ニュータウン人・縁卓会議2019 in 港北ニュータウン

 2019年9月22日(日)に、港北ニュータウン内の東京都市大学横浜キャンパスで「ニュータウン人・縁卓会議」が開催された。会議の冒頭で、東京都市大学の室田教授から、ニュータウン人・縁卓会議のこれまでの歴史などが説明された。2006年10月に多摩ニュータウンで開催されたのが第1回。その後、千里ニュータウン(2008年2月)、高蔵寺ニュータウン(2008年5月)、筑波研究学園都市(2009年5月)と開催され、第5回は1年おいて泉北ニュータウン(2011年11月)、さらに西神ニュータウン(2012年10月)と続いたが、その後はしばらく途絶え、2017年になって千里ニュータウンで第7回の会議が開催されている。今回は第8回目。初めて港北ニュータウンで開催される。
 会議の前半は「各ニュータウンからの報告」として、「千里ニュータウン」「泉北ニュータウン」「多摩ニュータウン」「高蔵寺ニュータウン」「千葉海浜ニュータウン」「金沢シーサイドタウン」「ひばりが丘団地」、そして「港北ニュータウン」と、全部の8つのニュータウンから現状と活動状況等について報告があった。私は室田先生に請われて、高蔵寺ニュータウンの現状について報告したのだが、会議の趣旨からして市民活動団体が適任ということで、春日井市から声をかけてもらったのだが、どこも受けてもらえず、結局、高蔵寺ニュータウンだけは市民活動でなく、一市民から見る最近の高蔵寺ニュータウンの状況ということで報告をさせてもらった。高蔵寺以外はそれぞれニュータウン内で活発に活動している市民団体や大学研究者からの報告であり、それぞれ非常に興味深く、また感嘆するものだった。以下、一つずつ簡単に紹介しておく。
 まず、「千里ニュータウン」については、千里市民フォーラムの奥居武・事務局長から「千里ニュータウンは『再生』されたのか?」と題する報告。千里では2000年以降、吹田・豊中の両市が連携して再生の前面に立って動き出した。集合住宅も府営住宅や府公社住宅の建替が進められ、千里中央を中心に人口も増加に転じている。しかし内実は千里中央一強の再生格差が生じているし、高級住宅地化したことにより、新規入居者の高齢化が起こっており、20代の入居者は少ない。そして2025年には再び人口減に転じる見通しが示されている。正直、少し驚く内容だったが、こうした状況を受け、奥居さんは「『再生』に終わりはない。『ニュータウン』は『普通の町』になれない。『ニュータウン』は『ニュータウンの運命』を生きるしかない」と言われた。もっとも、これは単に悲観的な言葉ではなく、「ニュータウンとして生まれたことが代えがたい『町の個性』だ」と言い、「新しい時代における『ニュータウン』像にむけていつまでも向かい続ける」決意だと受け取った。千里は既に次の時代に向けた準備と考察を始めている。
 次に報告をされたのは、「泉北ニュータウン」について、NPO法人「すまいるセンター」の西上孔雄・代表理事。「泉北ニュータウンにおけるストック活用」と題して、スーパー撤退後の空き店舗を障害者など社会的弱者とともに協働することで復活させた「みんなのマーケットプロジェクト」と、空き住戸を高齢者支援住宅やグループホーム等に転用した「泉北ほっとけないネットワーク」の事例を紹介された。特に後者は「ほっとかない郊外」で紹介している内容でもあり、詳述は避ける。ちなみに前者は、障害者勤労の場だから成立しているという側面もあることを正直に説明されていた。
 3番目は「多摩ニュータウン」について、NPO法人フュージョン長池」の前理事長であり、現在は一般社団法人「スマート」代表理事の富永一夫さんから報告があった。フュージョン長池は平成11年に設立したが、現在はニュータウン内、81ヶ所、77haの公園管理と、他の市民グループの支援を行っている。若い職員も採用し、平成28年には理事長を当時30代後半の田所氏に引き継いだとのこと。NPO法人について「ボランティア的に活動するのか、給与を払って自活できるようにするのかは、それぞれのNPOの考え方・やり方次第」と言われていたのが印象的だった。
 4番目は「高蔵寺ニュータウン」について。「半世紀を経て、リ・ニュータウンの取組」と題して、人口は減少しているが、戸建て住宅の居住人口は横バイで減少はUR賃貸で起こっていること。春日井市では高蔵寺リ・ニュータウン計画を策定し、旧小学校施設を活用した多世代交流拠点「グルッポふじとう」の整備や自動運転実証実験等を進めていること。そして現在の課題として、URが集約化を進める高森台団地の再生と廃校にした旧小学校施設の再整備の二つを挙げ、最後に「ブラブラまつり」などの市民活動の状況を報告した。以上、これらの内容は「高蔵寺ニュータウン」カテゴリーでこれまで書いてきたこととほぼ同じだ。
 5番目は「千葉海浜ニュータウン」について、千葉大学鈴木雅之准教授から、「シェアスタイルで海浜ニュータウンを再編集」と題して報告。鈴木氏はNPO法人「団地★未来シフト」理事長とNPO法人「ちば地域再生リサーチ」事務局長も務めている。私は「千葉海浜ニュータウン」がどこにあって、どれくらいの規模のニュータウンかも知らなかったが、幕張新都心の東側と聞けば、何となく想像がつく。約1000ha、11万人という規模のようだ。鈴木先生は従来、NPO法人「ちば地域再生リサーチ」として課題対応の活動を展開してきたが、なかなか成果が見えてこない中、「シェア」をコンセプトに新しいタイプの再生まちづくりを進めていこうとしている。具体的にはまだ構想段階のようだが、これからの展開が楽しみだ。
 6番目は「金沢シーサイドタウン」について、関東学院大学の中津秀之准教授から。「団地の外部空間を住民主体で創り変える方策について」というタイトルが挙げられていたが、残念ながら配布資料はなく、スライドのみ。それでも、「港北ニュータウンと『中川地区』まち歩き」でも紹介した「横浜六大事業」における「金沢シーサイドタウン」の位置付けについてはよくわかった。すなわち、横浜市の旧市街地を「都心部強化事業」として整備するにあたり、従前の工場等を金沢沖の地先を埋め立てて移転するとともに、その陸側に整備された住宅地が「金沢シーサイドタウン」。ふなだまり公園の景観もすばらしかったが、工場地帯との間には高さ6mに盛土された金沢緑地があり、ここをベースに遊べる空間として様々な試みをしているという報告だった。
 そして、7番目は「ひばりが丘団地」。一般社団法人「まちにわ ひばりが丘」の岩穴口康次さんから報告があった。ひばりが丘団地はかつて、現在の上皇が皇太子時代に視察に訪れたことで有名だが、URでは平成11年から建替え事業に着手し、UR賃貸住宅「ひばりが丘パークヒルズ」と民間分譲マンションから成る団地へと再生された。この建替えにあたり、事業パートナー方式として、分譲事業に関わるディベロッパーと共に、団地のエリアマネジメントを担う組織として一般社団法人「まちにわ ひばりが丘」を立ち上げた。短い報告時間の中では全容はわかりにくかったが、分譲住宅の入居者から毎月300円の会費を徴収し、また活動についてはディベロッパーやURからの手厚いサポートがあるように感じた。2020年から理事・監事を住民に移行するということなので、今後どう展開していくか興味を持って見ていきたい。
 最後に、「港北ニュータウンと『中川地区』まち歩き」で道案内をしていただいたNPO法人「ぐるっと緑道」の塩入廣中・理事長から、「中川駅周辺地域の住民参加のまち作り」と題して、中川ルネサンスプロジェクト等の活動の報告があった。パチンコ店反対運動から始まった「中川駅周辺のまちづくり考える会」の活動が、横浜市の地域まちづくり条例の制定ともに次第に発展し、センター北地区の整備に伴い、撤退店舗の発生により空き店舗が目立ち始めるようになると、商業地域の活性化に軸足を移し、活性化イベントやコミュニティカフェの開店、そしてヨコハマ市民まち普請事業を活用した「花と緑のまちづくり」活動を経て、2016年には「都筑区まちづくりプラン」を受けて、住民主体による「中川まちづくりプラン」を作成している。
 以上、各ニュータウンからの報告は終わり、後半はワールドカフェ方式によるディスカッションが行われた。
 私は、ワールドカフェ方式自体は知っていたが、実際に経験するのは初めて。最初、最初6人ずつ程のグループに分かれて、簡単な自己紹介の後、「ニュータウンの新たな役割を考える」というテーマの下、思い付いたことを付箋に書きながら説明していく。30分程の作業の後、一人を残してテーブルを変え、新しいテーブルで前のグループの意見を確認した後で、さらに新しいグループでの意見を述べ合う。最後は自由に各テーブルを回り、残されたメモを読んで、どんな意見交換がされたかを確認していった。
 ただ、全体のまとめなどは行わなかったので、一人ひとりがグループ作業の中で感じたこと、考えたことなどをそれぞれ胸の中に刻み込むという感じ。私からは、「ニュータウンは普通のまちになれないだろうか」とか、「ニュータウンをいかにスムーズに縮小していくか」といったことを主に話していたが、手元に残したメモもなく、今となっては何を話したか忘れてしまった。
 最後に、各ニュータウンの報告者8名に対しての質疑応答。そして、縁卓会議実行委員会メンバーの研究者の方からの総括的な話があって全体のプログラムは終わった。私からは高蔵寺ニュータウン春日井市との関係を念頭に、「行政の論理、企業の論理、市民の論理はそれぞれ異なるので、それらをよく弁えた上で、全体をコーディネートする存在が重要ではないか」といった話をさせてもらった。
 終了後、懇親会があり、他のニュータウンの報告者、特に奥居さん、西上さんと色々と話をさせてもらったが、千里でも多摩でも、既に市民活動は二代目の世代が担うようになってきている。高蔵寺ニュータウンを振り返ると、40代・50代の方が中心となって活動している市民グループもあるが、60代・70代の世代と円滑に世代交代したという話は聞かない。世代の断絶があるような気がする。あっても別に構わないような気もするが、もったいないようにも思う。今回、高蔵寺ニュータウンから参加したのは私一人。もっと多くの人が縁卓会議に参加して、他のニュータウンの状況を知ればいいのにと思う。個人的には収穫の多い会議参加だった。各ニュータウンで様々な活動が展開されていることは刺激になったし、また一つとして同じ課題や活動の展開がないことも興味深かった。「ニュータウンはいつまでもニュータウン」とは奥居さんの言葉だが、「各ニュータウンは各ニュータウンでしかない」ということも今回、奥居さん他に教えてもらった。楽しい会議だった。

港北ニュータウンと「中川地区」まち歩き

 港北ニュータウンで「ニュータウン人・縁卓会議」が開催された。私は高蔵寺ニュータウンの現状を報告するために参加したが、会議前の午前中、港北ニュータウンのまち歩きツアーがあったので、まずはそれに参加した。
 横浜市営地下鉄「センター北」駅の直上にある「ショッピングタウンあいたい」の5階コミュニティルームで、まち歩きのコースや主旨の説明があった。説明いただいたのはNPO法人「ぐるっと緑道」の塩入理事長。2019年3月に横浜市都筑区が策定した「緑道再整備ガイドブック」の抜粋コピーを資料に、ざっと港北ニュータウンの特徴などを説明された。
 午後の会議の中でも説明があったが、港北ニュータウンは昭和40(1965)年に横浜市六大事業の一つに位置づけられ、日本住宅公団により開発が行われた。ちなみに「横浜六大事業」とは、「都心部強化事業」「港北ニュータウン建設事業」「金沢地先埋立事業」「横浜港ベイブリッジ建設事業」「高速道路網建設事業」「高速鉄道(地下鉄)建設事業」の6つ。これらはいずれも建設が完了し、現在の横浜市の都市構造の骨格となっている。
 港北ニュータウン開発の計画的特徴として、「グリーンマトリックスシステム」が挙げられる。これは全面買収方式に比べて緑地やオープンスペースの確保に制約のある土地区画整理事業で開発が進められる中、地区内の緑道を主骨格に、隣接する集合住宅や学校、企業用地などの斜面樹林等の民間の緑を公共の緑と束ねて連続させ、地区全体の空間構成としたことを言う。確かに昨年、一人で「港北ニュータウン」を歩いてきた際にも、緑の多さは魅力的だった。ニュータウン全体をぐるっと囲む緑道網に加え、ニュータウンの中央部を東西に横断する形で早渕川が流れ、また地区の北と南の端には、農業専用地区が設けられている。
 ちなみに、緑道は開発前の谷戸(谷地形)に沿って設けられ、緑道の両側に接する部分にある民間の保全林や植栽林は、保存緑地として土地所有者と横浜市で協定を結び、税制上の優遇措置などがとられている。また、緑道は主要な公園を環状に結ぶとともに、駅や公共施設と緑道とを自動車歩行者専用道路が結び、安全な歩行者ネットワークが形成されている。
 今回は、昨年と同様、「センター北」駅から北へ伸びる歩行者専用道を進み、緑道に突き当たってからは、前回は東へ進んだが、今回は西へ地下鉄ブルーライン「中川」駅まで歩く。駅直上の「ショッピングセンターあいたい」が開業したのが1998年。観覧車もある「モザイクモール港北」が開業したのは2000年で、その他の商業施設もまだ20年以内の比較的新しい商業地区である。また、大型商業施設の周辺は、間口が狭く奥行きの長いバーコード換地が多く、ペンシルビルも多いと言っていた。

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「センター北」駅前
 前回同様、歩行者専用道路を歩き、陸橋で幹線道路を越え、民間ディベロッパーが分譲したと思しき住宅地を抜けると、右手に神社があり、緑道に入っていく。この緑道を「くさぶえのみち」と言う。中心にせせらぎが流れ、その両側をウォーキングする人、ジョギングする人が通り過ぎていく。せせらぎの上流へ向かう。途中、幹線道路である「区役所通り」の下をくぐるトンネルの形が楽しい。
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くさぶえのみち
 区画整理のゆえか、墓地があったり、農地が残っていたりする。農地には「防災協力農地」の立て札が立っていた。緑道の北側に1列、戸建て住宅が並ぶが、かつては茅葺屋根の民家が並んでいたという。そうして歩いているうちに、山崎公園に到着した。
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防災協力農地
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茅葺き屋根の民家が並んでいた
 幹線道路の下をくぐると、ちょうど池の掃除をしていた。釣り人も多くいる。広い円形の芝生広場もあり、春には周辺の桜が満開の花をつけると言う。プールへと向かう緩い坂道の脇にせせらぎの源流がある。井戸水をポンプで汲み上げて流しているそうだ。プールと手前の公園はガウディ風のモザイクタイル張りになっている。さらにその奥では里山保全工事が進められていた。
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山崎公園
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せせらぎの源流
 その先の中川西小学校の南の通路はかつては桜のトンネルだったが、今は南側の常緑樹が育ち過ぎてしまい、北側の桜も高木となってしまった。そこで常緑樹の伐採なども行われていると言う。公園を抜けたところで左側の視界が開ける。すぐ下に広がる農地ではキウイを作っているとのこと。その先には早渕川沿いに緑が広がっている。そこから北へ上がる道は「富士見のこみち」と呼ばれている。左手にハウスクエア横浜の大きな建物を見つつ北上すると、右手に緑道に面して噴水池もある、緑豊かで気持ちよさそうなマンションがある。「港北ガーデンヒルズ」。三井不動産等により1990~91年に完成した603戸の大規模マンションで、分譲当時はかなりの人気だったという。
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港北ガーデンヒルズの緑
 にしっ子通りと名付けられた道を進んでいくと、中川駅前の「中川歩道橋」に着く。鋳物風骨組みのガラス屋根が特徴的。なぜかローマ風のオベリスクも数本並んでいる。中川歩道橋から駅へ降りる階段の蹴上部分に絵が描かれている。これはNPO法人「ぐるっと緑道」などによる中川ルネッサンスプロジェクト(NRP)の一環として取り組まれたもの。NRPの表示がある案内板も置かれている。
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中川歩道橋
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案内板
 さらに東京都市大学へ向かう中川駅前商業地区内の中央遊歩道「花と香りのみち」には、花壇やベンチなどが多く置かれている。これらも中川ルネッサンスプロジェクトの仕事。これらの活動には「ヨコハマ市民まち普請事業」の助成金が利用されている。
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「花と香りのみち」の花壇
 「センター北」駅から「中川」駅まで、歩いてみればわずかな距離だが、実に緑が豊富で、港北ニュータウンの良さを感じることができた。また多くの住民によって愛されていることも。うらやましいと言うしかない。

夢みる名古屋☆

 ふわふわとしたタイトルで、流行のナゴヤ本かと思ってしまう。だが内容は強烈な都市開発批判だ。過激な超左翼と言ってもいいかもしれない。だが、読み進めると、名古屋・愛知県の戦前から戦後にかけての、今はほとんど語られることのない歴史が明らかにされ、こうした見方もあり得るということは理解できる。
 まず「はじめに 名古屋という難問」で「私はね、好きじゃないんだ、この街は。」(P006)と強烈に名古屋への嫌悪を語る。ちなみに、筆者は愛知県立旭丘高校中途退学というから、名古屋には多少の縁はあるはず。東日本大震災を受けて、東京から愛知県春日井市へ移住した。文中でもかなり具体的に名古屋などの街を詳述している。
 「はじめに」で以下にように書く。

○都市開発は、地域に固有の文化をはぎとり、平板なものにならしていく。その典型的なプロセスを示したのが名古屋である。……近代都市計画、モータリゼーション、そして、ジェントリフィケーションへ。それはどんな歴史をもった都市であっても「名古屋のような街にされてしまう」ということである。……名古屋の都市の歴史を知ることは、現代の都市が一般的に直面している脅威を考えることでもある。(P012)

 第1章「1918鶴舞」は、近代都市計画批判である。名古屋では都市計画の父として評価の高い石川栄耀を第一の戦犯として批判する。

○石川栄耀は都市の未来を説く都市整備事業の宣伝マンとなる。……石川たちが事業の主眼においたのは、地主たちと銀行家たちをその気にさせ、区画整理組合を形成させることだった。石川は饒舌に語る。なぜなら、その都市改造の結果について、内務省が責任を負うことはないからである。彼は自由に夢を語ることができる。内務省の権威と、あらkぁじめ免責されている自由さが、人びとを魅了していく。そうして名古屋は全国でもっとも先進的な都市改造のモデル地域となるのである。(P027)

 ここで、矢部が紹介する事例が興味深い。1924年、東京で関東大震災後の復興にあたり、土地区画整理事業をめぐり、地主と内務省との間で繰り広げられた論争だ。「道路が拡幅されれば、そこに面している土地は恩恵を受けるのだ。土地の一部を無償で提供しても、それを上回る利益があるのだ」(P028)と主張する内務省復興局に対して、「道路が拡幅されることで、路面の利益が損なわれてしまう……道路は適度に狭くなければ、買い物客の賑わいが失われてしまう」(P028)と主張する小売商人たち。矢部はさらに「住民にとっても歓迎できない話であった。住居には、外界から保護されている感覚が必要だ。住居に面した通路は……ある程度は閉ざされていることが望ましい」(P029)と書く。
 しかし東京ではなかなか進まなかった復興都市計画も、名古屋では大々的に実行されていく。それはたぶん、名古屋の商業集積が東京ほどではなかったこと、そして第2章「1965小牧」で書くように、名古屋は産業都市だったことが要因だと思われる。

○名古屋は、商人資本が相対的に弱く、産業資本が圧倒的に強いという特徴をもっている。……商人資本は大阪と東京に向かって集積を強め、……産業資本は……あいだ……を埋めるように工場を建設し……ていくのである。……私たちが通常イメージする大都市の姿とは、商人資本によって人と物と情報が集積する都市であって……都市というものをそのように定義するのなら、名古屋は都市ではない。ここは東海道メガロポリス工業地帯の結節点のひとつにすぎないのである。(P090)

 このことを表現するのに、矢部は第3章「1898世界デザイン博覧会」で次のように書いている。

○愛知と岐阜はほとんど同じ文化圏であるはずなのに、どうしてこうも違うのかと首をひねるぐらいに、岐阜はおしゃれ。……名古屋の街にはまったく色気がない。名古屋の街は直線的で、大振りで、なにもかも産業的で、細部の仕上げがガサツである。……高度に発達した産業都市は、街を乾燥させ、人間をガサツにしてしまった。(P171)

 案外、当たっているかもしれない。
 第1章後半では、戦災復興都市計画について以下のように批判する。

○戦災復興都市計画は、内務省の最後の大事業であった。それは“戦後”“平和”という看板を掲げながら、ファシズムの時代の思想を億面なく発揮する機会になったのである。……名古屋の戦災復興都市計画を推進したのは、二人の内務官僚出身者、佐藤正俊・名古屋市長と、田淵寿郎・名古屋市助役である。名古屋を“もっとも魅力的でない街”にした戦犯は、この二人だ。(P049)

 石川栄耀にしろ、田淵寿郎にしろ、名古屋の都市計画の父と崇められている。そうした見方からすれば本書などトンデモ本の極致となるだろうが、矢部のように、人間的な猥雑さこそ都市の魅力と考える立場からすれば、当然こうした評価になることは理解できる。
 第3章「1989世界デザイン博覧会」の終盤で、矢部は以下のように書く。

○1990年代以降……上京する移住者たちは……生まれ育った地域に生活の荒廃を読みとったから移動するのである。ここで考えられるべきは、東京の求心力ではなく、地方の遠心力である。……人口の過密・過疎は、欲望の過密・過疎の反映である。生活文化をめぐる欲望の舞台となることが、新しい都市の条件になる。……東京には、人びとの野心と能動性を受けとめる社会があった。……異種混交的で、もしかすると革新的な、生活空間があるのだ。(P194)

 近代都市計画が今の名古屋を作ったとして、では今後はどうなるのか。どうすべきか。現在の都市計画者に求められるのはそういうことだ。思想家である矢部氏が書くのは、現状及び過去に対する批判である。今も東京をめざす人の流れは変わらないかもしれない。だが一方で、地方へ向かう流れも次第に太くなりつつあるように見える。その時に、地方に猥雑なリトル東京を作ってもそれはたぶん違うだろう。その地方にしかない街、アイデンティティのある街が求められているような気がする。矢部氏が言うような岐阜県のような街か? でもそれは愛知県や名古屋にとっても同じこと。
 一方で、矢部氏が批判する「大きな都市計画・都市開発」は今後どうなっていくのか。かつて私は、行政の土木担当者に「道路はどうやって縮小していくのか」と聞いたことがあったが、彼らはあっけに取られた顔をしていた。人口減少時代のインフラのあり方について有効な意見や研究はあるだろうか。もしあればそれを読んでみたい。
 最後に蛇足だが、本書の中で、トヨタ自動車の経営手法、大須事件、そしてベトナム戦争の発端に関する記述があった。これも興味深かったので、以下に引用しておく。
 全体的にかなり現状批判的な本だが、糧になる部分もけっして少なくない。せめて未来は正しい方向へ進むといいのだが、何が正しく、何が明るいかは人によって異なる。多くの人びとにとって、未来の人びとにとって。都市計画者にできることは何だろう。

○自分たちは、フォードのような自社一貫生産をめざすのではなく、名古屋中の中小企業を自動車産業に巻き込んでいくのだ、という大方針をたてたのである。……それは、初発から問題となっていた製造コスト問題は、下請企業のネットワークによって解決していく、ということである。……発注者の優越的地位を利用して下請にコスト削減を迫り、“乾いたぞうきんをさらに絞っていく”と表現されたトヨタ自動車の手法は、すでにこのときに定式化されていたのである。(P035)
大須事件が特徴的であるのは、警察が圧倒的武力で制圧し、名古屋地裁が大量の有罪判決を出したことである。……これは騒擾事件というよりも、警察による一方的な陸虐事件と言ったほうが正しい。……大須事件は、サンフランシスコ講和条約後の日本権力の回復をまざまざと見せつける事件となった。(P072)
○1954年、……ベトナムの主権は南北に分割され、北度17度線を暫定的軍事境界線とした。……ジュネーブ協定では、停戦から2年後に統一選挙をおこなうこととした。第二次インドシナ戦争の発端は、南ベトナムのゴー・ディン・ジェムが南北統一選挙の実施を拒否して政権に居座り、アメリカがそれを支持したことから始まった。(P081)

 最後にもう一つ、「あとがき」の最後に、「衛生概念」について書いている。それも引用しておきたい。筆者の次の課題ということのようだ。

○衛生概念は、近代都市計画の時代から現代のジェントリフィケーションにいたるまで、行政権力の重要な武器になってきたものである。衛生概念は、専制政治と親和的で、文化に対して排他的である。……衛生概念は、文化に対する迫害、統制、禁欲に、正当性を与える重要なイデオロギーであり続けている。(P222)

夢みる名古屋

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