タワー

 「シリーズ・ニッポン再発見」の中の1冊である。既刊は「マンホール」に「銭湯」、「トイレ」、「橋」。続刊として「包丁」が予定されている。タワーが日本独自の文化ではないし、五重塔など寺社仏閣は含まれていないので、シリーズに入るのはやや違和感があるが、それでも日本にはこんなに様々なタワーがあったのかと改めて驚いた。
 取り上げられたタワーは44本。その他にコラム欄で日本テレビ塔など、現存しない塔や高崎白衣大観音などが紹介されている。執筆者の津川氏は地理学の先生。そのためか、タワーの構造的な特性やデザイン上の特徴といった建築的な視点ではなく、ランドマークとして地域にどう捉えられているか、また、誕生までの経緯やタワーからの展望などがもっぱら記述されている。また、それぞれのタワー紹介の末尾に添えられた「トリビア」も面白い。
 ちなみにタワーだけではなく、超高層ビルもいくつか取り上げられている。今、名古屋では名駅地区に次々と超高層ビルが建設されている。そのことも記載されているが、しばらく経つとこの本もあっという間に時代遅れになるのかもしれない。新たに建設されるタワーもあれば、利用されなくなるタワーもある。TV放送やバブル期等がタワー建設にもたらした影響もいろいろとあるだろう。そういえば、瀬戸のデジタルタワーは掲載されていない。タワーはいかに建てられ、いかに変遷していくのかを、総括的に研究するとまたタワーの別の意味合いが見えてくるのではないかと思った。

チャーチル元英国首相が「私たちが建物をつくるが、その後は、建物が私たちをかたちづくる」という言葉で残しているように、建物や街のたたずまいはパブリックな性格を持ち、それによって、私たち自身は大きな影響をうけている。スカイツリーも、おそらく大きな影響を与える建築物となるだろう。(P32)
○現存する二代目の前には、初代通天閣が存在した。第5回内国勧業博覧会の誘致に成功した大阪は、その跡地に娯楽場「新世界」を建設し、中央に通天閣を据え、シンボルタワーとした。/初代は、凱旋門の上にエッフェル塔が乗るという奇抜なデザインだった。・・・しかし、開業からわずか3週間後の明治天皇崩御により、全国の娯楽施設では閑古鳥が鳴いた。初代通天閣も・・・第二次世界大戦のさなか・・・軍需資材として大阪府に献納された。(P78)
○複雑なデザインが災いし、3棟の年間メンテナンス費は約40億円と高額のため建て替えを検討されたこともある。空調やライフライン設備の老朽化も進み、現在は、都庁舎改修プロジェクトのもと、総事業費約762億円をかけ、改修を進めている。(P88)
○神戸市役所の最寄駅は、市営地下鉄「海岸線三宮・花時計駅」だ。駅名にも採用されるほど、神戸市のランドマークとして認知されているのが、市役所北側の花時計である。・・・地域の象徴性と同じ役割を担っている花時計は、1957(昭和32)年に日本ではじめてつくられた。・・・市役所横の大通りは「フラワーロード」と愛称がつけられ、花時計の影響が感じられる。(P100)
JRセントラルタワーズは、左右が非対称な形状のツインタワー。高さも異なる円柱状のホテルタワー、扇形のオフィスタワーから構成されている。・・・通常ツインタワーは対称につくられることが多い。しかし、設計を担当した大成建設によると、それぞれの自立性の表現、直線と曲線、凹凸面とフラット面という相反要素の組み合わせでオリジナリティを演出しているそうで、確かに、見る場所によって大きく表情を変える。/なお、ツインタワーという構造を選んだ大きな理由は、地下部分が地下鉄を挟んで分断されていたため、基礎工事が十分に行えない部分が出てきたためとされる。(P180)

小さな建築

 「小さな建築」って何だろう?

○「小さな建築」とは、寸法が小さな建築ということではありません。私たちが持って生まれた五感が、その中でのびのび働く建築、あるいは私たちの心身にフィットする建築・・・ここはどこ、今はいつ、これは何、隣はだれ、私はだれ…と、いつも感じていられるような建築と場所であってほしい。そのような感覚をもてるのが「小さな建築」です。(P2)

 象設計集団の創立メンバーの一人、富田玲子が自らの(または象設計集団の)建築思想や自らの半生、建築体験等を綴った本。実際には、富田自身が執筆するのではなく、語ったことを編集者の松井晴子らがまとめて本にしている。2007年に出版された時は読んでいなかったが、今回、「建築オノマトペ」が増補されて新版として再刊された。
 象設計集団の作品は出石市立弘道小学校や脇町立図書館を見たことがある。と思ったら、これらは創立メンバーの一人、重村力らのいるか設計集団の作品だった。名護市庁舎などは一度は見てみたい作品だが、雑誌等で見ただけでまだ実物を一つも見ていないことに気付いた。せめて近くにある多治見中学校だけでも見ておかなくては・・・。でも、見なくてもどんな作品、どんな空間が実現されているかは、雑誌等だけでもよくわかる。それだけ個性的でもあり、心地よさが伝わってくる。
 富田玲子と言えば、丹下健三ケヴィン・リンチの「都市のイメージ」を訳しており、東大丹下研究室出身だが、その後、早稲田大学の吉阪隆正研究室に移って、そこにいたメンバーと一緒に象設計集団を創設している。本書でも吉阪研究室の居心地がよく、また吉阪先生の指導方法に親近感を抱いていたことが書かれている。確かに、象設計集団の建築には早稲田の匂いがする。
 第4章「育った家のこと」で幼少期の頃を振り返るが、その頃に、浜口ミホや下河辺淳に自宅を設計してもらった話が出てくる。また、日本国憲法の執筆者の一人、ベアテ・シロタの父親、レオ・シロタに師事したピアニスト、藤田晴子にピアノを習っていたことも披露されている。なんと華麗な経歴であることか。もっともそれで今の地位を手に入れたというわけではなく、そうした経験があって筆者の感性が生まれ、象設計集団の一員として数々の名建築を生み出しているということ。一方で、女性として子育てと仕事を両立させてきた半生がある。だからこそ、象設計集団の設計には血と心が通っている。
 「小さな建築」とは、小さな人間に寄り添う建築、といった意味だろう。そして「建築のよろこび」を歌う。やはり象設計集団はいいなあ。でも創立時のメンバーは軒並み80歳近くになっている。彼らの建築の心は今後どう受け継がれていくのだろうか。本書には若い建築家の名前がほとんど挙がっていないところが少し気にはなる。

小さな建築【増補新版】

小さな建築【増補新版】

○やわらかいもの、自分よりも弱いものが身近にある環境をつくってあげるほうが、犯罪を防げると思っています。・・・暴力に対して力ではなく、やわらかさで対応していく知恵を働かせないと、際限がなくなっていくと思います。(P46)
特別養護老人ホームでは、・・・建物のすべてを自分の家と思ってほしい。草花が咲いているデッキや屋上も全部自分のものと思ったら、豊かな気持ちになるでしょう。・・・誰にとっても「老い」は未知の世界です。だから私たちの願いが、ものごとを感じ取る力を使い果たしてしまったかに見えるお年寄りたちの心に届いているかどうか、じつはわかりません。でもきっと届いているだろうと信じて、私たちは「終の棲家」をつくっているのです。(P83)
○丹下先生は私の案も含め、学生の作品をとても熱心にご覧になっていました。若い人の感性を吸収しようとする意欲が感じられました。だから逆に、林泰義は「丹下研究室に行ったら、持っているものをすべて吸収されてしまう」と思って、高山英華先生の都市計画の研究室に入ったらしいのです。そういえば、私の卒業設計のアトリエ棟の吊り構造の屋根の形は、国立屋内総合競技場に似ています。提出したのは61年だから、私のほうが先。もしかしたら丹下先生はこれを見て、影響されたのかもしれないと私はひそかに思っています。(P172)
○建築の条件はまず第一に、機能的であることです。雨漏りしない、つぶれない、燃えない、風を防ぐ、泥棒を防ぐ、人と物が収容できる、目印になる、使いやすいなどが条件です。/次に求められるのは、心地よいことです。涼風が抜ける、やわらかい光が入る、四季を感じる、広々している、こじんまりしている、自分の居場所がある、わかりやすく迷わない、静けさがある、にぎわいがある、調和があるなど、時と所により心地よさは多様です。/そして機能的で快適であることの先に、「建築のよろこび」があります。わくわくする、どきどきする、うきうきする、きらきら輝く、希望が湧いてくる、踊りたくなる、不思議な感じがする、怖い気もする、みんなで生きているんだなと思える、薫り高い、神秘的…。こんなよろこびが生まれる建築をつくりたいものです。(P248)

38年ぶり、奈良県今井町を訪ねる

 奈良県今井町は平成5年に重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けた歴史ある町並みが残る地区だ。先月、京都へ家族で旅行に行った。土曜日は京都を楽しんだが、翌日の予定がなく、そういえば久し振りに今井町へ行ってみようと思い立った。今井町は昭和53年、大学の卒業設計の対象地区としたところだ。研究室で卒業論文等の研究対象としていたこともあり、先輩等の調査・研究を手伝ったこともある。そして3人の共同設計として、一人は地区隣接の観光センターを、一人は町家の保存計画を、そして私は町並みに溶け込む新住宅の設計を行った。当時は安藤忠雄が「住吉の長屋」を発表して間もない頃で、何と町家に似た形状にコンクリート打ち放しの外観というとんでもない設計だった。そんな住宅が地区内に建築されなくて本当によかった。友人が設計した観光センターの計画地にはちょうど建売住宅の販売がされていた。その友人は今、大手設計事務所で設計部長を務めている。今ならどんな設計をするだろうか。今西家のちょうどすぐ西の地区だ。
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 今井町称念寺を中心とする寺内町として天文年間に建設された。堺と並ぶ自治都市として、周りが環濠で囲まれ、北西角が欠けた特徴的な町割の地区として、現在も多くの民家が建ち並び、美しい町並みを残している。南東角の市営駐車場に止めて、まず今井まちなみ交流センター「華甍」を訪れる。町並みを再現した大きな模型があり、ボランティアの女性が説明をしてくれる。この建物は1903(明治36)年に建設された旧高市郡教育博物館で、昭和4年からは今井町役場として使用されてきた。木造2階建ての立派な建物だ。
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 センターを出て掘割を渡ると、ちょうど目の前をだんじりの山車が練り歩いている。後で確認するとどうも、翌週の本祭りの前の予行演習だったようだが、山車の上に子供たちが乗り、笛や太鼓を鳴らす中、多くの若い男性が山車を曳いていく。その後ろに若い女性たちが付いていたのは子供たちの母親だろう。仏壇店の横、中尊坊通りを入っていく。向きを変える時はなかなか豪壮だ。山車の後を付いていくと「高木家住宅」がある。今井町の民家の多くは事前連絡を要する見学有料となっている。「高木家住宅」だけは事前連絡不要だったので、見学すればよかった。結局、無料の「旧米谷家住宅」しか見学しなかった。
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 高木家住宅から小路を挟んで「河合家住宅」がある。2階が白い漆喰塗りに丸に横棒の虫籠窓が美しい。中尊坊通りは突き当たりとなり南北に道は分かれる。山車は南へ折れて御堂筋を西に向かったが、私たちは北へ向かった。北東角の民家も修景され、むくり屋根と細い格子がきれいだ。本町筋の手前に空地。そして本町筋は狭い路地がカラー舗装され、修景された街灯が並んでいる。狭い路地の雰囲気がすごくいい。
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 本町筋を過ぎたところに「中町筋生活広場」がある。飛鳥の酒船石のような文様が付けられている。そこを通り過ぎると中町筋。通りに面して置かれた鉢やプランターがいい雰囲気を醸している。また軒と庇の高さが揃っているところが見事。家によって2階虫籠窓の形が違うところが面白い。
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 しばらく行くと「旧米谷家住宅」。ここは既に空き家となっているため、市が無料で公開している。母屋を通り過ぎて裏庭に入ると、内蔵と小さな蔵前座敷がある。屋根の上にちょこんと越し屋根が乗っているのがかわいい。
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 「音村家住宅」を過ぎて路地を北に折れ、「上田家住宅」に向かう。「上田家住宅」は玄関脇に2本の門柱が立ち、屋根も小さく段差を付けて軒瓦を複層させるなど意匠に凝っている。今西家等と並び惣年寄を務めていた家だそうで、それにふさわしい立派な外観だ。
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 突き当たると今度は大工町筋を西に向かう。こちらはやや寂れて裏通りの印象。本町筋まで下ってまた西へ。路地の先を山車が通り過ぎていく。「今西家住宅」は本町筋の西の端。北側の玄関前を通り過ぎ、環濠を渡って通りの西側から振り返る。妻面が二重に重なり、手前の妻面には格子模様。そして手前に下見板張り・白しっくい塗りの長塀が通る。学生時代からしっかりと頭に残る今井町を代表する景観だ。
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 帰りは御堂筋を戻る。紙半豊田記念館は新しい民営資料館だが入らなかった。その向かい側には2階つし部分が低い格子窓の民家が並ぶ。「豊田家住宅」は一際大きい商家で2階虫籠窓横のしっくい飾りが左右で異なる。右は明朝風、左はゴチック風。「称念寺」は改修工事中。
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 入口横の「太鼓楼」も立派で市の文化財に指定されている。その向かい側には「今井まちづくりセンター」。中を除くと留守番の男性が相手をしてくれる。今井町町並み保存会の拠点施設で、町家の外観をそのままに内部を住みやすくしたモデルハウスとして改修されている。入口にアールを描いた朱色の壁があり、奥への視線を遮っている。モダンな建物だ。
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 続いて並んでいるのが「夢ら咲長屋」。妻入りの建物に奥に連なって数店舗が並んでいる。今井町の中でほとんど唯一、土産物が買える店かもしれない。続いて「中橋家住宅」。低いつし2階が特徴的。虫籠窓も簡素だ。その東には恒岡醤油醸造本店。これも立派な外観。さらに東へ足を進めると、いくつもきれいに修景された民家が並んでいる。
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 それはさておき、お腹も減ったので先を急ぐ。目当ては「粋庵」。1000円のランチがお値打ちで、もりそばがおいしい。お腹も膨れたので区画の東の端、赤い蘇武橋のたもとに景観重要樹木のエノキが雄雄しく立っている。
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 その向かい側を南に下ると、通りの西側で新築されたばかりの長屋が建っている。写真を撮っていると二人連れの老人が声を掛けてきた。「今井町はどうだね」と聞くので、「土産物屋がないところがすばらしい」と答えると満足そう。「昔は陸の堺と言われた自治都市で、今西家住宅の中には裁判をする白洲や牢屋もあった」と教えてくれる。「今西家の次男は同級生だ」とも。後で確かめると、どうやら今井町の区長や春日神社氏子総代などを務められている澤井穣司さんだったようだ。「だんじりの山車がよかった」と言うと、「今日のは練習で、来週の本番には春日神社にある山車を使う。収蔵してあるので見に行けばいい」と教えてくれた。
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 駐車場まで戻り、教えられたように春日神社まで行って、山車蔵の小窓から覗くと、確かに立派な龍の飾り物がそびえている。いい人たちに会えた。そして誰も人懐っこくやさしかった。民家の多くは修景されて、町並みも38年前に比べれば格段にきれいになったが、土産物屋や飲食店もほとんどなく、昔のままの環濠都市の姿が残されている。それが何よりすばらしい。いつまでもこの環境と景観が残っていってほしい。そのための住民意識は十分に高いようだ。