つくられた桂離宮神話

 「京都ぎらい」以降、井上章一はすっかり有名になった。TVの歴史番組でもちょくちょく見かける。自らの著作に加え、歴史学者である本郷和人との対談本「日本史のミカタ」も出版している。先日、友人から「外国人が見た日本」(中公新書)に「桂離宮とタウトの話が載っていた」というメールが届いた。「桂離宮はタウトが発見した」という俗説を否定する内容だが、「そんなことはとうの昔に井上章一が指摘していた」と書いた、まではよかったが、私自身、その井上の本を読んでいない。それで改めて本書を読むことにした。
 まず驚いたのは、井上章一はこれをわずか30歳前後で執筆しているということである。最近の井上章一の本と同様の表現がここかしこに見られる。30歳にしては随分と老成した文章を書いていたんだな。そして「学術文庫版あとがき」には、「建築史学会からは、会費未納の除名通告」を受けたとある。あれ? 私は、井上章一は建築史家(Wikiにもそう書いてある)と思っていたが、そう書いてはいけないのかな。日本文化史の研究者といった方がいいのかもしれない。
 内容は、ブルーノ・タウトの来日後の言動等から桂離宮神話成立の経緯を確認する第1章、東照宮を巡る情勢や戦時体制下での影響などを検証する第2章と続き、第3章では過去の観光案内書等から桂離宮がいつメジャーな存在になっていったかを検証している。「桂離宮は、タウトが『発見』したから有名になったのではない。拝観制限を緩和したから有名になった」というのは、いかにも井上らしい文章だが、桂離宮に限らず、いかにイメージが作られていくのか、われわれはどこまで時代の風潮に左右されているのかを映し出すようであり、興味深い。井上自身の関心の多くもそこにあるのだろう。
 そういえば昔、内田樹が何かの本に「現代人は人知れず、構造主義的な思考に感化されている」という旨の文章を書いていたが、確かにそういうことはあるだろう。桂離宮だけでなく、我々は何かを、先入観なく見ることはほとんどできない。せめて自分が何に影響されてそれを見ているのかだけは理解しておきたいものだが、それさえも多分おぼつかないのだろう。

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

○昭和初期は、モダニズムの勃興期であった。そして、その文脈のもとに桂離宮が称美され東照宮がおとしめられだす時期であった。ブルーノ・タウトは、そうした時期の日本にやってくる。そして、日本ではそれらモダニストたちとひんぱんにつきあうようになる。もちろん、桂離宮東照宮の見学にさいしても、モダニストたちが同行した。タウトの日本建築理解も、こうした状況と無関係ではないだろう。(P41)
東照宮批判は、明治中期以降の日本美術界にあってはごく常識的な議論であった。伊東ら建築界の面々だけが、これを低く見ていたのではない。……ひとつには、「美術=ファイン・アート」という概念の輸入があげられるだろう。……いうまでもなく、東照宮は表面的な装飾技巧が前面におしだされた建築である。……そして、明治中期とは、「美術」界の指導者たちが、日本にも「美術」を定着させようとしていた時期であった。(P100)
○1930年代といえば、日本における国粋主義の高揚期であった。満州事変の勃発以来、世論はナショナリズムへと傾斜する。……「『日本へかへれ!』の呼び声」は、各界で高まっていく。もちろん、建築界においても同様であった。……タウトが来日したのは、ちょうどそんな時期でもあった。……タウトの言葉は、日本人のあいだでひろがりつつあったナショナリズムをもくすぐることができたであろう。(P118)
桂離宮イメージは、タウトおよびモダニズム勃興前後で大きくかわったというべきだろう。すなわち、技巧美から簡素美へと。桂棚への一定の評価から、それへの黙殺へと。/おそらく、評価のあり方としては、前者のほうが実態にちかい。桂離宮の造形には、さまざまな技巧がたくまれている。すくなくとも、ただ簡素であるだけの建築ではない。だが、一時期の評者たちは……技巧的な側面には目をつぶらざるをえなかったのである。(P128)
ブルーノ・タウト桂離宮の価値を啓蒙したのは、1930年代である。しかし、この時期には、ポピュラリティの上昇はみられない。タウトの「発見」というストーリーは、もういちど考えなおさねばならないだろう。桂離宮は、タウトが「発見」したから有名になったのではない。拝観制限を緩和したから有名になったとみたほうが、より実情にちかいのではないだろうか。(P220)