コミュニティと都市の未来

 タイトルを見て衝動買いしてしまったけど、吉原直樹って誰だっけ? 少しイヤな予感もしつつ、「いつか見たことがある」と思って調べてみると、「コミュニティを再考する」の筆者の一人だった。この本を読んだ時に、吉原氏の書いた章はかなり難解で、どこまで理解できたかおぼつかなかった。また同じ文章を、今度はまるまる1冊分読むのかと思うと少し気鬱になったが、市の図書館が閉館中なこともあり、他に読む本もなく読み始めた。
 まず、第1章が難解である。イリイチに即して「生きられる共同性」について語るのだが、グローバリゼーションが進行する中で、「創発的なもの」と「節合」の重要性を訴えることの意味は何となくわからないでもないが、モダニティや<脱埋め込み>・<再埋め込み>など、専門的術語を駆使されると、何が書いてあるのかよくわからない。
 これは困ったと思いつつ読み進めていくと、第2章における漱石や鴎外らによる都市観、第3章のジェイコブスとフロリダからみる「多様性と寛容さ」など、次第に読みやすい内容となってきてホッとした。さらに第4章「『美しいまち』と排除の論理―自閉するまちづくりと『異なるもの』」では、具体にバリ島でのアジェグ・バリ(バリ復興運動)の実態の報告と批判、第5章「安全・安心―コミュニティの虚と実」における具体の防犯まちづくりをベースにした議論となり、ようやく筆者の言わんとすることが見えてきた。
 第6章「新しいコスモポリタリズム」はやや難解。第7章「サロンとコミュニティ」では大熊町の避難者サロンの事例、第8章「弱さと向き合うコミュニティ」では横浜の郊外住宅地におけるダウン症の子供を持つ親の実話と、具体的な実例紹介の部分はよくわかる。終章「多様性と差異のゆくえ」で、ポスト都市共生における差異と不安定性を自明なものとしてのコミュニティについて述べるが、それはいいとして、ではどうすればそういう方向に向かうのかはやはり見えてこない。
 社会学者は、現状や過去を分析し将来を描くが、その方策までは考えないということかもしれないが、その点はやや物足りない。とは言っても、一発逆転の秘策があるわけもなく、グローバリゼーションやネオリベラリズムなどが進行する中で、人びとの社会認識や世界観がいかに変化していくかということとの相克の中にコミュニティの未来もあるのだろう。タイトルに即して言えば、都市もまた同様と言えるかもしれない。非寛容時代における都市のあり方が問われている。

○近隣の多様性に根ざす、外から開かれた流動的で多重的なネットワークはそれ自体、年の「総合性」を示すとともに、ある種の自治機能を豊かに湛えている。したがって、自治とはまさに多様性のひとつの表現となるのである。(P114)
グローバル化の進展によって「境界」や差異が消滅してしまうことに危機感を募らせ、自分たちの文化が移民の「侵入」によって不純なものになっていると考える。そこで文化の伝統を守るために異文化を排撃しようとする。……グローバリゼーションの進展とともに……ガバナンスがまさにガバメントの再編として現れてきている。……いまやネオリベラリズム的なガバナンスにおいてコミュニティは中核的な位置を占めている。(P159)
○「非効率である」とか「脆弱である」などというレッテルを貼られてきた……関係的資源は、日本の町内や近隣が歴史を超えて……担保してきたものでもある。……そこでは階層的違いや文化的な差異が……複雑に交錯しながら、位相的でハイブリッドな関係性・集合性を織りなしてきたのである。そしてこうした関係性や集合性に弱さや非効率的なものが取り込まれ、コミュニティのダイナミズムを構成してきたのである。(P253)
○都市の多様性を前提にするなら、都市共生に差異および不安定性が生じることは当然である。しかし……実際には、都市にたいして複数のアイデンティが存在するにもかかわらず、差異および不安定性を無視して「皆が同じであること」を大義名分とするまちづくり、コミュニティ形成を強制しているのである。……このようなまちづくり……は……人びとを……内向きの閉じた同一性の連鎖の世界に閉じこめることになっているといわざるを得ない。(P257)
○人と人をつなげていくものが杳として方向性が定まらないこと……そのことが都市共生にとって要になっている……。そうした不安定で不確定なつながりがさまざまな混沌となって立ち上がってくるところに、都市の魅力があるといえる。むろんその混沌は、内に閉じていくのではなく、外に開いて人と人とのあらたな出会いの機会を作りだすからこそ、人びとを引き寄せることになるのである。それはあらたな場における他者性の再獲得にもつながっていく。(P259)