高齢者から「つながる」

 先日、高齢者住まい計画関連の会議で、興味深い話を聞いた。委員の一人、K先生が最近経験したこととして、「ある一人住まいの男性から近所の人々に『私はこういう者でけっして悪い人間はないので、万一のときはよろしく』といった内容のチラシが配られた」という話だ。

 住宅関係の会議なので、高齢者が多く居住する公的住宅に地域の見守り活動を導入する計画を説明した際に、O先生から「地域の見守り活動の主体は誰を期待しているのですか」という質問。自治会などの地域組織や福祉系NPO等と返事をしたところ、「今は地域やコミュニティにつながっていない高齢者が増えている。自治会等の活動を待っていても、なかなか多くは救えないなあ」とつぶやかれた。

 ところが、K先生の話は、一人住まいの高齢者が地域の見守り活動が届くのを待つのではなく、高齢者の側から積極的に地域へアプローチしていったという話だ。

 現実はO先生が言うように、地域等からのアプローチを待って、でもついに届かないまま、孤独死などに至ることも多いのだろうが、これからは、待っていても来てくれないなら、高齢者の側から「つながり」を求めていくということが次第に増えていくのかもしれない。もちろんまずは行政にアプローチするのが通常なのだろうが、この男性の場合は、行政よりも地域へアプローチしたという点が興味深い。

 先日読んだ「中国化する日本」では、これからは日本も「中国化」せざるを得ないと言う。この場合の「中国化」とは、宋朝中国をモデルに「理想道徳を掲げて人種を問わず人民を統治し、自由と機会の平等が謳歌される社会」を言う。現在のグローバリズム新自由主義に近いが、当然、社会保障は限りなく低い。そうした状況下で、宋代の中国民衆は、一族はリスクを分散するため離れ離れに暮らし、何かあれば同族同士で助け合い、一族科挙合格者を出せば一族郎党が群がる、そんな宗族と呼ばれる父系血縁ネットワークが形成された。

 日本も少し前までは家族や会社が社会保障を担っていたが、それらが解体されるに従い、行政に社会保障を頼むようになっている。だが今後、行政力が小さくなり、十分期待に応えられなくなると、民衆は個人で社会保障を求めなければならなくなる。

 K先生が経験した高齢者の行動は、こうした動きの一つの表れと見えないこともない。まずは家族につながりを求め、いなかったり遠くて頼りにならないようなら地域にコミュニティを求める。さらに趣味の仲間。いまはIT時代だからFacebookも個人によるつながりを求める社会保障の動きの一つと見ることもできる。

 これまでのように、高齢者は救われる存在としてただじっと行政等が手を差し伸べてくれるのを待つのではなく、高齢者の側から「つながり」を求めていく。社会の形が変わろうとしている。こうした状況に行政はどう応えていくのか。同席されたI先生が「最近は市民後見人という仕組みが注目を集めている」とおっしゃっていた。それも一つの対応のような気がする。制度で支えるのではなく、ネットワークで支え合う時代になりつつあるのだと思う。