若きプランナーが目指した高蔵寺ニュータウンの未来像

 日本都市計画学会とUR都市機構の共催で、「高蔵寺ニュータウン50周年記念事業 公開研究会」が開催された。「高蔵寺ニュータウン草創期の話」で伺った筑波大名誉教授の土肥博至先生と、同時期に津端氏の元で高蔵寺ニュータウンの構想づくりに携わった元九州芸術工科大学教授の若林時郎先生をお迎えしての対談をメインに、前段に椙山女学園大学の今村准教授からニュータウン構想の計画プロセスの説明があり、休憩の後は参加者からの質問を募っての意見交換も行われた。大変有意義な会であり、終了後は多くの方から称賛の声をいただいた。私は企画・運営側の一員として、前日に開催した両先生をお迎えしての懇親会や、研究会開催前のニュータウンの見学案内、そして最後に土肥先生を高蔵寺駅へお送りするまで、濃密な時間を過ごさせていただいた。公開研究会の記録については日本都市計画学会が別途まとめられると思うが、記憶が残っているうちに当日、そして前後の状況をまとめておきたい。

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パネル展
 まず、今村先生による「高蔵寺ニュータウン計画 そのプロセスと特徴」の説明が当時の客観的な状況をよくまとめられている。ベースになっているのは鹿島出版会から発行されている「高蔵寺ニュータウン計画」と思われるが、1960.6の建設場所の選定開始から始まって、1961.6の6106案(ガイドプラン)、6111案(第1次マスタープラン)、6206案(修正1次マスタープラン)、6212案(第2次マスタープラン)と年代順に並べ、その特徴を説明された。その後、この第2次マスタープランを元に事業計画原案が作成され、1964年7月、建設省に事業計画書が提出されている。なお、この分類については、対談の中で土肥先生から、「これは『高蔵寺ニュータウン計画』を執筆する際に土田旭さんがわかりやすくまとめたもので、実際は切れ目なく日々計画は更新されている。作業グループで一緒だった御船さんは『6111案と6407案の2案』と言っていた」という話があった。
 今村先生のニュータウン計画史年表には、計画作成の流れとともに、関わった人々とその期間が記載されている。これによれば、住宅公団側は若林氏と御船氏が1960年8月に公団名古屋支所宅地課へ配属されて地区選定に携わり、津端氏が赴任したのが61年4月。土肥先生は高蔵寺開発事務所への異動が困難だった御船氏と入れ替わりに62年4月に赴任した。そして若林先生は64年9月、土肥先生は65年2月、ともに筑波学園都市の計画策定のため異動された。一方、東大高山研チームはマスタープラン作成の委託を受けた61年6月から、助手の川上秀光氏、院生だった土田旭氏、研究生の小林篤夫氏が担当。大村虔一氏は院生として翌62年4月から担当している。ちなみに高山英華先生は名前だけで、実質は川上先生が仕切っていたとのこと。
対談
 こうした説明の後、いよいよ対談が始まる。進行は三菱UFJリサーチ&コンサルティングの永柳さん。最初に久しぶりに訪れた高蔵寺ニュータウンの感想を聞く。若林先生から「実現したニュータウンについてあまりいい話は聞いていなかったので、高蔵寺を離れて以来、これまで一度も訪れることはなかった。」と意外な言葉から始まって、開口一番「ペデストリアン・デッキはなかった」と言われた。それでも民有地の緑は多く「普通のニュータウンよりもかなりニュータウンらしい街になっている。特に高森山と周辺の山並みが美しかった」と感想を述べられた。一方、土肥先生は学生を率いてこれまで4・5回は来られているそうで、「他のニュータウンに比べればかなりマシ」と言われた。「ただ、かつてのサンマルシェの本館にあった広場がなくなってしまったことは残念だ」と言い、「時代の変化に応じリニューアルされ、変わっていくことは仕方がないが、理念・理想は繰り返し追求されるべき」と冒頭から警句を口にされた。
 続いて、ニュータウンの地区選定について、若林先生に当時の状況をお聞きした。まず言われたのが「最初から高蔵寺で開発するということは決まっていた」ということ。当時、公団名古屋支所は事業部長に青樹さんがいて、この方が名古屋地区でのニュータウン開発の必要性を本社に認めさせ、宅地課長の柘植さんがその下で検討を進めていた。若林先生と御船さんの仕事は地区選定調書を作成し、他地区と比較して、高蔵寺地区が最も適地であることを説明することだった。理由は4点。①800ha近い規模を確保できること、②名古屋からの距離が適切であること、③区画整理方式を採用することについては柘植課長が既に決めていたが、国・県有地が多く、用地取得と事業実施が容易なこと、そして④愛知用水があり水確保が容易なこと。この4点を挙げられた。また、土肥先生からは「イギリスの職住近接型のニュータウン像があり、愛知県地方計画で工場誘致を図る小牧市と住宅機能の春日井市という広域連携が構想されていたことから現在の計画地に決定した」と付け加われた。
 続いて、6106案(ガイドプラン)に至る初期の構想について若林先生から当時の様子が語られた。「1961年4月、津端さんが来名されると、まずは空から計画地を見てみようと言い出した。だが公団からの許可は下りず、それでもどういうツテか、小牧空港から御船氏とともに3人でセスナに乗って、上空から現地を確認し、写真を撮った。その後、一人8000円も徴収され、当時の給与が2・3万円だったことを思えばかなりの高額で、公団の許可が出ないことも仕方ないと思った」とのこと。「千里ニュータウンも見学したが、津端さんはほとんど興味を示さなかった」と言う。
 ガイドプランはほとんど津端氏が描いたが、3つの住区のうちの奥の住区はワンセンターを中心とする複合区域で、区域上部には「NIT」と書かれている。これは「NAGOYA Institute Technology」の略で、MIT(マサチューセッツ工科大学)に擬して、当初から工科系の研究機関を想定していた。土肥先生からは「当時、正統的なニュータウン研究者はイギリスのハーロウ・ニュータウンを視察し、近隣住区と段階構成のニュータウンを構想していた。しかし津端さんはそれを否定し、ワンセンターと反近隣住区を唱えられた。当時、世界的にも近隣住区型のニュータウンに対する批判が出始めており、ワンセンター方式を採用したイギリスのカンバーノールド・ニュータウンやフランスのトゥールーズ・ル・ミライユが注目を集めていた。」という話があった。
 話題は続いて、3つの住区にリング状に道路を囲む第1次・及び修正1次マスタープランから道路をフォーク状に開く第2次マスタープランへと移っていく。「地形を生かして中央に塔上の高層住棟を置き、周辺にタウンハウスを置いて、さらにその外側は低層住宅にするというのも津端さんのアイデア。特に道路形状の変更については津端さんも、交通量処理など実務的な理由は理解しつつも、都市デザインとしてはかなり苦悩され、10日程も家に籠って出社しない日が続いた。その結果が3つの住区をペデストリアン・デッキがつなぎ、デッキと一体となって高層・中層の住宅や施設群が並ぶという第2次マスタープランのデザイン。これにはトゥールーズ・ル・ミライユの計画が大きく参考になっている」。
 津端修一さんとはどんな人だったか。土肥先生は「若く理想に燃えていたが、気難しい人」と言われた。言葉数は少なく、若林先生も「土肥先生が来るまではかなり苦労した」と語っていた。津端さんは「人生フルーツ」でも紹介されたとおり、海軍出身でヨットマン。津端さんはヨットにおけるコックスであり、コックスの号令一下、チーム全員がその指示に従うというような仕事振りだった。また、土肥先生は「都市デザインを目指した日本最初のアーバンデザイナー」と評された。津端氏はフランク・ロイド・ライトの流れをくむレーモンド事務所を出た「建築家」であり、若林先生によれば「立体的空間づくりを徹底的に教えられた」と言う。これは前日の懇親会の時に話されたことだが、当時のニュータウン計画は、もっぱら企画・事業面で力を発揮した川手昭二氏を中心とする「川手スクール」と都市デザインを追求した「津端スクール」があったと言えるかもしれない。千里ニュータウン京都大学西山研の片寄さんが設計したと言われるが、「実際は当時建設省から出向した前田ユウさんが計画したのだ」という話も興味深い。
 最後に、その後の計画変更について、「高蔵寺ではみんな未来志向で仕事をしていたが、公団本社は現実の課題対応で動かざるを得ない。高蔵寺について言えば、宅地造成までは宅地課で仕事をしたが、住宅建設は住建部門で行っており、思うようにならないことが多かった」。これも懇親会での話だが「津端氏や土肥先生、若林先生はみな建築職だが、土木職主体の宅地課の中でも建築職ならではの発想が期待された面があった。しかし住建部門に対してはそうはいかず、晩年、津端氏は『自分が住建へ行けばよかった』と言っていた」そうだ。土木職が中心の公団の宅地部門は道路や緑道などのインフラ整備までで、建物と一体となったペデストリアン・デッキは住建部門で整備することになっていた。それが上の言葉の意味だと思う。
 しばしの休憩の後、意見交換会に移った。あいにく積極的に多くの手が上がるという状況にはならず、進行役の方から直接、高蔵寺ニュータウン内にお住いの岐阜大名誉教授・竹内伝史先生に指名がされた。さすがに竹内先生も突然の指名で戸惑ったようではあったが、「高蔵寺ニュータウンの高齢化が進行する中で、坂道が問題になることも多いが、構想時点で住民の高齢化はどのように考えていたのか」と質問された。これに対して、若林先生からは「当時は20~30年を視野に成長が続くことを前提に計画しており、入居者の高齢化は想定していなかった」と正直なお答え。また「地形こそ高蔵寺の個性」と言われた。土肥先生からは「状況の変化にアジャストしていくことが『まちづくり』ではないか」と意見を述べられた。
 続いて質問をされたのは、住建部門で長く仕事をされてきたという住宅公団OBのKさん。Kさんからは「住建部門としては、当時の住宅事情などからある程度詰め込んで住宅建設をせざるを得ない状況もあった」という話をされたが、土肥先生からはKさんの挙げた数字を訂正した上で、「宅地部門は将来を見越して骨格を作るが、住建部門は現状の課題に対応せざるを得ないという状況は理解する。しかし、住宅建設にある程度の期間を要することも見込んで、初期の住宅建設は各地区で分散して始めるように提案したが、聞き入れられなかったことも事実」とピシャと批判。85歳を超えたなお、その記憶力と舌鋒の鋭さに驚いた。
 最後に、今日の参加者に向けて両先生からの言葉を求められ、土肥先生からは「今回パネル展示した資料が東大高山研に残っていたことは喜びたいが、残りの9割近い資料は失われており、それが残念である。当時はその時にできる最善・最適な判断をしたと思っている。若い人にもそれぞれの信念や思い入れを大事に、理想をもってそれぞれの仕事(まちづくりや都市計画)に取り組んでほしい」との言葉。そして若林先生からは「午前中、見学した際に『高蔵寺ニュータウン』という看板を発見した。『ニュータウンのオールドタウン化』ということが言われるが、『ニュータウン』という言葉は『人が一から創り上げた街』という意味であり、『高蔵寺ニュータウン』という名称はその意味でも固有名詞であり、大事にしてほしい」と言われた。
 この公開研究会を通じて、お二人の個性の違いと、それがうまく調和して、津端先生ともどもニュータウンの構想づくりに取り組まれたことが今に至っていると痛感した。お二人あってこその高蔵寺ニュータウンである。しかも最後に「『高蔵寺ニュータウン』という名称を大事に」という若林先生の熱いお言葉。ニュータウンに住む者としてその気持ちをしっかりと受け継いでいきたいと心に焼き付けた。
 以上、両先生の言葉は私の記憶の中で再現しているので多少間違っている点、勝手に補足してしまった点もあるかもしれない。それは都市計画学会で公式にまとめられるであろう報告を待ってほしい。それにしても楽しい時間を過ごさせていただいた。お二人の温かい人柄には大いに励まされた。一つだけ心残りなのは、懇親会の席で若林先生が「津端先生が名古屋へ行こうと言った本当の理由は・・・」と言いかけたところで別の話題になり、続きを聞けなかったこと。きっと答えは「ヨットを思う存分やりたかったから」ではないだろうか。まさに若き都市プランナーたちが構想した街「高蔵寺ニュータウン」。僕らはこの都市計画遺産をどのように次世代に繋いでいったらいいのだろう。それについては今後、この研究会に対する関係者の反応なども見ながら、ゆっくり考えていきたいと思っている。

ベルリン・都市・未来☆

 「アーティストやハッカー、DJ、ネオ・ヒッピーたちは、いかにベルリンの再生とソーシャル・イノベーションを引き起こしたのか? 近年、スタートアップ都市として注目を集めるベルリンを、「創発」という観点から描く。」
 図書館の内容説明に、上記のように書かれていた。ベルリンって、今、そんなに注目を集めているのか? そもそもスタートアップ都市って何? 創発とは? でも何か面白そう。一昔前のソーホーみたいな感じか? 興味を持って読み始めた。
 いくつかのメディアに掲載された文章を集めた感じの本書は、必ずしもわかりやく現在のベルリンの状況を伝えてくれるわけではない。そもそも筆者の武邑光裕氏が何を専門とする人かわからない。「メディア美学者」と肩書がついているが、きっとその分野では有名な人なのだろう。現在、ベルリン在住だ。
 加えて、この分野独特なのか、それとも単に私が知らないだけなのか、理解できないカタカナ言葉が氾濫し、よく実態がわからない。まず「スタートアップ」とは何なのか? 本書によれば「会社を起業しただけでなく、すでにベンチャーキャピタルなどからの投資を確保し、飛躍的な成長が期待される新興企業を表現する言葉」(P183)と説明されている。
 本書によれば、ベルリンは東西の壁が破壊されて以降、当初は政府による「メディアシュプレー」計画により、世界のグローバル企業を誘致する都市再開発が企図されたが、市民運動などで頓挫すると、旧東ベルリンに残された廃墟などをアーティストなどが無断占拠し、また放棄された巨大な倉庫がテクノ(ダンスミュージック)のクラブとして利用される中で、ネオ・ヒッピーと呼ばれる起業家らのギグ・エコノミーによるベルリン発の新しい経済と産業が生まれてきている。ちなみにギグ・エコノミーとは「インターネットを通じて単発の仕事を受注する働き方により成り立つ経済形態」であり、彼らの「創発」や「共創」を促すコワーキングスペースがベルリンには多く存在し、中でも「ホルツマルクト」は象徴的場所となっている。
 2章「現在のヒッピー資本主義」では贈与経済が語られ、3章「ソーシャル・イノベーションのレシピ」では、フィンテック革命(ICTを利用した金融サービス)やシェアリング経済、ビーガン(絶対菜食主義者)などがベルリンでいかに花開きスタートしたかが紹介されている。また6章「クラブカルチャーと地下の経済」ではテクノの聖堂「ベルクハイン」を中心にシーン・エコノミーが語られ、7章「ベルリンからみる『都市』の未来」では、IoTの進化に伴う所有経済の終焉が暗示される。
 ということで、今ベルリンはトンデモないことになっているようだが、実際どんななのだろうか。もちろんあまりに最先端過ぎる話ではあるが、グローバル企業誘致を中心とした再開発が頓挫した後の都市活性化の事例としては興味深い。筆者はメディア美学者(?)としてこうした状況を経済的な視点から評価しているが、都市計画的にはどう考えたらいいのだろうか。ネット社会が進む中で、都市構造も大きな修正が迫られているように感じるが、未来の都市、未来の都市計画はどうなっていくのか。
 ちなみに出版社である太田出版の書籍説明には以下のように紹介されている。
 「シリコンバレーの時代は終わった―。 新たな都市のスタンダードは、すべてベルリンから生まれる!」

ベルリン・都市・未来

ベルリン・都市・未来

○ベルリンを復興させたのは20世紀末の「天使」だった。1990年以降、アーティストやハッカー、DJ、そして起業家という名の「天使」たちが次々にこの地に舞い降り、東西ベルリンはともに復興を目指すことになる。この時、ベルリンという都市の前例のないスタートアップが始まった。(P28)
○現代のソーシャル・イノベーションは、商業市場を活用して、カウンターカルチャーのマージンから主流文化へと移行する。ごく限られたコミュニティが生産し消費する経済は、ギフトエコノミーやシェア経済の市場が拡大するにつれ、場合によっては投資家の助けを借りて、ニッチなスタートアップを形成することができる。……最終的な段階では、物流やマーケティングが動員され、大企業がそのモデルを採用すると、一度はサブカルチャーの限界に留まっていたアイデアが主流の経済に変化するのだ。(P132)
○壁に分断された28年は、欧州で最も停滞した都市ベルリンを図らずも作り上げた。……新興企業にとって、インターネット後のデジタル経済活動の障壁となる既存の産業構造がないことが、ベルリンを21世紀型のデジタル駆動経済へと一気に変貌させた。(P185)
○1990年代、他の先進都市に比べ30年は遅延していたベルリンは、壁崩壊後、ドイツの首都にふさわしい都市再開発を急いだ。しかし、ドイツ政府の思惑を内省し、ジェントリフィケーションに対抗する市民運動などが絡み合い、ベルリンはどこにもない都市へと「進化」してきた。ネオ・ヒッピーと呼ばれる起業家が創出する楽園的エコシステム「ホルツマルクト」や、テクノ聖堂「ベルクハイン」をシーン経済の頂点に昇華させたクラブ経営者……世界中のハッカーたちが一度は訪れる「C-Base」の役割なども、ベルリンにしかない独自のエコシステムであり、これら多彩なエコシステムからもベルリンのスタートアップは生み出されている。(P196)

可児市周辺の大規模商業施設を見て

 岐阜県可児市の「ピアゴ可児店」が「ドン・キホーテUNY可児店」に変わったというので、可児市在住の方の案内で見学をしてきた。場所は可児市役所の隣。ピアゴ可児店は1981年にユニー可児店として開店したが、2010年に一旦閉店。その後、2012年に建物もS造平屋建てに建て替えられ、ピアゴ可児店としてオープンしていたが、ユニー(株)のファミリーマートとの経営統合、さらに、ドン・キホーテへの売却・子会社化に伴って、2017年1月に閉店し、2月21日、「ドン・キホーテUNY可児店」として再オープンした。
 これまで、ドン・キホーテの名古屋栄店とMEGAドン・キホーテUNY東海通店は行ったことがあるが、この規模のドン・キホーテUNY統合店は初めて見る。周辺に競合する食品スーパーも多いということで、ドン・キホーテ色の強い店舗だろうという予想はしていたが、想定どおり、他のドン・キホーテと同様、入口から迷路のような店舗構成が続き、食料品は最奥部に少し。だが、生鮮食料品はなく、弁当や総菜、牛乳などの飲料水、そして菓子類などが並んでいる。スーパーマーケットとしてここで買い物が完結することはなく、他の買い物のついでに購入する、または牛乳などの特定の商品を購入するついでに、他の雑貨類などを購入してもらうという感じ。最近、食料品も扱って売上を伸ばしているドラッグストアや業務スーパーなどの大規模版、またはコストコの小規模版といったところだ。
 私が行ったのは平日の午後だが、開店して間もないということでそれなりに客はいたが、殺到というほどではない。可児市周辺にドン・キホーテはないので、当面はドン・キホーテ・ファンの来店が期待できるかもしれない。しかし、この可児店から距離にして4.2km。クルマでわずか10分弱の距離にある「アピタ美濃加茂店」も今年の10月下旬にはドン・キホーテとの統合店(ダブルネーム店)に転換する方針が公表されている。こちらはたぶん食料品も充実したMEGAドン・キホーテ店にするのだろうが、食料品以外の部分の競合が気になる。どんな店舗にするのだろうか。
 さらに、ドン・キホーテUNY可児店からわずか1.5km、クルマで5分ほどの位置には「ラスパ御嵩」がある。こちらは上述の各店舗よりもさらに大規模なショッピングモールで、アピタ御嵩店を核店舗に68の専門店が入店している。L字型の2階建ての店舗には2ヶ所に吹抜けが設けられ、回遊式となって快適な環境を提供しているが、いかんせん客は少ない。空き店舗も目立つほどではないが、いくつか散見された。
 可児市の人口は10万人強で近年はほぼ増減なく推移している。一方、美濃加茂市は約5万7千人で微増。さらに御嵩町は約1万8千人弱でこちらは減少傾向。これら3市町を合わせると約17万5千人の人口規模になる。ラスパ御嵩が面する道路は国道21号の可児御嵩バイパスだが、東海環状道路の可児御嵩ICに至る間にはカインズ可児店も出店しており、その南にはスーパーセンター・オークワ可児御嶽店がある。オークワは和歌山本社のチェーンストアだが、近年、スーパーセンター・オークワの名称でワンフロア大規模店を多く出店しており、可児市には西部の県道122号沿いに可児坂戸店もある。案内者によるとこの県道122号は最近特に大規模店舗の出店が相次いでいると言う。確かに、スーパーセンター・オークワ可児坂戸店の他に、ヨシズヤが入るパティオ可児から始まり、ホームセンター・バロー可児坂戸店やゲンキー、ダイソーなども大規模な店舗を構えている。
 ちなみに、どの店舗も平屋で駐車場が広い。また、周辺には空き地も多く、同行者が思わず「空が広い!」とつぶやいた。ちなみに可児市の都市計画は、中心市街地には用途地域が定められているが、市街化区域・調整区域のいわゆる線引きはされておらず、県道122号沿いは無指定区域となっている。ラスパ御嵩のある可児御嵩バイパス沿いもほとんどは無指定区域だ。こうした地域を狙って、大型商業施設が多く立地している。
 これら地域の土地所有者の多くは、従前、農業を営んでいたのだろう。だが、都市化が進行する中で、後継ぎ問題もあって農地を手放したり、借地にして日銭を稼ぐことを考えたとしても不思議ではない。だが、これほどにも多くの大規模商業施設が集中的に立地しているのを見ると、将来的に存続するのはどの店舗だろうかと考えてしまう。今後もさらに時代のニーズに合った商業店舗がオープンし、一方で多くの既存店舗が閉店をしていくのだろう。そうして市場淘汰が進められる過程で、地代は下がり、借り手のいない土地が取り残され、散在するようになる。こうした状況を土地所有者はどこまで想像しているだろうか。
 出店するテナントやディベロッパーはいい。彼らはダメなら閉店して、次の街に移っていくだけだ。だが、どこにも行けず取り残されるのは、地元の土地所有者だ。一時のブームでその時に好調な商業者に土地を任せることには慎重でなければならない。将来にわたって長い期間、その土地・その地域で共に事業活動を展開してくれる事業者でありテナントであること。土地活用にあたってはそうした考えが重要ではないだろうか。そして将来的にはこうしてバイパス沿いなどに打ち捨てられた商業施設空き地をいかに管理していくかが、市町村にとっても課題の一つになっていくのではないか。