災害からのすまいと地域の回復

 もう1か月以上前に聞いた講演だが、その夜はそのまま講師を囲む会に参加したため、記憶も薄れ、今日までまとめないままになっていた。テーマは表記のとおりだが、事前に打ち合わせをした際に、「『災害からの住宅誌』で取り上げていた海外での被災後の仮住まいと居住地移動についてもぜひ話してください」と頼んだため、内容が盛り沢山で、私の脳の容量をオーバーフローしてしまったことも一因。そこで、当日のレジュメを頼りに、1か月経ってもまだ覚えている記憶を掘り起こして書き留めておくことにした。

 講師は、京都大学防災研究所の牧紀男准教授。「~『災害からの住宅誌』から~」というサブタイトルを付けていただいた。

 最初に「災害に見舞われると人々は移動する」という見出しで、阪神淡路大震災新潟県中越地震、ハリケーン・カトリーナ東日本大震災で、被災後、人々がどう移動したかを紹介された。阪神・淡路では意外に勤務先がホテルや民間アパートを抑えて社員に提供していたケースが多い。実に被災後1か月半後の時点でも、自ら民間アパートに避難した世帯を上回り、応急仮設住宅居住者よりも多い人々が勤務先提供の住居等に居住していた。

 新潟県中越地震では、防災集団移転事業を行った小千谷市も、村へ帰ろうと呼びかけた山古志村も帰村率はほぼ同じ5割程度になっている。カトリーナでは全米に避難し、その人口は約8割に減少した。東日本大震災では福島原発事故の影響もあってか、沖縄へ移住・避難した世帯が多くあった。

 いずれも被災を機に多くの人が移住している。阪神・淡路では転出者の半数は「転出してよかった」と評価している。実は、移動できる人、流動性の高い社会は災害に強いのではないか? これが第一の問い掛けである。

 防災力を抵抗力と回復力で定義すると、耐震性があるなど抵抗力が高いことも重要だが、たとえ被害を受けても素早く回復できる回復力があることも重要だ。移動力の高い人・流動性のある社会はレジリエンスが高いと言える。

 そこで海外での被災事例から被災者の移動状況を観察してみる。詳細は『災害からの住宅誌』に記載されていたので省略するが、ノマドなど普段から移住して暮らす移民は、被災しても別の地区へ移動してまた新たに生活を始める。実に災害に強い住まいと生活だ。これら東南アジアの国々では被災者への住宅支援は水回りだけを整備し、後は被災者自身に委ねるコアハウジング方式によることが多い。これは居住地全体についても同様で、学校などの基幹施設だけを整備し、後は被災者の自由に任せることが多い。ちなみにカトリーナ台風に見舞われたニューオーリンズでも、インフラの整備を戦略的に行うことで、復興後の市街地の姿を誘導する方策が取られているとのことだ。

 こうした移住文化の背景には、災害前の住宅が借家・借地であることがある。彼らは雇用を求めてどこへでも移住する文化を持っている。そして牧先生は、日本にも戦前にはこうした柔軟性・流動性の文化があったのではないかと問い掛ける。逆に言えば、戦後の持家政策は移動しにくく災害に弱い住まい造りを進めてきたのではないかと問う。

 話は変わるが、被災地へはどのくらい経てば戻ってこられるのだろうか。東日本大震災では海岸沿いの多くの地域が沈降により水面下に没してしまった。原発事故の影響で福島原発の周辺地域はいつ戻れるのか全く目途が立っていない。東海地方では昭和34年の伊勢湾台風の際に湛水地区の避難生活が終了するまでに3か月の期間を要している。こうした復旧までに要する期間で、被災地の復興までの道程は大きく違ってくる。

 加えて今回の東日本大震災では、そもそも人口減少が進みつつある地域での被災だった。最後に、メッシュに区切った将来人口推計等を用いて、名古屋圏で被災した場合の人口回復傾向を図示された。この地域ではまだ人口増が続く地区も少なくないが、産業構造は変化しないという前提での推計であり、昨今の外交や経済情勢の変化によっては、全く楽観できないことは言うまでもない。

 講演後の意見交換で話題になったことは大きく二つ。一つは、津波被害を考えると、RC造建築を義務付けるなど思い切った規制・誘導が必要ではないかという意見。これに対しては、大阪府高石市ではRC又はSRC造3階建ての住宅に対して、固定資産税を1/2に軽減する施策を講じていることが紹介された。けっして不可能なことではないということ。

 そして2点目は耐震改修が本当に防災力向上につながるのかという問題意識だ。耐震改修をするということは、抵抗力は上昇するが、同時に容易には移動できなくなることを意味する。すなわち回復力は減じる。これをどう考えるか。一方で、講演の中にもあったが、借家居住が災害に強いという事実をどう捉えるか。当日はこのことについてもう少し深い意見交換があったように記憶するが、今となっては既に忘却の彼方だ。たぶん議論をした当事者の記憶の中には残り、何らかの形で表れてくるだろうことを期待して、この記録を閉じようと思う。それにしてももっと早くまとめておけばよかった。