三低主義

 建築家・隈研吾と社会研究家の三浦展の対談本。両者ともここ10年近く注目してきた人たちだけに本書を読むのを切望していた。その期待にそぐわない興味深い本に仕上がっている。かつ読みやすくわかりやすい。

 戦後建築家の第1世代と言われる丹下健三や第2世代の磯崎新黒川紀章らは、高層で高圧的で高尚な建築を作ってきた。これを「三高主義」と例える。安藤忠雄伊東豊雄の第3世代は、軽くてチープで安藤に至っては出自も「低」を売りに、旧世代の「高」に対抗する。しかし、これは隈自身があとがきで書いているとおり、建築家という看板を掲げて仕事をしていること自体が「三高」である。その中でも隈研吾は、保存系、和風系の仕事をこなし、「三低主義」にこだわってきた。

 これが三浦の言う「シンプル族」と呼応する。リノベーションと言っても今や、R不動産を代表されるようなブームとさえ言える状況になっており、既に「三高臭」は漂い始めているのかもしれないが、「三高」から逃れられない建築家という自己認識も踏まえて、「三低」の視点から、都市づくり、建築物を見ていく。

 そこでは例えば「都市のイオン化」が否定され、コルビュジエや宮脇檀が再評価され、ルドルフ・シンドラーが持ち上げられる。アレグザンダーですら斬り捨てられる。

 第3章は「借りる建築、借りる都市」。私有が日本人を、日本の都市や建築をダメにしたと斬り捨て、コーポラティブ賃貸やコレクティブな住まい方、シェア居住等が話題となる。「シェア」は三浦展の最新刊「これからの日本のために『シェア』の話をしよう」でも取り上げられている三浦の最近の関心事項だ。

 最後のほうで、隈が「建築の設計っていうのは、結局すべて『場所のリノベーション』じゃないか」とつぶやく。建築するだけでなく、ほっておくことですらリノベーションではないか、と。

 都市や建築が偉大であったのは、かつて全てのモノは都市や建築に関わって存在したから。だが、ネットやデジタル環境が人間にとってその存在感を増すにつれ、都市や建築は相対的に小さくなってきた。相対化され、身近になった。「三低主義」とはそうした時代の必然の産物だと思う。なぜ「三低主義」なのか。そのことを考えてみるのもまた面白いかもしれない。

●かつての都市や建築は「偉大」であることがテーマだった。だから「高圧的」だった。近代になると、さらに「高層」の建築がいいということになる。ポストモダンになると、思想的にも「高尚」な建築は好まれもした。/ところが今は、そんな偉大で高層で高尚な、つまり「上から目線」の建築なんてものを求める人はあまりいなくなった。・・・むしろ、低層、低姿勢(かわいい)、低炭素、あるいは低コストなどのほうがよいと思われ始めている。(P7)
●ある種の男根的な計画は実際に実現してしまうと、計画では作れないような猥雑性が自然発生的に余白の部分に育ってきて、そこが男根的なるものの悲劇性を垣間見せてくれるようで、僕にはとても魅力的ですね。・・・僕が一番手におえないのは20世紀の官僚たちの手による中途半端に男根的な都市計画ですね。いわゆるニュータウンってやつはだいたいそうですけど、あれは科学ってコンドームをかぶった男根なんだよね。(P46)
●日本人は私有すると自分勝手になってだめになる。パブリックの観念が希薄になる。・・・ところが借地借家だと、もともと公共財を共有している、たまたま今は自分が借りて使っているという意識が働きますから、かえってパブリックな意識が醸成されるという面もあると思いますね。(P116)
●壊れることがそもそも宿命である建物、美しく風化することを受け入れざるをえない建築という弱い存在をつくっている人間として、建築を商品として分譲するという仕組み自身が非人間的だと僕は思う。(P214)
●建築の設計っていうのは、結局すべて「場所のリノベーション」じゃないかって、最近よく思うんだよね。・・・なんにも建てずに地面をそのままほっておく、なんていう行為も、場所のリノベーションには違いないわけで、ほっておくっていっても、完全にそのままフリーズするっていうのはない。そもそも無理なわけで、雑草がはえてくるとか、ほこりがたまってくるとか、必ず何か手を加えてそこをリノベしたことになるわけで、新築もほっておくことも、どちらも場所っていう切断しようのないとてつもなく大きなものに対する愛情表現なんです。(P220)