●日本の「地域づくりの視点」は、先に欧米の器や制度を「技術的・表面的」にみて、その技術・表面を日本にそのまま持ち込んで、それに「市民が合わせることを強要」されている。・・・日本は専門家、自治体から商店主まで、公益と市民への配慮が感じられない。(P204)
第6章「市民と地域が豊かになる『7つのビジョン』」の最後に書かれた文章である。まさにそのとおりだと思う。「7つのビジョン」については、この章の始めに書かれている。それをそのまま書き出すことはしないが、要は「『市民』と『交流』を重視した地域づくりをめざせ」ということである。
このことに異議はない。しかし「はじめに」から強烈な批判で始まる。批判の対象は「土建工学者」だ。
●衰退する地方都市には、象牙の塔に暮らす土建工学者の夢想で造られた「同じような顔の器や箱物」が数多く存在する。そうした「無個性な器」は、地域市民から愛されず、利用度も芳しくない。それを土建工学者は「成功事例」として賞賛し、その模倣を他の地方都市に奨励する。このような虚構が今もなおまかりとおっているのである(P012)
え! 「はじめに」から絶句してしまった。「土建工学者」とは誰? 本文をたどっていくと、どうやら「土木、建築、都市計画、都市工学の技術分野の学者」(P171)のことらしい。私の少ない交流の範囲では、確かに筆者がステレオタイプで描くような学者もいないことはないが、多くは「市民主体」や「利用者目線」の重要性を理解しているし、その趣旨の発言をすることがほとんどである。
もう一人、筆者が批判の対象とするのが、「自治体職員」である。こんな文章がある。
●商店街再生は企業再生と同じように「選択と集中」が不可欠なのである。企業再生の場合、資源・事業の「選択と集中」の判断は、・・・全体を統括する経営者が行う。同様に、商店街の存続・支援の「選択と集中」の判断も、現場つまり各商店街ではなく、自治体が行うべきだろう。(P056)
え! ホントですか? 確かに補助金の交付先を決定するのは自治体だろう。しかし自治体職員に「選択と集中」の権限が委ねられる事態は望ましいものではない。権限は「市民」にこそ委ねられるべきだ。そしてほとんどの自治体では、この種の補助金の交付先の選定については、客観的な基準に拠っているはずだ。そうでなければ、選定されなかった商店街の衰退について、どうして自治体が責任を取れるのか。
優秀な自治体の事例として(「成功事例を模倣するな」と言いつつ、優良事例の紹介があるのが、面白いといえば面白いが)、岩手県滝沢村と佐賀県武雄市が紹介されている。しかしこれらの自治体で政策の決定を行ったのは首長である。そして首長が職員の怠慢を嘆くおなじみの言説が紹介されている。違うのだ。職員は責任を取る人間が現れれば優秀に働く。無責任になるのは、責任を押し付けられるからだ。20年30年後の結果責任を押し付けることができる相手は、現状では自治体しかない。だから自治体職員は後輩を苦境に立たせることがないよう、首長の命令がなければ極力動こうとしない。つまり責任を取るべきは、首長であり市民である。
こうした大きな勘違いを除けば、商店街の衰退に対する基本的な認識は正しい。「商店は過剰」であり、今後の商店街は「交流の場」として位置付けることによってのみ存続しうる。しかしそのためには商店主だけに委せては難しい。交流の場の創造と維持は経営的には成り立たないから。
第9章は「公益支援は交流を促す公益空間に集中する」というタイトルが付いている。その指摘は正しいと思う。P246に書かれている具体の提案は、要約すると、「市民主体で公益空間の計画を策定し、公益空間の土地の減免措置や集中的な開発・公的支援を行え」ということである。たぶんかなりリーダーシップを持った首長の存在と私利私欲に走らない多くの市民の理解が必要だろう。また一部の反対派市民の異議に議員が易々と乗らない政治的風土が必要だ。それは現在の日本では、よほど小さな自治体でなければほとんど難しい。
しかも、公益空間は商店の経営的な発展を直接にはもたらさず、市民の愛着と交流の場として維持していくのだ。「地域の再生とは何か?」「市民と地域が豊かになるとはどういう状態を言うのか?」 この点についての深い意味での市民合意が必要だ。
この本に点数を付けたら何点になるかと読みながらずっと考えていた。90点? 80点? 読み進めるに従い点数が下がり、最後は50点かなと思った。提案の実現性と提案実施後の満足度を考慮するとそんなもんだろう。「地域再生の本質は、経営的な発展ではなく、地域の存続である」。このことが十分説明されていれば、もっと点数をあげられるのだが。もっともそうすると本書の売上や筆者のカリスマ度は下がるような気がするが・・・。
●根本問題の本質は「商店の過剰」にある。・・・「商店の数が多すぎる」ことを出発点として商店街再生の方法を考えれば、論点はつぎの二つに収束する。ひとつは「どの商店街を残すか?」、もうひとつは「残すと決めた商店街を、それぞれどのように支援するか?」。つまり「選択と集中」が求められるのである。(P055)
●もともとスローフード発祥の地イタリアでは、スローフードの<本質>は、家族や友人など身近にいる大切な人と余計な金を使わず、ゆっくりと楽しい時間を過ごすことにある。つまり、スローフードの本質は「大切な人との交流」という一点に尽きる。(P080)
●地域再生とは、・・・今時の若者たちに、彼らの暮らしを営んでいる地域を愛してもらい、地域に定着してもらえるための仕組みを創ることでもある。(P104)
●西欧人は老いも若きもアクティブだ。人と交流することが好きで、人が集まる賑やかな場所に毎日のように出かける。彼らの交流は損得勘定ぬきで、彼らは論理的ではないユーモラスなお喋りを延々と楽しむ。スローフードの本質はここから生まれた。・・・西欧人がコンパクトな環境に住むことは、彼らのライフスタイルを実現し、幸せになる手段である。ここにコンパクトシティの本質がある。(P153)
●日本の「地域づくりの視点」は、先に欧米の器や制度を「技術的・表面的」にみて、その技術・表面を日本にそのまま持ち込んで、それに「市民が合わせることを強要」されている。・・・日本は専門家、自治体から商店主まで、公益と市民への配慮が感じられない。(P204)