集合住宅

 副題は「20世紀のユートピア」。「まえがき」の副題に「集合住宅にユートピアを求めて」と付いている。単に世界の集合住宅を紹介するのではなく、集合住宅がいかに人々のユートピアを求める活動の一環として実現されてきたかを、ドイツ、オーストリア、オランダ、フランスを巡って考察する。そして最後に東京に戻ってくる。
 いや、出発点は「軍艦島」だ。日本で最初の鉄筋コンクリート造による高層集合住宅群。だがそれはユートピアを目指すというより、無計画なまま機能のみを追及した結果の産物だ。それでも2015年には世界遺産に指定された。いまや廃墟ゆえに世界遺産に指定された。章の副題は、「ユートピアディストピア」だ。
 第2章の「ノイエ・フランクフルト」では、ワイマール共和国時代からナチスまでの間、エルンスト・マイやリホツキーによってフランクフルトで建設されたジードルンク(集合住宅団地)を訪ねる。1929年に第2回近代建築国際会議(CIAM)が「生活最小限の住居」を議題にフランクフルトで開催される。それはまさにCIAMモダニズムによるユートピア実現にかける決意だった。イギリスのアーツ・アンド・クラフツやフランスのアール・ヌーボーに対抗してドイツで提唱された「規格化」がバウハウスに継承され、モダンデザインの規範となったという指摘も興味深い。
 第3章では、オーストリアの第一次世界大戦終結からオーストロ・ファシズムが始まる1934年の間の「赤いウィーン」時代に建設された労働者のための集合住宅を巡る。ウィーンのリンクシュトラーセのさらに外側、拡大したウィーンを一周する道路の一角に、オーットー・ワーグナーの薫陶を受けた建築家等によって、労働者のための集合住宅が建設され、「プロレタリアートのためのリンクシュトラーセ」と呼ばれた。1kmを超えるスーパーブロックに建設された巨大建築は「労働者の要塞」とも、「人民住宅宮殿」とも呼ばれたが、テラコッタやカラフルなモザイクタイルで飾られた外観や中庭などは、今でも訪問者を楽しませている。
 続いて第4章では「アムステルダム」を訪れる。オランダの集合住宅と言えば、奇抜なデザインの現代建築が多く建てられているというイメージだが、筆者が訪れる「アムステルダム南」団地もまた、アムステルダム派独特の人間味溢れる図象や造形が見られ、かなり楽しい。この「アムステルダム南」団地には一時、アンネ・フランク一家が暮らし、アンネの像や日記を購入した文具店も現存しているという。
 ヨーロッパの集合住宅訪問の最後は、第5章「『お値打ち住宅協会』のパリ」だ。エベネザー・ハワードが「明日の田園都市」を発表する50年も前から、フランスでは都市居住を前提とした低家賃の労働者向け集合住宅が建設されていた。「お値打ち住宅協会」とでも訳せるHBMはこうした活動を展開し、HBM様式とも言える独特の住宅団地様式を作っていった。現在でも移民が多く暮らす団地として利用されている。
 そして最後に東京に戻ってくる。ここで取り上げるのはやはり同潤会アパートである。しかしその前に、第2回近代建築国際会議(CIAM)にオブザーバー参加した山田守や、入れ替わりにドイツにやってきた蔵田周忠がノイエ・フランクフルトをいかに日本に紹介したかが綴られる。同潤会アパートについては、基本的に中産階級向けの住宅であり、筆者が規定する労働者向け集合住宅としてはごく一部を除いて対象としていない。しかし、どの同潤会アパートにしろ、施工やメンテナンス状況はとてもヨーロッパの各住宅と比肩できる状態ではなかったようだ。
 「エピローグ」では、ユートピアとして建設された田園都市レッチワース、フランスの企業ゴダンが従業員のために建設した集合住宅団地「ファミリステール」、2008年に世界遺産登録された「ベルリンの近代集合住宅群」(プルーノ・タウトやヴァルター・グロピウスらが設計)が紹介され、1935年に日本でプルーノ・タウトが講演を行ったが、ヨーロッパが目指した集合住宅の真意は、十分には日本に伝わらなかった。今、改めて、集合住宅が目指したものは何だったのかを日本で問う。それは格差社会の進行に対する建築界からの一つの示唆である。

集合住宅: 二〇世紀のユートピア (ちくま新書)

集合住宅: 二〇世紀のユートピア (ちくま新書)

○そこに出現した「コンクリートの集合住宅群」は建築家不在で構築され、立体重層構成によって、狭い島にできるだけ多くの労働者のための居住空間を確保するというモダニズムの建築観に通じる「即物的かつ機能的な要求」を「母」にして産み落とされた。・・・機能主義や合理主義の思考の産物であることを評価の基準に置くなら、「軍艦島」は世界で最も「見る価値」があることになるだろう・/しかし、現実は違う。
(P038)
産業革命後、英国がウィリアム・モリスに始まるアーツ・アンド・クラフツ運動で工業デザインの世界を牽引し、フランスは19世紀末のアール・ヌーボーの流行で・・・流行の源泉国の地位を回復した。/自国の工業製品の国際市場での地位が国家経済の存亡につながるとの意識を、ヨーロッパの各国の指導者は共有していた。・・・1914年にケルンで開催した最初の工作連盟展の総会で、ムテジウスは新たな概念「規格化」を提案した。・・・この「規格化」の発想は、デザインの殿堂とされる「バウハウス」に継承され、世界中のモダンデザインのひとつの規範となっていった。(P080)
○「シテ・ナポレオン」[1953年]で第一歩を踏み出したパリでは、郊外の「田園都市」を目指すのではなく、・・・都市の集合住宅を研究し、あるべき姿を見出す方向での活動が主流だった。・・・1870年代から、都市居住を前提とする低コストの集合住宅の模索が始まり、・・・やがて「HBM様式」とでも呼べる「ひとつのスタイル」ができあがっていった。(P165)
○「同潤会」はノスタルジーで懐かしむ対象にとどまらず、・・・「ユートピア」志向を語り継ぐ存在だと考えてきた。/それでも「同潤会アパート」の現実が保存に値したかとなると簡単に「イエス」とはいいがたい。/「同潤会江戸川アパート」(1934年)は・・・わたしが訪ねたとき、その6階の床は、基礎の不同沈下のため、まっすぐに立って歩けないほどうねり、傾斜してしまっていた。(P209)
○レッチワースにあって、この工場建築の存在感は圧倒的だ。「職住近接」に関して、「職」のひとつの強固な牙城がそこに存在している。・・・この経緯が興味深いのは、そこにあった企業で働くために労働者が集まって街ができたのではなく、こんな理想の「ユートピア」をつくりたいという夢想家ハワードがいて、住民はその呼びかけを信じて移住し、ハワードの理念に共感したスピレラ社が住民の能力を信じて工場を開いたところになる。「ユートピア」は共感者によって夢想を超えて実現したのである。(P224)
○ヨーロッパ各地で、「ユートピア」を目指した20世紀の集合住宅が見直されつつある状況は、いつの日か、集合住宅が「格差」拡大の歯止めにつながることへの期待を高まらせる。「ユートピア」を構想した時代の「夢の軌跡としての集合住宅」には、21世紀なればこそ、学ぶべき教訓が詰まっている。(P252)

「ハイテク」な歴史建築

 筆者は半導体・物理学の研究者である。一方で根っからの古建築好きのようで、全国の伝統的な建築物を見て回っている。タイトルを見て私は純粋に、伝統的建築物に使われている現代にも通じる技術を解説する本だと思っていた。しかし上述のように筆者は建築の専門家ではない。よって、本書で語られる技術は全て、宮大工や瓦職人等からの「受け売り」である。もちろん宮大工や瓦職人を馬鹿にするつもりはない。本書で紹介される職人とは、西岡常一棟梁であったり、白鷹幸伯鍛冶であったりするわけで、彼らの言葉を否定することはできない。
 しかし、古代の技術が現代の技術に勝る、というのはやはり言い過ぎだと思う。その理由を現代の経済性や効率優先に求めるというのも、確かにそういう面はあるかもしれないが、一方で古代は経済性や効率に捉われない精神があったと断定するのは確かとはいえない。少なくとも研究者であるならば、なぜ古代は経済性や効率に捉われなかったのかという点を解明すべきである。
 また、一流の職人の技と作品を「絶対的に」信頼する、と明言するのも研究者的態度とは思われない。「信頼」、いやほとんど「信奉」だと思われるが、その余り、「棟梁が言うならそのとおりでしょう」と書くに至っては、やはり客観的に筆者自身の目で判断してほしいと思わざるを得ない。
 ということで、本書は、古建築好きがその趣味が高じて全国の古建築を見て回った記録として読まれるといい。古建築には我々が想像する以上に高度な技術が随所に使われていることは否定しないが、現代以上にハイテクである、または現代はローテクに堕してしまったとはけっして思わない。一般読者向けにこうした本が流布することはけっしていいこととは思えない。

「ハイテク」な歴史建築 (ベスト新書)

「ハイテク」な歴史建築 (ベスト新書)

○鉄や瓦に限らず、「現代人」の技術が「古代人」の技術にかなわない分野は少なくないのです。/なぜ、このようなことになるのでしょうか。/一言でいえば、それは、現代の技術が、現代社会が要求する「生産性」「経済性」「効率」にひたすら応えようとするからです。(P43)
出雲大社杵築大社)の創建については・・・「国を譲った」出雲国が巨大神殿の建立を求め、「国を譲られた(奪った)」大和朝廷がその要求に応じた、ということなのです。(P83)
○私も「学者」のはしくれですが、いつも職人を尊敬し、一流の職人の技と作品を絶対的に信頼し、「学者」と職人との間で見解の相違があった場合は、躊躇なく職人の見解に与します。「無責任なことをいっていても許される学者」と「実際に長い歴史に耐える物を作る職人」とでは勝負にならないと思っています。(P137)
錦帯橋の場合、海老崎棟梁の話では、アーチの下から見上げた時、この10センチメートルの違いが、アーチのカーブを美しく見せるということです。・・・祖父・粂次郎、父・奈良次郎に続き三代にわたって”錦帯橋一筋”の海老崎棟梁がいうからには、そうなのだと思います。(P225)
○その時代の権力者を含み、彼らに”仕事”をさせた人たちも「経済性」や「効率」などを考えることなく、後世に遺せるほんとうによいものを職人たちに求めたのです。・・・私は本書を通じ、このような職人たちに心からの敬意を表したいと思います。(P234)