あなたならどうする孤立死

 1~2ヶ月程前に愛知県内の県営住宅で死後1年近く経った夫婦の白骨死体が発見されるという事件があった。孤立死は死亡者本人や周辺地域住民以上に、住宅所有者にとってこそ経済的な損失が大きいと考えるし、行政よ何とかしろ、と言っていればいい問題ではないと思っている。ではどう捉えればいいのか。

 筆者は、ホスピスで数百人の看取りに従事し、その後は「寺ネット・サンガ」の代表として、生活困窮者の葬送支援や孤立死防止のための見回り活動などを行っている僧侶である。こうした実践家は孤立死をどう捉えているのか、興味を持って本書を手に取った。

 第1章は孤立死の現場に立ち会った経験から筆者の孤立死観が披露される。第2章は湯浅誠氏との対談。そして第3章は新宿区議の鈴木氏、法医学者の反町氏との鼎談という3部構成となっている。同時に関連資料やデータも適宜掲載され、ページ数は少ないが、内容は豊富で充実している。

 何より「孤立死」を、感情的に流されず、明確かつ客観的に扱っている点が好感を持てる。「孤立死」は本人にとっては必ずしも「哀れ」ではない。例え一人でも充足した死もあれば、家族に囲まれていても孤独な死もある。だが、やはり長期間発見されない死は周囲の者や処理をする者、住宅の所有者等に大きな迷惑をかけてしまう。

 葛飾区の調査によれば、年齢が比較的低い高齢者で、健康に不安を感じ、経済的にも厳しい者ほど、近隣住民による支援に対して抵抗感を感じる傾向があると言う。これはかなりショックな結果だ。手を差し伸べなければならない人ほど、その手を拒否する割合が高いと言うのだから。

 孤立死問題を地域のコミュニティや見守り活動により解決しようというアプローチは各地で試みられているし、筆者自身も実践している。しかし一方で孤立死しがちな人々はそうした活動を拒否し、目を逸らすことが多い。

 そうした状況を踏まえ、筆者は日本人の死生観を問う。人間は必ず死ぬ存在だからこそ、いかに死ぬかということをもっと社会的にも個人的にも考えておくことが必要である。「人は生きてきたように死んでいく」「逝き方=生き方」(P24)である。

 孤立死という問題を地域活動や行政課題として対応すべき問題としてのみ捉えるのではなく、日本人の人生観に根ざす問題であり、日本人が作ってきた社会観の問題と思う時、問題の根本と対策が見えてくるような気がする。孤立死問題の根はそれほど深いのであり、日本人万人が考えるべき問題である。

●あなたが人生最期の時、家族に囲まれて穏やかな最期を迎えたいと望むのであれば、今というこの瞬間、家族との関係が良好でなければならない。・・・人は生きてきたようにしか死ねないのだ。(P34)
●人間は自分の死後、自分で歩いて棺桶の中に入ることはできない。誰かの手を煩わせてしまうのである。・・・一般的に、日本人の親の多くは子供に「人に迷惑をかけちゃダメですよ」と教える。一方、インドでは「おまえは人に迷惑をかけて生きるのだから、人のことも許してあげなさい」と子供に教えるらしい。(P41)
●年を取りたくない、死にたくないと思っても、それらから誰も逃れることはできない。私たちの社会で今、必要なことは、その「無力感を共有すること」ではなかろうか? 涙を流し、痛みを共有し、弱さを認め合うこと。それこそが今、最も必要なのではないか。(P63)
●大切なのは、やっぱり普段からの程良い程度の顔の見れる繋がり。無関心と束縛の間にある、ゆるやかな繋がり。(P78)
●たとえば60歳の男性が孤立死したとすると、その人は55歳のときに仕事をクビになり、56歳で奥さん、子どもに逃げられ、57歳で多重債務になり・・・。孤立死が起こってから騒ぐのではなく、例えば、孤立死が起こるリスクがある方に対して、孤立死する前から関わることで・・・その人は死なずにすんだかもしれないということも分かります。それには、死から生を見る視点が社会には欠けているのではないか?(P115)