3.11後の建築と社会デザイン

 東日本大震災が発生して概ね4ヶ月後の2011年7月16日に行われたシンポジウムの記録である。消費社会研究家の三浦展氏と建築家の藤村龍至氏が司会をして、多くの豪華なメンバーがパネラーとして参加し、2部に亘って開催された。第1部では、建築家の山本理顕氏、リクルートの島原万丈氏、建築家の大月敏雄氏、NPO論の中村陽一氏、福祉社会学の藤村正之氏、経済学者の松原隆一郎氏が参加。また第2部では、建築家の家成俊勝氏、松隈章氏、永山祐子氏、大野秀敏氏、福祉社会学の広井良典氏、コミュニティデザイナーの山崎亮氏、それに第1部から山本理顕氏も参加している。

 一般的にシンポジウムでは、パネラーの方がそれぞれ独自の意見を披露し、意見交換で多少噛み合ったり、合意し合ったりしてお茶を濁して終了するというパターンが多い。本書でもそうした傾向があるが、登場するメンバーが豪華なだけに視点が多様で面白い。

 とは言っても、山本氏の「一家族」=「一住宅」という前提を改めなければならないとか、これからの時代、コミュニティが大事だよねとか、シェア社会の到来とか、最近よく言われる事柄から大きく違う視点が示されているわけではない。それはある意味、建築家も社会の中で活動をしているということに他ならない。

 興味を引いたのは、大月氏、大野氏の言動と三浦展の終わりの論文。逆に中村陽一氏のNPO論は抽象論の域を出ず、つまらなかった。たぶん東日本大震災後のボランティア論を語るには、まだ早すぎたのだろう。今となっては当たり前の言葉だが、遡って読み返すのも悪くはない。忘れていた思いや議論を思い出す。

●「消費者」という言葉を誰が発明したか知りませんが、その言葉が生産と消費の関係をよく表しているようにも思います。つまり、私たちが「消費者」として扱われてきたという点です。・・・でもはたして「消費者」と呼んでいいのか。私たちの日常が消費者としてあるかというと、私はちょっと違うような気がしています。「消費者」ではなくて「生活者」だと思うんです。必ずしも常に消費と結びついていない、そういう視点が欠けていたような気がするんですね。(P82)
●はたして、われわれの身の周りに肉体的にも経済的にも自立した人がそんなにもいるのかというと、疑問ですよね。多くの人は、子供がいたり爺ちゃん婆ちゃんがいたりと、自立できない人とともに暮らしている。むしろ自立できない人ばかりが社会を構成するようになっている。つまり地域で地縁にもとづいて暮らしていかざるをえない人がたくさんいるわけです。そうなると、コミュニティベースの建築を提案しはじめなくてはならない。新たなフェイズが訪れているのではないかと思うんです。(P121)
●日常的な空間とは、生活している人があらかじめ用意された図式を乗り越えて違った使い方を実践し、より自分やまわりの人にとって使いやすく改変していく空間だと思います。関係性を構築しながら他者と協働していく行為は、常に予見不可能性や不確実性につながっています。それは、その改変行為自体が開かれていることを意味しています。風景に関してもスクラップ・アンド・ビルドはダメだと思いますが、すべてがずっと固定されて止まっている状態もよいとは思いません。工夫しながら守るものと、生活に寄り添うように使用者自身が改変していくものが共存する状況が風景やコンテクストをつくっていくのではないかと思います。(P163)
●アイデンティティというのは自立した自己ということと絡んでくる話で、自分自身のなかに固有性があると考えられていたわけですね。でも、アイデンティティというのは他者との関係のなかにあると思うんです。・・・それは地域に関しても同じで、ある地域の固有性というのは他の地域との関係のなかから出てくるものだと思うんです。・・・人がたったひとりで生きていくことができないように、地域もその内側だけで生きられるはずがない。そのような関係としてアイデンティティを考えていくとわかりやすいのではないかなと思います。(P212)
●若い世代が一人で高齢者を三人支えなければならないと言われる。しかし発想を逆転して、高齢者が三人で若者一人を支える社会と考えることはできないだろうか。高齢者が自分の資産を活用して若者を支援する、たとえば空いた家や部屋を非常に安く貸すとか、自分の知識や経験や人脈を若い世代に提供していくということも今後は望まれるだろう。(P243)