おいでん・さんそんセンターと足助の町並み

 2002年から2004年にかけて、足助町役場で働いていたことがある。その後もしばらくは現地に行って、当時の仕事仲間や定住した家族に会いに行ったこともあったが、ここ10年ほどはほとんどご無沙汰している。「三河山間地域の定住施策―愛知県交流居住センターの活動」では、足助町を含む三河山間地域の定住促進に係る仕事を継続している(一社)地域問題研究所の加藤さんから話を伺ったが、それも5年前の話。今回、(一社)日本建築学会東海支部都市計画委員会主催で見学会が開催されたので、楽しみに参加した。

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足助川と真弓山
 ちょうど当日は足助まつりの開催中で、町内ごとに、桃の造花を飾った山車(花車)が足助の古い町並みの中を引き回されていた。まずは、豊田市足助支所で、(一社)おいでん・さんそんの代表理事でおいでん・さんそんセンター長である鈴木辰吉氏から話を伺った。ちなみに足助支所はかつての足助町役場であり、今は閑散としているが、当時の様子を思い出し、懐かしかった。
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足助の町並み
 鈴木さんは豊田市合併前の旧旭町の出身で現在も在住。高校卒業後、豊田市役所に就職し、都市計画や農政、そして産業部門で長く働いた後、産業部長、総合企画部長を経て、2013年に退職。現役時代から奔走して、2013年8月、当センターを設置。2017年には(一社)おいでん・さんそんを設立し、その代表理事になっている。
 冒頭、合併後の豊田市は日本の縮図だという話をされた。森林面積が総面積の68%、市域の2/3にあたる山村部に居住する人口はわずか5%。これらの数字は日本全体とほぼ同じだと言う。2000年9月の東海豪雨を経験し、豊田市では都市と山村はひとつながりの運命共同体だという認識の下、山村地域の様々な課題解決に取り組みだした。2005年には上流部5町村と合併し、豊田市全体では人口42万5千人の都市になったが、合併した5地区では合併後の10年間で14.2%の人口が減少している。都市部では人口増となっているが、市全体では微増からほぼ横ばいといった感じ。山村部の合併前10年間の人口減少率は8.6%であり、合併により人口減がさらに加速している。ただしこれについては、役場職員が合併により都市部勤務になるなど、合併による行政合理化の影響が大きいと説明をしていた。
 おいでん・さんそんセンターの設立趣旨として、都市と山村のお互いの強みを生かし、弱みを補う中間支援組織と説明しており、特に都市部の高齢者等の生きがいの場として山村部を生かすという趣旨から「いなかとまちのの人・地域・団体・企業が『つながる』プラットホーム」と位置付けている。具体的には、(1)いなかとまちの交流コーディネート、(2)いなか暮らし総合窓口、(3)「支え合い社会」の研究・実践、そして今年度から(4)豊森なりわい塾の事務局と(5)里山くらし体験館「すげの里」管理の各事業に取り組むとともに、NPOや研究者等が参加するプラットホーム会議と様々なテーマによる専門部会を設置している。
 まず、「いなかとまちのコーディネート」事例としていくつかの事例を紹介いただいた。一つ目は、人材派遣・紹介会社man to man(株)が社員教育の一環として耕作放棄地を自社専用ファームとして活用し、会社からは地域に対して一定の経費を支出する一方、地域は農作業支援を行っている事例。また、足助高校と地元の獣肉処理会社がカレー製造販売会社と連携して、猪肉カレーを開発・販売している事例(「ディスカバー農山漁村の宝」優良事例に選定)。トヨタ生協による農業体験ツアーをマッチングした事例。NPO法人による桑栽培の事例など、おいでん・さんそんセンターのコーディネートの下、様々な連携が行われている。
 また、「いなか暮らし総合窓口」はいわゆる移住支援。空き家を内覧する「暮らしの参観日」や田舎暮らしガイドブックの出版、また「空き家にあかりを! プロジェクト」と題して空き家片付け大作戦を実施したり、「とよたいなか暮らし博覧会」などのイベントも実施している。この結果、年間20世帯を超える方が移住を実現しているという。ちなみに地区別の移住者グラフの中に「スマイルしようかい」という項目があったが、実はこれ、私が足助町役場で仕事をしていた時に創設した制度。詳細は「三河山間地域の定住施策―愛知県交流居住センターの活動」で説明しているが、大きな成果を挙げているという結果を見ると、やはりうれしい。
 今年度から事務局を務めることとなった「豊森なりわい塾」は、トヨタ自動車(株)の企業CSRによる人材育成事業として今年で第9期目の開催となる。塾生を募集し、山村をフィールドに、森林や食と農、まつりや暮らしなど、フィールドワークとディスカッション等の講座を1年を通して実施するもので、修了生の中には毎週、間伐ボランティアに通う者、移住して農的暮らしを実践した者、福祉施設を開所した者、さらには地域おこし協力隊として長野県へ向かった者などがいる。
 また、移住者の中にはスモールビジネスを起業した者もいる。猟師をしつつ、古民家を改修して、ジビエレストラン「山里カフェmui」をオープンした女性。名古屋コーチン有機野菜の販売をする「てくてく農園」。Iターン女子グループによる菓子工房「すぎん工房」。また、廃校を利用して様々な事業に取り組む「つくラッセル」など、最近の豊田の山村地域における元気な取組も紹介いただいた。すべてが成功するわけもないが、十に一つでも残っていけばいいと語っていた。
 センターには鈴木さんの他に7名のスタッフがいる。とは言っても、ほとんどは非常勤スタッフのようだ。年間予算は約5000万円で95%は市からの委託だが、これからは自主事業をもっと増やしていきたいと言っていた。確かに山村地域は豊田市と合併して、豊潤な予算がつくようになった。私が足助町で定住促進に取り組んでいた時は、チラシなどもほとんど自作で、農山村体験も地域の方と連携し、ほとんど手弁当で実施していた。それに比べると、パンフレットなどもはるかにきれいで説得力がある。
 しかし予算もさることながら、鈴木さんが旭地区在住で自ら農山村の暮らしを実践していることに加え、市役所時代に産業振興を長く担当してきたこともこの成果につながっている。予想以上に移住や企業等との連携が進んでいることに驚いた。質疑応答の際に「移住者への土地等の譲渡に当たって、農地や林地が障害にならないか」と訊いたが、「農地については農地法の規制があるが、林地については薪取りの場にもなることから特に障害となることはない」との答え。なるほどそうなのか。10数年前と比較して森林作業への理解が進んでいるのかもしれない。終了後、名刺交換をした際に「移住施策については、足助町時代の取組がベースになっている」と言っていただき、うれしかった。
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 小1時間の説明が終わり、支所から足助の町並み地区に向かっていく。ちょうど支所前の広場に花車が止まり、多くの氏子で賑わっていた。巴橋を渡り、西町の筋を東に向かうと、2004年に整備された「塩の道ずれ家」の前を通って、足助商工会から中橋を渡って新町に入っていく。各家が紺と白の祭りの幔幕で覆われ、軒下には提灯もさがり風情がある。マンリン書店はきれいに改修したようだ。その横のマンリン小路を上がっていくと、次の目的地、「寿ゞ家」に着いた。
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マンリン小路
 迎えてくれたのは所有者の天野博之さん。入り口に「地域人文化学研究所」というパンフレットが置いてある。天野さんが設立した市民団体だ。まず2階の大広間に上がる。正面ステージのバックには壁一面、富士山の絵が描かれている。それにしても畳がベコベコして、相当に古い。最初に天野さんから「寿ゞ家」の来歴等について話を伺う。まず口頭一番「足助の重要伝統的建造物群保存地区選定の活動は私が始めました」と言われた。少しびっくり。天野さんは豊田市文化財課に勤める市職員。市町村合併がされた当時、市役所内で都市整備部局の担当者が足助での環境整備について話しているのを聞き、それでは古い建物がすっかり価値のないものになってしまうのではないかと危惧したことが始まり。それで、重伝建地区の指定はできないだろうかと、足助の町に入っていった。足助はかつて、昭和50年代に一度、伝建地区の選定に向けて動いた時期があったが、商売に差し付けるということで断念した過去がある。しかし町に入ってみると、みんなそんな過去のことなどすっかり忘れていた。それで2011年、愛知県で初めての重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
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寿ゞ家
 「寿ゞ家」は江戸時代から続く旅籠「鈴屋」だったが、4代目の宇太郎さんの代に料亭に転じ、その後は「寿ゞ家」と号しているとのこと。大広間の広さは30畳。地下で調理等を行い、1階には雰囲気のある座敷や洋室が並び、2階は大広間という造り。大正13年頃の建築と言われたと思う。南側には2階建ての新館があって、ここも和室が数部屋並んでいる。当初は前の所有者から借りていたが、その後購入してくれという話になり、思い切って天野さんが購入したとのこと。現在は使用料をもらって各部屋を貸している。実際に大広間から花火大会を見たり、月見会や足助おどりの練習などで利用されている。また、3月3日には豊田市のご当地アイドルSTART☆Tのコンサートがあり、大広間に100人もの人が詰めかけたとのこと。よく潰れなかったものだ。
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大広間のステージ
 しかし実はトイレや水道がない。そこで本館の北側に増築されたRC造部分を撤去し、水道を敷設してトイレを整備するため、昨年8月からクラウド・ファウンディングを開始。無事、目標の500万円を集めることができた。自費と補助金も利用して2100万円の予算でこれから整備工事を取り掛かるとのこと。その後、本館1階や南館も見学したが、改修のための家財の移動もあり、特に南館はしっかり見ることができなかった。「寿ゞ家再生プロジェクト」のHPにしっかりと画像が並んでいるのでご覧ください。まだまだ天野さんの活動は始まったばかり。とよた世間遺産の認定など、足助地区に限らず、地域づくりの支援活動も多様に展開している様子。これからますますの活躍を期待したい。
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マンリン小路を上から
 「寿ゞ家」を出て、面する地蔵小路を下っていくと足助の街道筋の町並みに出る。正面には大規模な商家「旧紙屋鈴木家」が改修工事中。全部で17棟もの建物で成る大豪邸で、私が初めて足助町を訪れた30年近く前には、不在所有者との交渉がうまく行っていないと町役場の方が嘆いておられた。時間はかかったが無事、市による買収ができて改修工事に進むことができたようだ。完成したらぜひ内部を見学してみたい。
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妻入り商家が並ぶ
 その後、田口家や太田家、足助中馬館、莨屋などの古い商家を見て回る。それから真弓橋を渡って新道に出て戻っていくと、正面から花車の列がやってきた。後ろにクルマの渋滞ができているのもお構いなし。帰りは足助橋を渡り、もう一度、旧街道を歩いて戻っていった。ほぼ10年振りに訪れるが、町並みはほとんど変わっていない。いや、私が働いていた17年前よりもきれいになっている。商工会前の広場では西町の花車が片付けを始めていた。最後に香嵐渓の入り口、赤い待月橋を渡って駐車場まで戻った。
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花車
 久しぶりの足助は楽しかった。うれしかった。そしてさらに元気になっていた。私もその元気さを少しばかりお裾分けしてもらい、昔、毎日通った道路を懐かしく運転をして、帰途についた。