老いた家 衰えぬ街☆

 前著「老いる家、崩れる街」は、既に進行しつつある空き家・空き地の大量発生に対して、都市計画的見地から問題点を指摘し、方策を提案したものだった。本書では、大量の「空き家予備軍」に焦点を当て、「問題先送り空き家」の実態と問題点を指摘する。特に、相続放棄が抱える問題を強く指摘し、警報を鳴らしている。
 その上で、デトロイト毛呂山町田辺市などの事例を紹介しつつ、その対策を提示する。まずは、相続放棄等による問題点を強く認識し、各自で「住まいの終活」を行うことを提案している。巻末には、そのための「住まいの終活ノート」も添えられている。また、デトロイトや日本の諸事例を参考に、空き家・空き地の隣地への譲渡が有効であること、そして都市計画的には「区画再編重点地区」の指定も提案している。これは重要な提案ではないかな。その他には、ランドバンクや住まいのトリアージ、売り手支援のマッチングサイトなども紹介されているが、これらは人材の問題もあり、すべての地域ですぐに実施していくことは困難かもしれない。
 まずは「住まいの終活」から。最終の第5章では、そのための具体的な作業と、民間市場での流通性の有無に応じた戸建て住宅の選択肢、分譲マンションの選択肢を、それぞれのケースに応じ、具体的に提示している。その意味では、前著と違って専門家向けではなく、まさに一般の住宅所有者向けの書物となっている。しかし専門家とて同時に一般人に過ぎない。私もわが家と親族の住宅状況を省みて、大丈夫かなと思うこと頻りだ。
 だがたぶん、ほとんどの人はこうした状況も知らずに相続が行われ、大混迷に陥るに違いない。権利関係にがんじがらめになって、荒廃したまま手が付けられない家や街が並ぶ。そんな日本列島になってしまいそうだ。その時にいったい誰がどうして、そのがんじがらめを解くのだろうか。見てみたいような、怖いような。ああ、クワバラ、クワバラ。日本の未来はイロイロな意味で不安ばかりだ。

老いた家 衰えぬ街 住まいを終活する (講談社現代新書)

老いた家 衰えぬ街 住まいを終活する (講談社現代新書)

相続放棄をすると、その相続権は親の兄弟姉妹やその子へとまわりまわっていくわけです。逆に従兄妹が相続放棄した家の相続権が、自分にもまわってくることもあるわけです。……実際に、先順位の相続人から相続放棄したことを知らされておらず……突然、身に覚えのない不動産の相続人であることを知らされ愕然とする方も多いです。……そもそも相続放棄をされるような負動産は売却可能性が低いものが多いため……誰かが引いてくれるのを密かに待つ「ババ抜き」のような状態になりかねないのです。(P74)
○一律100ドルと無償に近いような価格で隣の住民に空き地を譲渡することになっても、責任をもって維持管理をする担い手を確保できること、地域の更なる荒廃を防げること、課税対象の土地になること、より広い区画とすることで豊かな住環境へと再編できることなど、隣地優先譲渡は、地域にとってもランドバンクにとっても、様々なメリットが見込める手法であると考えられています。(P110)
○現在の不動産取引は、新築を前提とした仕組みになっています。……買い手の保護、つまり買い手側の『安心』を中心にした仕組みになっているのです。/でも、中古物件の場合は、基本的に『個人売買』であり、売り手自身も個人であるにもかかわらず、売り手を支援する仕組みが今の日本にはありません。……つまり、住まいの終活を進めるためには、買い手だけでなく、「売り手」が安心して売買できる取組や支援策の充実が求められているのです。(P148)
○誰かが、空き家を解体した後の跡地について、隣地所有者との間でコーディネートすることができれば、関係者にも地域にも、実はメリットしかないことがわかります。/具体的には、空き家所有者は……安心感が得られます。隣地住民は……駐車場や畑や庭に有効利用できる土地を安価に手に入れることができます。地域にとっては……安全性、防犯性が高まり、住環境が改善されます。(P153)
○民間市場の流通性が低いエリアは……他とは違う魅力をもったエリアに……誘導できるかが鍵になると考えます。/具体的には……空き家は解体し、その跡地を隣の住民に……譲渡し、家庭菜園や駐車場にしたり、2つの敷地を統合して……建て替える用地にしたり……都会とは異なるライフスタイルを提供できる地域へと転換していくのです。/そのためには……再編するエリアは、市町村が都市計画として重点地区を指定し……優遇措置を可能とするなどの支援策も考えられます。(P194)

つくられた桂離宮神話

 「京都ぎらい」以降、井上章一はすっかり有名になった。TVの歴史番組でもちょくちょく見かける。自らの著作に加え、歴史学者である本郷和人との対談本「日本史のミカタ」も出版している。先日、友人から「外国人が見た日本」(中公新書)に「桂離宮とタウトの話が載っていた」というメールが届いた。「桂離宮はタウトが発見した」という俗説を否定する内容だが、「そんなことはとうの昔に井上章一が指摘していた」と書いた、まではよかったが、私自身、その井上の本を読んでいない。それで改めて本書を読むことにした。
 まず驚いたのは、井上章一はこれをわずか30歳前後で執筆しているということである。最近の井上章一の本と同様の表現がここかしこに見られる。30歳にしては随分と老成した文章を書いていたんだな。そして「学術文庫版あとがき」には、「建築史学会からは、会費未納の除名通告」を受けたとある。あれ? 私は、井上章一は建築史家(Wikiにもそう書いてある)と思っていたが、そう書いてはいけないのかな。日本文化史の研究者といった方がいいのかもしれない。
 内容は、ブルーノ・タウトの来日後の言動等から桂離宮神話成立の経緯を確認する第1章、東照宮を巡る情勢や戦時体制下での影響などを検証する第2章と続き、第3章では過去の観光案内書等から桂離宮がいつメジャーな存在になっていったかを検証している。「桂離宮は、タウトが『発見』したから有名になったのではない。拝観制限を緩和したから有名になった」というのは、いかにも井上らしい文章だが、桂離宮に限らず、いかにイメージが作られていくのか、われわれはどこまで時代の風潮に左右されているのかを映し出すようであり、興味深い。井上自身の関心の多くもそこにあるのだろう。
 そういえば昔、内田樹が何かの本に「現代人は人知れず、構造主義的な思考に感化されている」という旨の文章を書いていたが、確かにそういうことはあるだろう。桂離宮だけでなく、我々は何かを、先入観なく見ることはほとんどできない。せめて自分が何に影響されてそれを見ているのかだけは理解しておきたいものだが、それさえも多分おぼつかないのだろう。

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

○昭和初期は、モダニズムの勃興期であった。そして、その文脈のもとに桂離宮が称美され東照宮がおとしめられだす時期であった。ブルーノ・タウトは、そうした時期の日本にやってくる。そして、日本ではそれらモダニストたちとひんぱんにつきあうようになる。もちろん、桂離宮東照宮の見学にさいしても、モダニストたちが同行した。タウトの日本建築理解も、こうした状況と無関係ではないだろう。(P41)
東照宮批判は、明治中期以降の日本美術界にあってはごく常識的な議論であった。伊東ら建築界の面々だけが、これを低く見ていたのではない。……ひとつには、「美術=ファイン・アート」という概念の輸入があげられるだろう。……いうまでもなく、東照宮は表面的な装飾技巧が前面におしだされた建築である。……そして、明治中期とは、「美術」界の指導者たちが、日本にも「美術」を定着させようとしていた時期であった。(P100)
○1930年代といえば、日本における国粋主義の高揚期であった。満州事変の勃発以来、世論はナショナリズムへと傾斜する。……「『日本へかへれ!』の呼び声」は、各界で高まっていく。もちろん、建築界においても同様であった。……タウトが来日したのは、ちょうどそんな時期でもあった。……タウトの言葉は、日本人のあいだでひろがりつつあったナショナリズムをもくすぐることができたであろう。(P118)
桂離宮イメージは、タウトおよびモダニズム勃興前後で大きくかわったというべきだろう。すなわち、技巧美から簡素美へと。桂棚への一定の評価から、それへの黙殺へと。/おそらく、評価のあり方としては、前者のほうが実態にちかい。桂離宮の造形には、さまざまな技巧がたくまれている。すくなくとも、ただ簡素であるだけの建築ではない。だが、一時期の評者たちは……技巧的な側面には目をつぶらざるをえなかったのである。(P128)
ブルーノ・タウト桂離宮の価値を啓蒙したのは、1930年代である。しかし、この時期には、ポピュラリティの上昇はみられない。タウトの「発見」というストーリーは、もういちど考えなおさねばならないだろう。桂離宮は、タウトが「発見」したから有名になったのではない。拝観制限を緩和したから有名になったとみたほうが、より実情にちかいのではないだろうか。(P220)

モダニズム崩壊後の建築

 先に読んだ「ル・コルビュジエがめざしたもの」の続編。本書では副題「1968年以降の転回と思想」にもあるとおり、1968年以降の現代建築に対する批評などを収録している。本文中にもあるが、現代建築と近代建築の境はどこになるのか。筆者は前書で近代建築、本書で現代建築を対象としていると考えていいだろう。とは言え、第1章「1968年前後の建築」に収められた評論はどれも難しい。特に最初の「1968年―パリの五月革命をめぐる思想と建築」はあまり理解できなかった。4つ目の評論「大阪万博の建築群」あたりからようやく楽しく読めるようになる。その前のアーキグラムやコープ・ヒンメルブラウに関する評論は、建築とは何かと問うものだ。まさにそこから現代建築は始まったのかもしれない。
 第2章と第3章では、住宅と窓などの要素について、そして装飾やファッションを取り上げた論考が並ぶ。なかでも「かわいい」と「ヤンキー」についての評論は面白い。単に私でも理解できるということかもしれないが、丹下健三などに代表される大文字の建築から、建築は今や皮膚感覚なものになりつつある。だからこそ、ファッションとの違いを考えることに意味がある。
 そして最終章「ポストバブルの日本建築」では、オルタナティブ・モダンを取り上げる。伊藤豊雄をめぐる現在の若手建築家たちが何を行っているのか。それがモダニズム建築の再定義、オルタナティブ・モダンではないか、という論考は説得力がある。リノベーションと言い、使い手目線と言っても、まだまだ建築と呼ばれる物体は鉄やコンクリートやガラスでつくられ、地面に固定されている。だからオルタナティブ・モダン。同時代の建築が今後いかに変化していくか。“日本”の建築は今後どう変わるのか。それを観ていくときに、五十嵐太郎という同時代人がいることは心強い。これからも五十嵐太郎の論評からは目を離さないようにしよう。

○そもそも日本人が、4・5階建て以上の建物に住むようになったのは、基本的には戦後からのことであり、せいぜい半世紀くらいしか歴史がない。……したがって、戦後の団地や高層アパートは、日本の歴史において……中層以上の建物に住む人の風景をもたらした画期的な事件だった。/しかし、今や規制緩和によって、タワーマンションがあちこちの駅前に増殖する時代を迎えている。……明らかにこれは21世紀に出現した新しい集合住宅の風景である。(P158)
モダニズムの時代に船が機能主義的なデザインの理想とされたことはよく知られていよう。その結果……近代建築では、しばしば丸窓が使われている。……ところで、客船の方は逆に陸上の建築に憧れていた。むしろ角窓を理想とし……一等の客室では四角い窓をなるべく用いている。……モダニズム建築が動く機能的なホテルとして客船の窓を模倣したのに対し、客船の側は安定した環境の建築になろうとしたのである。船のような建築と、建築のような船。一種のねじれというか、両者は互いを理想化していたのだ。(P199)
○かつて世間から認められないアンダーグラウンドサブカルチャーとして育成した「おたく」が、いつしか手のひらを返したように、「オタク」というラベルに張り替えられ、国策として推奨されるようになった。……だが、そのとき文化の意味は変容していないか?/筆者は、「かわいい」と「カワイイ」をめぐっても、同様の構図が存在しているように思う。……一般人は「かわいい」を用い、「カワイイ」という言葉は……洗練されたマーケティングの論理が働くときに使われているのがうかがわれる。(P276)
○ホールの議論を都市論に置き換えれば、「コード化」は計画者の側が、一定の目的に従って、管理しやすい機能的な空間をつくることになるだろう。そして「脱コード化」は、居住者や旅行者がいかに都市を使うかということになる。計画された広場や公園で一時的に休むのは、あらかじめ想定された使い方だが、そこで寝泊まりするホームレスは、空間の新しい意味を生産する。……若手建築家のリサイクルも、都市の「脱コード化」にほかならない。(P336)
ポストモダンモダニズムに対する修辞学的な変形だとすれば、イトー・スクールのオルタナティブ・モダンは言語体系そのものを組みなおす。つまり……せんだいメディアテークが提示したように、そもそも柱とは何か、壁とは何かにさかのぼって、言語のレベルで変革を起こす。オルタナティブ・モダンは、近代を特徴づける主要な建材である鉄、コンクリート、ガラスを、現在も使い続けているという意味において近代の枠組に含まれる。
だが、コンピューターや新しい思想をデザインに導入することで、まだモダニズムが十分に展開しきれていなかった別の可能性を発掘するものだ。(P381)