日本式都市計画に問われるもの

 愛知県知事選挙に元衆議院議員の大村秀章氏が当選した。その前日、ある都市計画研究者から「市街化調整区域の規制を骨抜きにしようとしている大村氏のマニフェストは許せない」という言葉を聞いた。大村氏のマニフェストには「市街地緑辺集落制度の導入など市街化近隣の調整区域の宅地開発を緩和」と書かれている。市街地緑辺集落制度がどういうものかよく知らないので論評を控えるが、調整区域の宅地開発を解禁しても、今後どれだけの開発力が日本の経済界にあるのか知れたものではない、と思った。もちろん某氏の危惧するのは、幽かな開発余力が市街化区域に向かず、調整区域にばかり集中することで、都市活力につながる機能的な都市像が崩れ、余力の無駄遣いによる都市崩壊を恐れているものと思う。それは理解するが、では日本の都市計画が達成してきたものは何かと問うと、現在の都市像がそれなのであって、それで胸を張れるかと言えば自信がない。

 日本建築学会の建築雑誌20111月号は「未来のスラム」特集である。興味があって手元に取っておいたが、2月号が届いたのであわてて読み出した。難しい論文はさておき、興味を持ったのは二つの鼎談とインタビューである。第1部の「UN-HABITATからの現状報告×『スラムの惑星』」は、長らくスラムの居住地改善を研究してきた日本福祉大の穂坂先生と国際NPO活動で著名な東京外大の伊勢崎先生、そして『スラムの惑星』を訳した日本学術振興会の篠原先生の鼎談である。穂坂先生は、随分前になるが、その著書「アジアの街わたしの住まい」に魅了された。住民の自助努力ベースの地域開発は説得力がある。これに対して伊勢崎先生が「それは『お上』性善説ですね」と一蹴する。伊勢崎氏が早稲田大建築学科吉阪研究室の出身だとは知らなかった。紛争論の立場から「低度の紛争が適度にある状態が一番いい」などラディカルな現実を暴く発言が面白い。篠原氏の訳した「スラムの惑星」はさらに暴露的で救いのない世界を描いているらしい。機会があれば読みたいと思う。

 今回、本誌で一番興味を持ったのは、東京理科大・渡辺教授のインタビュー記事「なぜ今東京にはスラムがないのか?」である。渡辺氏は日本の都市計画について正直に「『都市計画がスラム問題を解決した』というよりも、コントロールが弱かったために『市場メカニズムの力が解決した』とも言えると思います。」と言っている。さらに、圧倒的な住宅不足に対して貧弱な住宅政策を「庭先木賃アパート」や「文化住宅」がカバーした。「政府の『弱い住宅政策』を補うかたちで、庶民の知恵で住宅を建設したのです。出来上がった都市の姿はプロの目から見るとまずいのですが、問題解決の方法としては学ぶべき店があると思います。」と言っている。

 つまり、日本の都市計画は理想を示そうとしたが法権力が弱く、住宅政策に十分な予算を充当することができず、結局、日本の都市を造ってきたのは民間市場であり庶民の力であったということである。

 しかし同時にこうも言っている。「『近代都市計画は、豊かな社会、揃った条件のもとでの都市計画だ』ということです。経済的な豊かさだけでなく、例えば、官僚制や土地登記やマーケット機能など、基本的な社会条件が揃っているという、ある意味で特殊な状況のもとで、技術化され法制化されたものなのです。」つまり、高度成長と相対的に貧弱な行政権という状況の中で、欧米型の都市計画制度を当てはめようとしてきたことには無理があり、現在の状況もむべなるかなというわけだ。

 しかし現在、高度成長を続けている国々においては、日本の失敗と達成の状況こそが参考になる。「21世紀アジアの都市問題に対して、日本の都市計画家や建築家がしっかり貢献できなかったら、『おまえたち20世紀の間中、いったい何やってたの』と問われるのではないでしょうか。」と渡辺氏は檄を送る。

 今回、建築学会が「スラム」を特集したのは、当然、こういう気概と問題意識があるからだろう。そしてそれは日本の現在の都市計画のあり方を見直すことにも通じる。市街化調整区域の開発を容認することは確かに間違っているかも知れない。しかし、それに固執しているだけでも進歩はない。民間市場や庶民の力を相対的に見極めつつ、日本の都市計画制度のあり方について再検討することが必要ではないか。特に、経済的な民間活力が低迷する中で、市民力を生かした都市計画のあり方を構想することは今までの失敗をやり直すためにも是非とも必要なことのように思う。