西洋の都市と日本の都市 どこが違うのか

 昨年、「西洋都市社会史」を読んで、本書を読んでみたくなった。「西洋都市社会史」が、タイトルに似合わず、ヨーロッパ各国都市の訪問記だったのに対して、本書は「比較都市史入門」という副題がついているように、ハンザ都市を中心とする西洋都市史を教科書的に説明する本である。
 西洋都市がいかに造られていったかを地理的・歴史的・経済的要因から説明する「第1部 西洋中世都市」、ハンザ都市の特徴と発展・衰退の推移、市民自治などを説明する「第2部 中世ハンザ都市」、近代に向けて、ハンザ都市ハンブルグの変化やパリの都市改造を説明する「第3部 西洋近代都市への道筋」、そして日本都市の特徴と西洋との違い、さらには西洋都市との比較から日本都市の発展への提言を記す「第4部 日本都市」の4部から成る。
 正直、第4部は、西洋都市に対するリスペクトが強すぎて、それをそのまま日本と比較しても現実的な方策にはならないだろうなと思うことが多い。市民自治の上に都市への愛着と我慢が当たり前とされている西洋の都市意識は、そう簡単には日本に根付かない。第1部から第3部にかけて説明するように、西洋都市も時代の要請に応える中で発展し、または衰退し、現在の都市となっている。日本においても同様であり、西洋都市の意識を日本人に持てと言っても無理な話ではある。
 それでも、筆者の専門である第1部から第3部までの内容は興味深い。都市は必ず、歴史的・地理的・かつ経済的な背景の中で発展して今の形がある。そのことを地理学・経済学的視点からわかりやすく説明している。こうした文系的視点での都市史もまた興味深い。

西洋の都市と日本の都市 どこが違うのか:比較都市史入門

西洋の都市と日本の都市 どこが違うのか:比較都市史入門

○ハンザ都市のように市民自治をしっかり確立したような都市ばかりではない。……イギリスの都市ではドイツの都市ほどに市民は自治権の獲得に熱心ではなかった。おそらくは強力な国王権力の存在した島国では、国王によって安全が維持され、市民がことさら自由安全のために努力する必要がなかったのであろう。それに対し、小国分立状態で頼るべき強力な権力がなかったドイツでは都市は自らの力でそれを維持し、さらに都市同士が連携して商業の安全を確保しなければならず(P29)
○ハンザは、もともとは遠隔地において有利に商売を展開するための団体であった……ハンザ諸都市が同時に同盟を結ぶようなことはなかったし、ハンザには財源もなければ、ハンザ自体が軍隊をもっているわけでもなかった。要するに、遠隔地において商業利益を確保し、それを維持、拡大したいとする都市の集合体のようなものであり、それを実現、維持するのに必要な軍事力も各都市のものであった。(P35)
○後背地に恵まれず、遠隔地商業に都市の経済基盤を依存しているような都市の場合には……大商人層を頂点に……組織的経済体制への転換によって、都市経済の強化をはからざるをえなかった……。その結果、大商人層に富が集中し、中下層市民の経済力は低下し、市政への反発も強くなったと考えられる。/逆に……特産物生産やその輸出を活発に行うなど、なお経済的な活性状態を失っていない都市では、大商人層の経済力が増し、経済格差が広がっても、支配体制は緩やかであり、柔軟な市政運営が可能であった(P46)
○ヨーロッパの市民は、祖先が命がけで守ってきた自由安全な空間のなかで、便利さを享受できるかわりに、集合住宅での生活で我慢するという義務を果たすことで都市を維持してきた……。そこには、それぞれ個性を維持してきた都市に対する愛着や、故郷の都市を愛する心が必然的に育っていった……/これに対し、日本の都市はもともと強力な支配者の下で成長し、住民には都市を防衛する意識は少なかった。近代に入っても国家の組織に組み込まれており……都市自身に自治的な権利はきわめて限定的であった。都市が独自の発展を目指そうにもそうした力はなかったのである。(P102)
○ヨーロッパでは国でも都市でも伝統や独自性や個性が大切にされているように思われるが、日本では、近代的とか便利さとかと引き換えに、それぞれの都市が有する独特の魅力が少しずつ失われつつあるように思われてならない。個性が交代すると」市民はまちへの関心を弱め、まちの外部への発信力を弱める。便利なだけでは来街者の増加は難しいように思うのである。(P128)

地方都市の持続可能性

 本書の最終盤、第5章に突然「この先例として学ぶべきは東京の多摩ニュータウンや愛知の高蔵寺ニュータウンなどだろう」(P249)と書かれていてびっくりした。でもその後は多摩ニュータウンの高齢化や施設の老朽化を指摘するのみで、高蔵寺ニュータウンについては何も書かれていない。何を学ぶのか? たぶん反面教師として、ということだろう。
 改めてこれまで田村秀氏の本を読んだことがあったかどうか調べてみた。するとかつて「自治体崩壊」を読んでいたが、読書感想を読むと、可もなく不可もなくという感じ。本書も同様。第1章「データにみる東京ひとり価値」からずっと、人口データとランキングなどが延々と書かれている。第2章「だれが都市を殺すのか」では、平成の大合併批判と道州制首都機能移転について記す。首都機能移転については高評価だ。第3章「国策と地方都市」では、国の経済政策等により、地方都市がいかに翻弄されてきたかを多くの鉱業都市や軍事都市などの栄枯盛衰を描いて明らかにする。第4章「都市間競争の時代へ」は、さいたま市川崎市前橋市高崎市長野市松本市高松市松山市の事例を紹介している。これは面白い。惜しむらくは、長野パルセイロ松本山雅の競り合いを描いてないのが残念。
 そして最後の第5章「人口減少時代に生き残る都市の条件」だが、タイトルに比して、具体的な方策が書かれているわけではない。長野市善光寺門前のリノベーションまちづくりや豊後高田市の昭和の町による町おこしの事例が紹介されているくらい。結局、具体的に未来に向けて提案されているのは、東京の都市再生への批判と首都機能移転くらいか。では地方都市はどうすればいいか、と言えば、「地域の魅力の再発見という地味で時間のかかることに取り組むことが一番なのだ」(P232)と書かれている。
 うまく行っている事例を書いて、真似しろというのではなく、それぞれでがんばってね、というのは確かに誠実なのだと思う。特効薬などないことはわかりきっている。田村氏自身が東大都市工を卒業した後、自治省から香川県三重県などを回り、その後、新潟大学を経て、現在は長野県立大学で教鞭を執っている。こうした経験から語られる地方の実情は興味深いものがある。広島遷都なんて話は初めて聞いた。そうした話題を楽しむという考えで読めば、本書もそれなりに面白いかもしれない。

地方都市の持続可能性 (ちくま新書)

地方都市の持続可能性 (ちくま新書)

広島市に……日清戦争が起きた1894年には戦争遂行のために大本営が設置された。……これは一時的とはいえ、日本の首都が広島に移ったということを意味する。……さらに、1894年10月に召集された第7回臨時帝国議会は広島臨時仮議事堂で開会された。……国の立法・行政・軍事のそれぞれの最高機関が一時的とはいえ広島市に集まったことは広島市が臨時の首都の機能を担ったということである。まさに明治以降、唯一の遷都と称してもいいのだろう。(P158)
○人口減少を前提として、地域の実情に応じて、地域のもともとある資源を最大限活用して地域やそこに生活する人々を元気にする、そのような指標をそれぞれの地域なりに設定するのが……ベターなことではないか。……それぞれが、人口増という単純な指標ではなく、思い思いの目標を定め、それに向かって取り組む以外に地域の活性化は難しいのではないだろうか。(P222)
○若者が古い木造建築の建物を自分たちで改修して、小物店やレストラン、バーなどが次々とオープンしているところに善光寺門前のリノベーションまちづくりの特色として挙げられる。……長野市の場合、どちらかというと自然発生的なもので、この流れを支える二つの雑誌などの編集組織……が家主と若者などの起業家との間に入り、一種の触媒のような役割を果たし、門前の活性化に貢献しているのだ。(P233)
○都市再生特別地区は、個別にみると魅力的な「小都市」ではある。……だが、これだけの開発を一気にやって競合しないかと心配せずにはいられない。……その結果、個別のプロジェクトは良くても全体としては供給過剰となる、部分最適、全体非最適の状況に陥っているのではないだろうか。……過度の集積は様々なところでひずみを生む引き金にもなりかねない。結果として都市再生が国全体に悪影響を及ぼしかねないのだ。(P252)
東京オリンピックパラリンピックを花道に、東京から首都機能のかなりの部分を移転して、東京を災害に強い街に変えていく仕掛けが必要ではないだろうか。少なくとも経済官庁など経済機能のかなりの部分を移転しない限りは抜本的な解決にはならない。このことが東京ひとり勝ちの反作用を弱めるものとして大きなインパクトになるはずだ。……このままでは東京も地方も共倒れになってしまう。(P259)

建築で都市を創るということ 「ニュータウン」の意味

 先に、「若きプランナーが目指した高蔵寺ニュータウンの未来像」(http://ozakigumi.hateblo.jp/entry/2019/04/05/233638)と題して、「高蔵寺ニュータウン50周年記念事業 公開研究会」の様子を投稿したが、後段で若林先生が「『ニュータウン』という言葉は『人が一から創り上げた街』という意味であり、『高蔵寺ニュータウン』という名称はその意味でも固有名詞であり、大事にしてほしい」と言われたと記述した。このことの意味について考えていた。
 その前に、「津端先生が『自分が住建へ行けばよかった』と言った」と書いたが、当初、この言葉の意味は、「住建部門が本社からの要請を受けて、マスタープランでの計画以上に詰め込んで住宅を建設したこと。かつ、タワー型ではなく、かまぼこ型の中層住棟を詰め込んで配置したこと」に対する意見だと考えていた。意見交換会でも、住建部門で働いたと思われる公団OB氏から、「現状の課題に対応せざるを得なかった」という意見があった。
 だが、よくよく考えてみると、高蔵寺ニュータウンで計画したのは、「ワンセンター方式とペデストリアン・デッキ」であり、タワー状の住棟を囲んで、中層・低層の住宅を配置するという計画は、まだ道路形状がリング状だった時のもの。フォーク状に開いてからは、トゥールーズ・ラ・ミライユに倣って、センター地区からペデストリアン・デッキと一体化した板状の建物が枝状に連なっていく都市構造に変更されている。このペデストリアン・デッキと一体化した建物の建設は、住建部門で行われる予定だったから、上記の津端氏の言葉は、「自分が住建へ行って、ペデストリアン・デッキと一体となった建物の建設を担当すべきだった」という意味ではないか。そう考え、いったん投降した後で、この趣旨の言葉を付け加えた。
 それで、若林先生の言葉に戻ると、「ニュータウンは人が一からつくった都市」という意味は、「単に計画するだけでなく、最後までつくる」という意味ではないか。もし、津端氏がその後、住建部門に移って、ペデストリアン・デッキまで建設したとすれば、そこで初めて、計画から建設まで「ひとりの人」が作ったと言える。建築家「津端修一」としてはそれこそが本望だっただろう。しかし現実はそうはならなかった。計画はしたが、建設は別の担当者が、別の使命をもって建設をし、結果的に当初の計画は最後まで貫徹されることはなかった。それはもちろん時代の変化もあり、仕方ないことではあったが、当初の理念・理想をもってつくり続けていたらどんな都市になっていただろう。まさにそれこそ「ニュータウン」という言葉にふさわしい街になっていたのではないか。
 今、我々は「都市計画」を、「都市の計画を立案し、それを実現するために『規制』や『誘導』を行うこと」と考えている。だが、千里や高蔵寺などのニュータウン建設が精力的に進められた時代には、都市計画とは単に計画を作るだけではなく、都市全体をつくることまでを考えていた。しかし、建物の設計・建設が別の主体で実施される場合には、建築主の要求などもあり、都市計画で想定した形状や内容の施設が建設されないことも多い。その後、多くの地区開発などにおいて、マスター・アーキテクト方式が採用されたり、デザインコードなどが作成されるのは、建物の設計・建設が都市計画時のコンセプトに沿うようにするための仕組みである。そう言えば、ニュータウン案内の際に、若林先生から「デザインコードや地区計画のようなものはあるのですか?」と聞かれた。それはこういう意味だったのか。
 対談の冒頭で土肥先生が、「時代の変化に応じリニューアルされ、変わっていくことは仕方がないが、理念・理想は繰り返し追求されるべき」と言われた。高蔵寺ニュータウンの理念・理想は何だったのか? 今となっては「それはこれです」と言うことは難しい。だが、ニュータウンは「人が創り上げた都市」と定義した時、それこそが理念であり、理想ではないかと気が付いた。建築もまた人がつくり上げるもの。建築もニュータウンづくりの一つと思えば、「建築で都市をつくる」という意識が不可欠なはず。それはニュータウンだからこそ必要な建築の作法ではないだろうか