近居とは ― 不十分な社会支援と不安定な家族支援の狭間

 先日、「郊外住宅団地における多世代居住の可能性と近居実態」と題する講演会に行ってきた。旧日本住宅公団が昭和43年から横浜市で開発をした左近山団地における近居実態の調査結果を報告したもので、団地入居者の近居率や外出頻度などを調査した上で、近居世帯に対してヒアリング調査を行い、親世帯の団地入居から現在に至るまでの転居等の状況や意識調査などを行っている。近居率が22%というのは高いような気もするが、居住地域の住宅状況などにも大きく影響されてくる。そもそも何をもって近居と定義するのかも決まった定義はない。この調査では左近山団地及び隣接する市沢団地に親子世帯が居住している場合を近居と定義していたようだ。
 近居をすれば親子間で、家事支援、育児支援、介護支援などの相互支援が可能となる。高齢世帯の外出頻度も高くなり、健康につながる。といったメリットがある一方で、支援が必要な時期は短く、近居ゆえに過重な負担となる。支援が不要な時には煩わしさの方が勝るといったデメリットが挙げられていた。さもありなん。
 親子の住み方には、同居、隣居、近居、遠居など様々な形があり、どんな住まい方を選択するかは、職業の事情や配偶者・親族の状況、地域の住宅事情や従前の住まいの状況など様々な要因があるだろうが、複数の選択肢がある中で、敢えて「近居」を選択するというのは、どういう理由からだろうか。講演者からは「将来(非常時)のための漠然とした安心感を期待している」という言葉があった。たぶんそんなところだろう。何に対する安心感か。それは子育てや介護などの生活支援について、十分な社会的支援が得られない可能性に対する「保険」としての「安心感」。
 結局、「近居」とは、不十分な「社会支援」に対する選択なのだ。逆に言えば、「近居」を推奨し、支援する制度というのは、不十分な社会支援に対する代替として制度化されていると考えるべき。しかし、親子間の支援は、時に感情に支配され、また家族成員の状況によっても左右される不安定なものだ。不十分な社会支援と不安定な家族支援。日本ではまだしばらく、双方の微妙なバランスの狭間で、近居という選択が続けられるということだろうか。

西洋都市社会史

 「西洋都市社会史」という堅いタイトルだが、内容はヨーロッパ、特に北ドイツを中心とした各都市の訪問記である。筆者は中世ハンザ都市の都市史を研究する経済学者。筆者が勤務する中央大学の雑誌「中央評論」に掲載してきたエッセイを中心に、全20章にまとめている。概ね1章1都市。第1部はドイツ都市編、第2部はヨーロッパ都市編。だが興味深いことに、歴史事象順目次がついていて、今回はその順番で読んでみた。「中世都市の成立過程」と小見出しの付いたトリアを最初に、「世界統治主義と国民主義的世俗の統一」「中世の不動産担保」など、この小見出しを見ているだけでも興味深い。
 各章は都市の紹介だけでなく、その都市の成立過程に見られる歴史的事象について、説明されている。それが面白い。ハンザ都市は何を運んだのか。領邦君主が治めたドイツの中世都市はどうやって市民自治に移行していったのか。イギリスの産業革命の意味とフランスとの違い。パリの一極集中はなぜ起きたのか。オランダやポルトガルの栄枯盛衰。リカードの比較優位論の歴史的背景、など、さまざまな事柄が語られている。
 欧米の都市のいいところだけを見て、それを取り入れようとするのではなく、その背景も知ることはとても重要だ。もっともこれは海外だけではない。日本国内であっても、都市によって背景が異なり、歴史がある。読みながらそんなことを思った。前著「西洋の都市と日本の都市 どこが違うのか ―比較都市史入門」も読んでおこうか。

西洋都市社会史:ドイツ・ヨーロッパ温故知新の旅

西洋都市社会史:ドイツ・ヨーロッパ温故知新の旅

○都市や市民の土地取得の理由としては・・・財貨不足に苦しむ領邦君主の土地を担保とした金銭の要求・・・を受け入れ・・・不動産だけでなく(裁判権のような)都市にとって大事な権利が・・・販売されたりして、市民による自治が少しずつ実現されていったのである。・・・そうした状況下で・・・市民自治がしっかり定着し、市民たちは危機に追い込まれれば、時には武器をとって命がけで都市を守った。それゆえ、市民たちは自らの都市に誇りを持ち、都市もまた個性的であった。(P34)
産業革命・・・の背景には農村における農法の改良による農業の近代的な生産・・・の実現があったことを忘れてはならないであろう。・・・これにより穀物価格が低下して・・・経済政策は保護主義から自由主義に大きく転換することを可能にした。他方で都市の労働者に食糧以外の商品の購買を可能にさせ、農民たちにも購買力の向上をもたらした。・・・工場で生産されるようになった大量の生産物は・・・植民地に供給されて多大な富をイギリスにもたらした。(P107)
○オランダは世界の覇権を握りながら、それは長くは続かなかった。その要因は・・・羊毛の供給国であったイギリスが完成した毛織物を生産し輸出する・・・競争国に成長したことにあったが、イギリスに敗北した原因の一つは、ぜいたくな生活の中で危機感を失い、ただ議論を重ねるだけで対抗策を打ち出すことのできなかったことであったという。・・・バブル景気の中で危機感を忘れ・・・その後現状に至るわが国の状況はオランダの16・17世紀の状況に似ていないであろうか。(P123)
○グダンスクは・・・遠隔地商業都市としてハンザ商業の東西貿易の拠点であり、・・・流域からもたらされる農産物の集散地であり・・・南欧地域の穀物不足などにともなって、オランダが輸送した穀物の供給地となり、逆に・・・大量の塩を西方フランスなどから輸入し、塩の生産ができない北欧やバルト海地域に再輸出していたのが知られている。東方ロシア、北方スウェーデンとのバルト海の中継貿易港として発展した都市であった。(P127)
フランス革命によって実現された小作農民への土地配分により小土地所有農となった農民たちは容易に土地を離れず、国内で産業革命が進展しても工場労働者は不足し、政府の努力にもかかわらずフランスの工業化は遅れ、現在もなお農業国である。(P143)
○ヨーロッパの市民は、祖先が命がけで守ってきた自由で安全な空間の中で、便利さを享受できるかわりに、集合住宅での生活で我慢するという義務を果たすことで都市を維持してきたとも考えられるのである。そこには、それぞれ個性を維持してきた都市に対する愛着や故郷のまちを愛する心が必然的に育っていったと思われる。他方で、近年では欧米各大都市の中心市街地から購買力のある大きな裕福な市民が郊外の一戸建て住宅へ大量に流出する空洞化が深刻になっているのも事実である。(P187)

次の震災について本当のことを話してみよう

 福和先生とは地元で昔から何かとお付き合いがある。講演会でいじられることもあれば、飲み会で同席したこともあった。本書には日頃から色々な機会に聞いてきた話がほとんど網羅的に書かれている。その点では内容的に特に驚くこともない。
 第2章の冒頭で、阪神淡路大震災を経験し、「防災」を研究テーマにしようと決めた経緯が書かれている。それは初耳。もともと福和先生は建築物の振動解析等が専門で、構造設計研修の講師として話を伺ったこともある。しかし、ここ20数年間はすっかり「防災」の専門家として、地震工学や地域防災の啓発に力を入れている。
 本書でも「口うるさく・・・脅したり、すかしたり、褒めたり」(P246)と書かれているが、そのやり方も最初のうちは面白いが、何度も経験していると次第に鼻についてくる。そのあたりは先生も相手を見ながら巧みに変化を付けているのだろうけど、結局、何をするか、どう行動するかは本人が決めることで、全員が福和先生のようにできるわけでもないし、したいわけでもない。そのあたりは難しい。過度に脅し過ぎると、かえってやる気を削ぎかねない。
 本書を読んだすぐ後で、友人から以下のようなサイトを教えてもらった。
 「2階で寝よう!」
 確かにこれならすぐにできる。それでもわが家では、2階に娘が寝て、私たち夫婦はその直下の部屋で寝ており、これを変えるのは難しそうだ。死ななければいいのか。壊れなければいいのか。憂いなく死ねればそれでもいいのか。そのあたりは人それぞれ。
 本書で書かれていることの多くは最悪の事態を想定して書かれているのであって、日本中が壊滅するわけではなく、たとえ首都圏や太平洋岸の諸都市が壊滅しても、日本海側や北海道・東北は無事かもしれない。中国地方や中部地方の山間部も大丈夫だろう。そして日本がいつまでも経済大国でいるとも限らない。本書で書かれる「本当のこと」は現在想定されることであって、「実際に起きること」ではない。だからこれを踏まえてどう行動するかは、個人個人に委ねられている。
 それでも、福和先生の講演に直接触れる機会がない一般の方には、本書の果たす役割は大きいだろう。本書には、地震の危険性から耐震化の現状、歴史や地名から見える危険地帯、そしてすぐにできる対策と防災社会への提言など、福和先生の全てが詰まっている。ぜひ一度は一般の方が読んでみることを勧めたい。

次の震災について本当のことを話してみよう。

次の震災について本当のことを話してみよう。

○今の日本人は、まだ何とかできるお金も知識も持っています。そして知恵もあるはずです。/そんな国民が何もやらずに30~40万人の犠牲者を出し、日本経済の破滅に端を発した金融不安で、世界を破綻に陥れるようなことになったらどうなるでしょうか。世界の人たちは、私たちを助けてくれるでしょうか。・・・まだ残された時間があると信じ、少しでも被害を減らす取り組みをすべての人が始めるべきではないでしょうか。(P33)
○昔の役所の建物は良い地盤に建った壁の多い建物が普通でした。この時期は技術もなかったので、構造計算をするときに壁は計算外にして、柱だけで安全性を確認していました。ですから、壁がある分だけ余裕たっぷりでした。一方で、今は技術が発達したので、壁の耐力をしっかり見込んで計算をしています。・・・科学が発達すると、自然を克服したと誤解して自然の怖さを忘れがちになり、安全性がおろそかになることもあります。技術の発達が、安全性よりもコストカットに使われれば、バリューエンジニアリングは、大きな矛盾と危険をはらんだ思想にもなります。(P83)
○建築構造の分野では、耐震性の高い建物が実現でき、免振や制振も開発して「終わった」と思っていました。・・・しかし、阪神の光景はショックでした。「終わった」はずの建築構造の分野が全然終わっていない。先端技術を使った高層建築はごく一握りで、技術をあまり入れていない一般の住宅がたくさん壊れ、多くの人が亡くなった。/先端ばかりやっていては災害被害は減らせない。私は「防災」を自分の最大のテーマにすることにしました。(P99)
原子力の世界は、あまりにもたくさんの専門家が関わっていて、お互いに情報交換することはめったにありませんでした。・・・建屋を担当している人は、原子炉やタービン、配管のことは知らず。逆も同様です。専門家はたくさんいますが、隙間が多くて間をつなぐ人がいません。/全体を見るような発想がなく、みんな部分的な担当者として動いていたのです。私自身、いまだに痛恨の想いがしています。(P110)
○言いにくいホンネも言うちょっと「口うるさい」人がいないと、面倒な防災対策は進みません。おせっかいな人が脅したり、すかしたり、褒めたり。人の感情に訴える道具や物語をつくって、ホンキになって伝えることも役に立ちます。時間はかかりますが、言い続けていれば少しずつ実現していきます。(P246)