地方都市の持続可能性

 本書の最終盤、第5章に突然「この先例として学ぶべきは東京の多摩ニュータウンや愛知の高蔵寺ニュータウンなどだろう」(P249)と書かれていてびっくりした。でもその後は多摩ニュータウンの高齢化や施設の老朽化を指摘するのみで、高蔵寺ニュータウンについては何も書かれていない。何を学ぶのか? たぶん反面教師として、ということだろう。
 改めてこれまで田村秀氏の本を読んだことがあったかどうか調べてみた。するとかつて「自治体崩壊」を読んでいたが、読書感想を読むと、可もなく不可もなくという感じ。本書も同様。第1章「データにみる東京ひとり価値」からずっと、人口データとランキングなどが延々と書かれている。第2章「だれが都市を殺すのか」では、平成の大合併批判と道州制首都機能移転について記す。首都機能移転については高評価だ。第3章「国策と地方都市」では、国の経済政策等により、地方都市がいかに翻弄されてきたかを多くの鉱業都市や軍事都市などの栄枯盛衰を描いて明らかにする。第4章「都市間競争の時代へ」は、さいたま市川崎市前橋市高崎市長野市松本市高松市松山市の事例を紹介している。これは面白い。惜しむらくは、長野パルセイロ松本山雅の競り合いを描いてないのが残念。
 そして最後の第5章「人口減少時代に生き残る都市の条件」だが、タイトルに比して、具体的な方策が書かれているわけではない。長野市善光寺門前のリノベーションまちづくりや豊後高田市の昭和の町による町おこしの事例が紹介されているくらい。結局、具体的に未来に向けて提案されているのは、東京の都市再生への批判と首都機能移転くらいか。では地方都市はどうすればいいか、と言えば、「地域の魅力の再発見という地味で時間のかかることに取り組むことが一番なのだ」(P232)と書かれている。
 うまく行っている事例を書いて、真似しろというのではなく、それぞれでがんばってね、というのは確かに誠実なのだと思う。特効薬などないことはわかりきっている。田村氏自身が東大都市工を卒業した後、自治省から香川県三重県などを回り、その後、新潟大学を経て、現在は長野県立大学で教鞭を執っている。こうした経験から語られる地方の実情は興味深いものがある。広島遷都なんて話は初めて聞いた。そうした話題を楽しむという考えで読めば、本書もそれなりに面白いかもしれない。

地方都市の持続可能性 (ちくま新書)

地方都市の持続可能性 (ちくま新書)

広島市に……日清戦争が起きた1894年には戦争遂行のために大本営が設置された。……これは一時的とはいえ、日本の首都が広島に移ったということを意味する。……さらに、1894年10月に召集された第7回臨時帝国議会は広島臨時仮議事堂で開会された。……国の立法・行政・軍事のそれぞれの最高機関が一時的とはいえ広島市に集まったことは広島市が臨時の首都の機能を担ったということである。まさに明治以降、唯一の遷都と称してもいいのだろう。(P158)
○人口減少を前提として、地域の実情に応じて、地域のもともとある資源を最大限活用して地域やそこに生活する人々を元気にする、そのような指標をそれぞれの地域なりに設定するのが……ベターなことではないか。……それぞれが、人口増という単純な指標ではなく、思い思いの目標を定め、それに向かって取り組む以外に地域の活性化は難しいのではないだろうか。(P222)
○若者が古い木造建築の建物を自分たちで改修して、小物店やレストラン、バーなどが次々とオープンしているところに善光寺門前のリノベーションまちづくりの特色として挙げられる。……長野市の場合、どちらかというと自然発生的なもので、この流れを支える二つの雑誌などの編集組織……が家主と若者などの起業家との間に入り、一種の触媒のような役割を果たし、門前の活性化に貢献しているのだ。(P233)
○都市再生特別地区は、個別にみると魅力的な「小都市」ではある。……だが、これだけの開発を一気にやって競合しないかと心配せずにはいられない。……その結果、個別のプロジェクトは良くても全体としては供給過剰となる、部分最適、全体非最適の状況に陥っているのではないだろうか。……過度の集積は様々なところでひずみを生む引き金にもなりかねない。結果として都市再生が国全体に悪影響を及ぼしかねないのだ。(P252)
東京オリンピックパラリンピックを花道に、東京から首都機能のかなりの部分を移転して、東京を災害に強い街に変えていく仕掛けが必要ではないだろうか。少なくとも経済官庁など経済機能のかなりの部分を移転しない限りは抜本的な解決にはならない。このことが東京ひとり勝ちの反作用を弱めるものとして大きなインパクトになるはずだ。……このままでは東京も地方も共倒れになってしまう。(P259)

建築で都市を創るということ 「ニュータウン」の意味

 先に、「若きプランナーが目指した高蔵寺ニュータウンの未来像」(http://ozakigumi.hateblo.jp/entry/2019/04/05/233638)と題して、「高蔵寺ニュータウン50周年記念事業 公開研究会」の様子を投稿したが、後段で若林先生が「『ニュータウン』という言葉は『人が一から創り上げた街』という意味であり、『高蔵寺ニュータウン』という名称はその意味でも固有名詞であり、大事にしてほしい」と言われたと記述した。このことの意味について考えていた。
 その前に、「津端先生が『自分が住建へ行けばよかった』と言った」と書いたが、当初、この言葉の意味は、「住建部門が本社からの要請を受けて、マスタープランでの計画以上に詰め込んで住宅を建設したこと。かつ、タワー型ではなく、かまぼこ型の中層住棟を詰め込んで配置したこと」に対する意見だと考えていた。意見交換会でも、住建部門で働いたと思われる公団OB氏から、「現状の課題に対応せざるを得なかった」という意見があった。
 だが、よくよく考えてみると、高蔵寺ニュータウンで計画したのは、「ワンセンター方式とペデストリアン・デッキ」であり、タワー状の住棟を囲んで、中層・低層の住宅を配置するという計画は、まだ道路形状がリング状だった時のもの。フォーク状に開いてからは、トゥールーズ・ラ・ミライユに倣って、センター地区からペデストリアン・デッキと一体化した板状の建物が枝状に連なっていく都市構造に変更されている。このペデストリアン・デッキと一体化した建物の建設は、住建部門で行われる予定だったから、上記の津端氏の言葉は、「自分が住建へ行って、ペデストリアン・デッキと一体となった建物の建設を担当すべきだった」という意味ではないか。そう考え、いったん投降した後で、この趣旨の言葉を付け加えた。
 それで、若林先生の言葉に戻ると、「ニュータウンは人が一からつくった都市」という意味は、「単に計画するだけでなく、最後までつくる」という意味ではないか。もし、津端氏がその後、住建部門に移って、ペデストリアン・デッキまで建設したとすれば、そこで初めて、計画から建設まで「ひとりの人」が作ったと言える。建築家「津端修一」としてはそれこそが本望だっただろう。しかし現実はそうはならなかった。計画はしたが、建設は別の担当者が、別の使命をもって建設をし、結果的に当初の計画は最後まで貫徹されることはなかった。それはもちろん時代の変化もあり、仕方ないことではあったが、当初の理念・理想をもってつくり続けていたらどんな都市になっていただろう。まさにそれこそ「ニュータウン」という言葉にふさわしい街になっていたのではないか。
 今、我々は「都市計画」を、「都市の計画を立案し、それを実現するために『規制』や『誘導』を行うこと」と考えている。だが、千里や高蔵寺などのニュータウン建設が精力的に進められた時代には、都市計画とは単に計画を作るだけではなく、都市全体をつくることまでを考えていた。しかし、建物の設計・建設が別の主体で実施される場合には、建築主の要求などもあり、都市計画で想定した形状や内容の施設が建設されないことも多い。その後、多くの地区開発などにおいて、マスター・アーキテクト方式が採用されたり、デザインコードなどが作成されるのは、建物の設計・建設が都市計画時のコンセプトに沿うようにするための仕組みである。そう言えば、ニュータウン案内の際に、若林先生から「デザインコードや地区計画のようなものはあるのですか?」と聞かれた。それはこういう意味だったのか。
 対談の冒頭で土肥先生が、「時代の変化に応じリニューアルされ、変わっていくことは仕方がないが、理念・理想は繰り返し追求されるべき」と言われた。高蔵寺ニュータウンの理念・理想は何だったのか? 今となっては「それはこれです」と言うことは難しい。だが、ニュータウンは「人が創り上げた都市」と定義した時、それこそが理念であり、理想ではないかと気が付いた。建築もまた人がつくり上げるもの。建築もニュータウンづくりの一つと思えば、「建築で都市をつくる」という意識が不可欠なはず。それはニュータウンだからこそ必要な建築の作法ではないだろうか

若きプランナーが目指した高蔵寺ニュータウンの未来像

 日本都市計画学会とUR都市機構の共催で、「高蔵寺ニュータウン50周年記念事業 公開研究会」が開催された。「高蔵寺ニュータウン草創期の話」で伺った筑波大名誉教授の土肥博至先生と、同時期に津端氏の元で高蔵寺ニュータウンの構想づくりに携わった元九州芸術工科大学教授の若林時郎先生をお迎えしての対談をメインに、前段に椙山女学園大学の今村准教授からニュータウン構想の計画プロセスの説明があり、休憩の後は参加者からの質問を募っての意見交換も行われた。大変有意義な会であり、終了後は多くの方から称賛の声をいただいた。私は企画・運営側の一員として、前日に開催した両先生をお迎えしての懇親会や、研究会開催前のニュータウンの見学案内、そして最後に土肥先生を高蔵寺駅へお送りするまで、濃密な時間を過ごさせていただいた。公開研究会の記録については日本都市計画学会が別途まとめられると思うが、記憶が残っているうちに当日、そして前後の状況をまとめておきたい。

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パネル展
 まず、今村先生による「高蔵寺ニュータウン計画 そのプロセスと特徴」の説明が当時の客観的な状況をよくまとめられている。ベースになっているのは鹿島出版会から発行されている「高蔵寺ニュータウン計画」と思われるが、1960.6の建設場所の選定開始から始まって、1961.6の6106案(ガイドプラン)、6111案(第1次マスタープラン)、6206案(修正1次マスタープラン)、6212案(第2次マスタープラン)と年代順に並べ、その特徴を説明された。その後、この第2次マスタープランを元に事業計画原案が作成され、1964年7月、建設省に事業計画書が提出されている。なお、この分類については、対談の中で土肥先生から、「これは『高蔵寺ニュータウン計画』を執筆する際に土田旭さんがわかりやすくまとめたもので、実際は切れ目なく日々計画は更新されている。作業グループで一緒だった御船さんは『6111案と6407案の2案』と言っていた」という話があった。
 今村先生のニュータウン計画史年表には、計画作成の流れとともに、関わった人々とその期間が記載されている。これによれば、住宅公団側は若林氏と御船氏が1960年8月に公団名古屋支所宅地課へ配属されて地区選定に携わり、津端氏が赴任したのが61年4月。土肥先生は高蔵寺開発事務所への異動が困難だった御船氏と入れ替わりに62年4月に赴任した。そして若林先生は64年9月、土肥先生は65年2月、ともに筑波学園都市の計画策定のため異動された。一方、東大高山研チームはマスタープラン作成の委託を受けた61年6月から、助手の川上秀光氏、院生だった土田旭氏、研究生の小林篤夫氏が担当。大村虔一氏は院生として翌62年4月から担当している。ちなみに高山英華先生は名前だけで、実質は川上先生が仕切っていたとのこと。
対談
 こうした説明の後、いよいよ対談が始まる。進行は三菱UFJリサーチ&コンサルティングの永柳さん。最初に久しぶりに訪れた高蔵寺ニュータウンの感想を聞く。若林先生から「実現したニュータウンについてあまりいい話は聞いていなかったので、高蔵寺を離れて以来、これまで一度も訪れることはなかった。」と意外な言葉から始まって、開口一番「ペデストリアン・デッキはなかった」と言われた。それでも民有地の緑は多く「普通のニュータウンよりもかなりニュータウンらしい街になっている。特に高森山と周辺の山並みが美しかった」と感想を述べられた。一方、土肥先生は学生を率いてこれまで4・5回は来られているそうで、「他のニュータウンに比べればかなりマシ」と言われた。「ただ、かつてのサンマルシェの本館にあった広場がなくなってしまったことは残念だ」と言い、「時代の変化に応じリニューアルされ、変わっていくことは仕方がないが、理念・理想は繰り返し追求されるべき」と冒頭から警句を口にされた。
 続いて、ニュータウンの地区選定について、若林先生に当時の状況をお聞きした。まず言われたのが「最初から高蔵寺で開発するということは決まっていた」ということ。当時、公団名古屋支所は事業部長に青樹さんがいて、この方が名古屋地区でのニュータウン開発の必要性を本社に認めさせ、宅地課長の柘植さんがその下で検討を進めていた。若林先生と御船さんの仕事は地区選定調書を作成し、他地区と比較して、高蔵寺地区が最も適地であることを説明することだった。理由は4点。①800ha近い規模を確保できること、②名古屋からの距離が適切であること、③区画整理方式を採用することについては柘植課長が既に決めていたが、国・県有地が多く、用地取得と事業実施が容易なこと、そして④愛知用水があり水確保が容易なこと。この4点を挙げられた。また、土肥先生からは「イギリスの職住近接型のニュータウン像があり、愛知県地方計画で工場誘致を図る小牧市と住宅機能の春日井市という広域連携が構想されていたことから現在の計画地に決定した」と付け加われた。
 続いて、6106案(ガイドプラン)に至る初期の構想について若林先生から当時の様子が語られた。「1961年4月、津端さんが来名されると、まずは空から計画地を見てみようと言い出した。だが公団からの許可は下りず、それでもどういうツテか、小牧空港から御船氏とともに3人でセスナに乗って、上空から現地を確認し、写真を撮った。その後、一人8000円も徴収され、当時の給与が2・3万円だったことを思えばかなりの高額で、公団の許可が出ないことも仕方ないと思った」とのこと。「千里ニュータウンも見学したが、津端さんはほとんど興味を示さなかった」と言う。
 ガイドプランはほとんど津端氏が描いたが、3つの住区のうちの奥の住区はワンセンターを中心とする複合区域で、区域上部には「NIT」と書かれている。これは「NAGOYA Institute Technology」の略で、MIT(マサチューセッツ工科大学)に擬して、当初から工科系の研究機関を想定していた。土肥先生からは「当時、正統的なニュータウン研究者はイギリスのハーロウ・ニュータウンを視察し、近隣住区と段階構成のニュータウンを構想していた。しかし津端さんはそれを否定し、ワンセンターと反近隣住区を唱えられた。当時、世界的にも近隣住区型のニュータウンに対する批判が出始めており、ワンセンター方式を採用したイギリスのカンバーノールド・ニュータウンやフランスのトゥールーズ・ル・ミライユが注目を集めていた。」という話があった。
 話題は続いて、3つの住区にリング状に道路を囲む第1次・及び修正1次マスタープランから道路をフォーク状に開く第2次マスタープランへと移っていく。「地形を生かして中央に塔上の高層住棟を置き、周辺にタウンハウスを置いて、さらにその外側は低層住宅にするというのも津端さんのアイデア。特に道路形状の変更については津端さんも、交通量処理など実務的な理由は理解しつつも、都市デザインとしてはかなり苦悩され、10日程も家に籠って出社しない日が続いた。その結果が3つの住区をペデストリアン・デッキがつなぎ、デッキと一体となって高層・中層の住宅や施設群が並ぶという第2次マスタープランのデザイン。これにはトゥールーズ・ル・ミライユの計画が大きく参考になっている」。
 津端修一さんとはどんな人だったか。土肥先生は「若く理想に燃えていたが、気難しい人」と言われた。言葉数は少なく、若林先生も「土肥先生が来るまではかなり苦労した」と語っていた。津端さんは「人生フルーツ」でも紹介されたとおり、海軍出身でヨットマン。津端さんはヨットにおけるコックスであり、コックスの号令一下、チーム全員がその指示に従うというような仕事振りだった。また、土肥先生は「都市デザインを目指した日本最初のアーバンデザイナー」と評された。津端氏はフランク・ロイド・ライトの流れをくむレーモンド事務所を出た「建築家」であり、若林先生によれば「立体的空間づくりを徹底的に教えられた」と言う。これは前日の懇親会の時に話されたことだが、当時のニュータウン計画は、もっぱら企画・事業面で力を発揮した川手昭二氏を中心とする「川手スクール」と都市デザインを追求した「津端スクール」があったと言えるかもしれない。千里ニュータウン京都大学西山研の片寄さんが設計したと言われるが、「実際は当時建設省から出向した前田ユウさんが計画したのだ」という話も興味深い。
 最後に、その後の計画変更について、「高蔵寺ではみんな未来志向で仕事をしていたが、公団本社は現実の課題対応で動かざるを得ない。高蔵寺について言えば、宅地造成までは宅地課で仕事をしたが、住宅建設は住建部門で行っており、思うようにならないことが多かった」。これも懇親会での話だが「津端氏や土肥先生、若林先生はみな建築職だが、土木職主体の宅地課の中でも建築職ならではの発想が期待された面があった。しかし住建部門に対してはそうはいかず、晩年、津端氏は『自分が住建へ行けばよかった』と言っていた」そうだ。土木職が中心の公団の宅地部門は道路や緑道などのインフラ整備までで、建物と一体となったペデストリアン・デッキは住建部門で整備することになっていた。それが上の言葉の意味だと思う。
 しばしの休憩の後、意見交換会に移った。あいにく積極的に多くの手が上がるという状況にはならず、進行役の方から直接、高蔵寺ニュータウン内にお住いの岐阜大名誉教授・竹内伝史先生に指名がされた。さすがに竹内先生も突然の指名で戸惑ったようではあったが、「高蔵寺ニュータウンの高齢化が進行する中で、坂道が問題になることも多いが、構想時点で住民の高齢化はどのように考えていたのか」と質問された。これに対して、若林先生からは「当時は20~30年を視野に成長が続くことを前提に計画しており、入居者の高齢化は想定していなかった」と正直なお答え。また「地形こそ高蔵寺の個性」と言われた。土肥先生からは「状況の変化にアジャストしていくことが『まちづくり』ではないか」と意見を述べられた。
 続いて質問をされたのは、住建部門で長く仕事をされてきたという住宅公団OBのKさん。Kさんからは「住建部門としては、当時の住宅事情などからある程度詰め込んで住宅建設をせざるを得ない状況もあった」という話をされたが、土肥先生からはKさんの挙げた数字を訂正した上で、「宅地部門は将来を見越して骨格を作るが、住建部門は現状の課題に対応せざるを得ないという状況は理解する。しかし、住宅建設にある程度の期間を要することも見込んで、初期の住宅建設は各地区で分散して始めるように提案したが、聞き入れられなかったことも事実」とピシャと批判。85歳を超えたなお、その記憶力と舌鋒の鋭さに驚いた。
 最後に、今日の参加者に向けて両先生からの言葉を求められ、土肥先生からは「今回パネル展示した資料が東大高山研に残っていたことは喜びたいが、残りの9割近い資料は失われており、それが残念である。当時はその時にできる最善・最適な判断をしたと思っている。若い人にもそれぞれの信念や思い入れを大事に、理想をもってそれぞれの仕事(まちづくりや都市計画)に取り組んでほしい」との言葉。そして若林先生からは「午前中、見学した際に『高蔵寺ニュータウン』という看板を発見した。『ニュータウンのオールドタウン化』ということが言われるが、『ニュータウン』という言葉は『人が一から創り上げた街』という意味であり、『高蔵寺ニュータウン』という名称はその意味でも固有名詞であり、大事にしてほしい」と言われた。
 この公開研究会を通じて、お二人の個性の違いと、それがうまく調和して、津端先生ともどもニュータウンの構想づくりに取り組まれたことが今に至っていると痛感した。お二人あってこその高蔵寺ニュータウンである。しかも最後に「『高蔵寺ニュータウン』という名称を大事に」という若林先生の熱いお言葉。ニュータウンに住む者としてその気持ちをしっかりと受け継いでいきたいと心に焼き付けた。
 以上、両先生の言葉は私の記憶の中で再現しているので多少間違っている点、勝手に補足してしまった点もあるかもしれない。それは都市計画学会で公式にまとめられるであろう報告を待ってほしい。それにしても楽しい時間を過ごさせていただいた。お二人の温かい人柄には大いに励まされた。一つだけ心残りなのは、懇親会の席で若林先生が「津端先生が名古屋へ行こうと言った本当の理由は・・・」と言いかけたところで別の話題になり、続きを聞けなかったこと。きっと答えは「ヨットを思う存分やりたかったから」ではないだろうか。まさに若き都市プランナーたちが構想した街「高蔵寺ニュータウン」。僕らはこの都市計画遺産をどのように次世代に繋いでいったらいいのだろう。それについては今後、この研究会に対する関係者の反応なども見ながら、ゆっくり考えていきたいと思っている。