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仙台から石巻まで、被災地を巡る。

まちづくり・あれこれ

 仙台駅を起点に1日、仙台市から東松島市、石巻市、女川町の被災地を回ってきた。 Dsc02638

 まずは仙台市宮城野区福田町仮設住宅へ。ここには伊東豊雄らによる帰心の会が被災地の仮設住宅に建設している「みんなの家」の第1号が建設されている。「みんなの家」は様々な支援により建設されているが、福田町仮設住宅は熊本県の支援により、「くまもとアートポリス東北支援『みんなの家』事業」として建設された。総事業費1000万円。熊本県産材を使用した木造平屋約39m2の小さな集会施設だ。設計は伊東豊雄始め4名の建築家。2011年5月に熊本県としての支援を決定。6月には住民の方の話を聞く会を開催し、8月初めに基本設計を完了。熊本県で仮組みをした後、9月に木材の出発式。9月13日に仙台の現地で起工式。10月26日に完成している。

 今回は、熊本県・仙台市の方々に間に入っていただき、「みんなの家」館長の平山さんにお会いして話を伺うことができた。仮設住宅の住人である平山さん自身がもちろん被災者。当日は奥さんと二人で車に乗って逃げたが、途中で津波に追い付かれ、奇跡的に地上に打ち上げられて九死に一生を得た。高齢になってからの将来が見えない不安の多い生活には精神的に辛いことも多いが、「みんなの家」が住人相互の心の支えとなっていると言う。

Dsc02634 福田町仮設住宅はプレハブ建築協会による一般的な建物で規格どおりの集会所も併設されている。みんなの家は集会所と廊下で接続する形で配置され、駐車場から仮設住宅棟に至る動線上に建設されている。室内は四畳半の畳敷きコーナーと対角に大きなテーブルを囲んで椅子やベンチが並ぶコーナーがあり、入口コーナーにはストーブ。対角に水回りがある。住宅棟に向かう通路に面して窓が大きく開き、各戸に帰る途中でいつでも寄ることができる。実際、知った顔を見かけてそのまま入り込み、家に電話をして奥さんを呼び、食材を持ち寄って酒盛りになることもあると笑う。

 壁には書棚にぎっしりマンガ本などが並び、神棚が設えられ、神札が貼られ、色紙や額が懸けられ、一升瓶が並べられている。流し横の壁にも神札が貼られている。またテーブルの上には大きな花瓶に美しく花が活けられ、この施設がみんなに愛され利用されていることがよくわかる。

 室内壁と天井には漆喰が塗られている。平山さんも元は左官職人で、この施設の有用性にいち早く気付き、一部には生活物資を望む声がある中、建設を後押ししてきた。通路沿いの軒には大きなフックが付けられ、クリスマスの前には大きなイルミネーションが飾られていたと言う。

Dsc02644 仙台市仮設住宅は一部でグループ申込も行ったが、利用する人は少なくほとんどは世帯毎の申込。しかし、地域毎に概ね近くの住宅を紹介したし、申込み時に誰がどこを申し込んだか、すぐに知れ渡ったから、同じ地区の人が同じ仮設住宅に入居しているケースが多い。福田町仮設住宅宮城野区岡田地区の被災者が多い。岡田地区は海岸沿いに南北に走る県道が海側に嵩上げして建設することが決まり、従前地区で住宅の再建が始まっていることから、少しずつ退去が始まっているとのこと。平山さんもこれからどうするか、市街地に住む息子さんと相談しているところだと言う。

 仮設住宅はこうして最終的には撤去され解消されていくわけだが、この「みんなの家」についてはせっかくだから移設して再利用したいという希望もあるようだ。まだ決まっていないが、困難を一緒に支えあった施設でもあり、ぜひみんなの心の拠り所、コミュニティの象徴としてうまく活用していってほしいと思う。

 30分ほども滞在して次へ向かう。まずは岡田地区を視察。確かに塀や樹木が一切なくなり荒涼とした土地の中にいくつもの新築住宅が建設されていた。被災からもうすぐ2年。土地さえあれば復旧はかなりのスピードで形を見せ始めている。 Dsc02660

 そのまま県道を横切り、若林区荒浜地区に入っていく。地上8m近くに設置された道路標識の下部がめくれあがって、そこまで津波が襲ったことを物語っている。荒浜小学校2階バルコニーの手すりが曲がっている。校庭に置かれていた自動車やバイクのがれきはかなり片付けられていた。集落跡地は一面の原っぱ。基礎だけが空しく残っている。復興の意思を伝える黄色く小さい旗が多数はためいていた。

 また、県道沿いの農地にはいくつもの土砂の山が並んでいる。塩を被った農地の再生事業だろうか。改良道路の測量旗もはためき、何台ものダンプが砂塵を舞い上げて走り過ぎる。

 続いて、松島方面に向かう。三陸自動車道を松島海岸ICで降りる。松島町は津波ではそれほど大きな被害はなかったと言うが、それでも災害公営住宅の建設が検討されている。石巻を結ぶ仙石線は松島海岸駅隣の高城駅から不通で代行バス運行となっている。仙石線に沿って東松島市に入る。東名駅から野蒜駅までの間は平野が広がるが、ここがすっかり津波に洗われた。残っている家屋を見ると津波高さは4m程か。1階は完全に破られている。それでもそんな中に早くも新築された住宅も見られる。山裾が新市街地になる計画だ。野蒜駅は架線柱が引き倒されたままだが、ホームは平穏な感じだ。道路に並行して流れる東名運河に架かる橋の欄干がうねうねと捻じれて倒れている。駅の隣のコンビニは復旧する気配もない。

Dsc02686 東松島市の仮設住宅グリーンタウンやもとには「こどものみんなの家」が建設された。こちらは伊東豊雄の呼び掛けによる大西麻貴の設計。グリーンタウンやもとは矢本工業団地内に建設された仮設住宅で約600世帯が生活している。駐車場に面して復興仮設店舗が建設され、市街地へのバスの待合所もある。大規模なひまわり集会場が団地の中心にあり、隣接してかわいい三角屋根とドーム屋根の小屋が3棟。これが「こどものみんなの家」。あいにく平日の午前中には子供たちは誰も遊んでいなかったが、ドーム屋根の下は厚い布地の幕が開閉され、ちょっとした舞台になりそうな雰囲気。これなら子供たちも楽しく遊べそうだ。集会場やみんなの家の前のアスファルトには草やヒヨコたちの絵がペイントされ、ほのぼのとした演出がされていた。

 仮設住宅から航空自衛隊松島基地に沿って東進。石巻港を中心とする工業地帯を走る。原野の中に散見される家屋は津波被害の跡が見えるが、工場の多くは既に操業を開始している。住宅地と違って産業施設は移転する必要もなく、復旧が早いのだろう。それにしてもこれだけの設備投資を強いられるのはかなり大変だったろう。石巻漁港の付近は広範にがれき置場だったが、それもかなり撤去されている。あと半年も経たず再利用ができるのではないだろうか。

 道は大きな入り江(万石浦)を右に見て峠を登っていく。震災時には女川町の側からこの峠を越えて津波が流れてきたと言う。女川町に入る。一面、何もない原っぱだ。港の手前にRC造3階建ての建物が横倒しになっている。震災後によく見た光景だ。その横を通り過ぎ、坂道の途中に作られた仮設料理店「岡清」で昼食をとる。海鮮丼改め女川丼を注文するが、これが旨い。何種類もの刺身にカニやエビ、白子などがてんこ盛りに盛られている。白子やカニの入った味噌汁も付く。これで1200円はバカ安。2500円と言われても不思議ではない量と内容だ。まだ周りには何もできていないが、こうして元気な姿を見るのはうれしい。

Dsc02719  岡清から何もなくなった市街地と港を挟んで向かい側に大きな病院が見える。女川町地域医療センターだ。被災前は町立病院だったが、公益社団法人地域医療振興協会の運営で蘇った。病院入口の柱には津波高さが記されている。海抜16mの高台に建てられていたが、さらに2m以上も高く津波が襲ってきた。壁の銘板には町立病院は平成9年電源立地促進対策交付金事業により建設されたと彫られている。その横にはスイス赤十字等への感謝の銘板が設置されていた。

 その駐車場から市街地を眺める。ここまで波が上がってきたのかと恐れる。眼下に横倒しのRC造。またその左にはべた基礎の裏側が露わな2階建てRC造。さらに杭が引き抜かれた跡も生々しい2階建て交番が転がっている。すごいの一言に尽きる。 Dsc02727

 そのまま北へ伸びる谷を上がっていく。丘の中腹に女川町役場があり、女川運動公園がある。陸上競技場の周りに仮囲いが建てられ、URによる災害公営住宅の建設が始まっていた。まだ、地業工事の段階だ。右に回り込むと野球場のRC塀が一部切り取られ仮設住宅が建設されている。坂茂設計によるコンテナを積み上げた3階建て仮設住宅だ。クリーム色の外壁に布張りの日除けがおしゃれ。住宅団地の中心にコンテナを四隅に置いてテントを張った広場があり、その横にコンテナと木造で造った集会所があり、紙パルプで作られた施設がある。その隣ではイオンの移動販売車が呼び込みの放送をしていた。各住戸は狭いのだろうが、外観からはこのまま恒久住宅にした方がいいのではないかと思える。

 女川町の復興計画を見ると、被災した市街地を広く災害危険区域に指定し、防災集団移転促進事業を実施することになっている。被災者のブログ「仮設暮らしと山歩き」を見たが、まだまだ大変そうだ。がれき置場になっていた市街地はだいぶがれきも片付きつつあり、漁港前の施設では再開の準備が進められていた。そのまま海沿いに北進。曲がりくねった道の下に小さな漁港が見え、道路脇に仮設住宅が作られている。こうした小さな漁村集落が続く地域が軒並み津波被害を受けたのだろう。また眼下の湾内にカキ養殖だろうか、筏が浮かんでいる。

 こうしてしばらく走ると、石巻市に入り、雄勝地区に入っていく。旧雄勝町は平成の大合併で石巻市に吸収合併されたが、地理的には原発のある女川町を中に挟み、石巻市の中心からは遠く離れた位置にある。京都府立大名誉教授の広原盛明氏がブログ「広原盛明のつれづれ日記」で石巻市の強引な高台移転計画を批判しており、地元の診療医によるブログ「石巻市雄勝町の復旧復興を考える」でもその状況が報告されていたことから個人的に関心を持っていた。しかし訪ねた現地は女川町と同様に、リアス式の入り江にあったと思われる港と市街地が津波で洗い流され、原っぱが広がるばかり。港の入口に特徴的な外観のRC造の建物が無残な姿をさらしていた。屋上にバスを乗せた姿が震災後に広く報道された雄勝公民館はどれなのかわからなかった。 Dsc02749

 続いて石巻市大川小学校へ向かう。児童・教職員84名が死亡・行方不明となり、悲劇として検証本まで発行された小学校は北上川の河口に面した平地の中にあった。玄関前には献花台が設けられ、私たちが滞在中にも弔問に訪れる姿が見られた。平屋一部2階建ての校舎はアントニン・レーモンドに師事した北澤興一氏設計の曲線を多用した美しいデザインで、それが悲しみをさらに増幅する。逃げれば助かったと言われる北上川堤防と反対側の山は登り口が整備されているわけでもなく、小学生には急峻で、一瞬の判断ミスとは言え、一概に責められるものではないように感じるが、一見の来訪者が判断すべきものではないだろう。

 その後、北上川を遡る。堤防改修工事が急ピッチで進められている。国道45号にたどり着いて左折。途中、道の駅「上品の郷」に寄る。木造格子組を前面に出したデザインで屋根は膜構造になっている。設計は関・空間設計の渡辺宏氏。

 しばし休憩の後、石巻市の市街地に入る。旧北上川の中瀬にある石ノ森萬画館は修復し既に再開を果たしている。川を隔てた向かい側には石巻まちなか復興マルシェがオープンしている。少し戻り、石巻街道を西に向かう。道路の両側にはサイボーグ009の像が元気な姿を見せている。この辺りは1階途中まで浸水した様子だが、そのまま休業した店舗と再建・再開した店舗が混在している。石巻市は郊外の新蛇田地区で区画整理事業による新市街地開発を進めているが、津波被害で衰退傾向に拍車がかかった感じの旧市街地がどうなるのか、大胆な都市政策の将来が心配だ。

Dsc02757 すっかり暗くなってきた。三陸自動車道を経由して仙台に戻る。わずか1日だけの駆け足の被災地視察で何がわかったというのもおこがましい。率直な感想としては次の2点。2年近く経って新築住宅や工場の操業再開も進み、かなり復旧が進んできているという印象。それと対照的に、災害危険区域に指定され防災集団移転促進事業等が進められている地区ではまだまだ宅地整備の途上で全くまちの姿が見えていない。住民合意に手間取っている地区ではなおさら将来が見えてこない。復興にはスピードと無理のない計画が重要。だが、被災直後では被災者も当面の生活に精一杯で、次世代に向けたまちづくりに参加する気力も時間もない。こうした中での一方的な復興計画が時によっては混乱を生み、却って復興を遅らせている可能性もある。

 被災前から復興都市計画を検討する動きがあるようだが、多くの場合、その手順を定めておくだけにとどまっているようだ。いっそのこと被災前に、災害に強いまちのあり方について構想する被災後都市計画を策定しておいたらどうか。ただし、被災しない限り発動しないことを条件とする。この条件の元で、理想的なまちの姿を描き合意しておく。そして被災したら余計な手続きもなく発動する仕組みは取れないだろうか。

 被災状況によってどこまで、どのエリアで発動させるのか議論が生まれるだろうか。問題点も多くあるだろうが、被災後の建築可能地区の特定時期が復興のスピードと可能性を決定的に左右することを痛感した。災害の多い国、災害の多い時代だからこそ、災害に向けた理想的な仕組みができればいいと思う。

●マイフォト 「宮城県の被災地を巡る」