『方丈記』を執筆していたことがわかる。/つまり、方丈庵には、都市における「ひとりの住まい」が抱えるモビリティ、多機能性、メディアを介した遠隔でのコミュニケーション、自分の姿を隠したまま周囲を見る快楽、といった諸要素の原形が宿っていたのである。(P080)
○「ひとり空間」は、インターネットや携帯電話などのメディアを介した「見えない仕切り」によって、物理空間と「情報空間」を横断しながら息づいているからである。……情報空間が物理空間と独立していることは、それが物理空間とは異なる秩序をもっているということである。……認識しておくべきことは、都市空間における経験は、物理空間と情報空間が重層化しながら形づくられているということである。(P068)
○従来は家、職場、余暇など別々の空間で行われていた、さまざまな活動の領域が重なり合い、カフェ、駅、空港、モール、広場などの「中間空間」を形成するようになった。……それゆえ、モバイル・メディアが物理的な都市空間に組み込まれることによって……他者との精神的な距離、ウチとソトとの境界意識、身体経験などを含めた、既存の空間の諸要素が再編成されている……。新たなメディアが台頭することによって、都市の「ひとり空間」は再編成されていくのである。(P189)
○「ひとり空間」は、他者との関係においてしか生じえない。そこでは、他者との「距離」をどのようにとるかが、つねに問題となる。……ひとりでいる状態を喪失するのでも、他者との関係を分断するのでもない、ゆるやかな仕切りの多様性をいかに担保できるかが、今後ますます問われることになろう。(P243)